ジェイコブ⑩
すっかり重くなってしまった空気にひびを入れたのは、どうやってこの場に迷い込んできたのか知らないが一匹の蝶だった。
ライトブルーとエメラルドグリーンを纏った美しい蝶。
真っ黒の膨らんだ腹が、彼女の芋虫時代を思い出させる。
蝶はジェイコブの顔の周りを通り過ぎた後、サラのいくらか肉のついた二の腕に止まった。
「やだどうしよう」
「待った、動いちゃいけない」
払い落とそうとしたサラの手を制し、ジェイコブは蝶を傷つけないように、よせようとしてやめた。
彼女が長い口を伸ばしサラに触れ始めたからだ。
「なにをしてるの?早く取って」
「見てくれ、この子は君の汗をディナーにしている」
「うそ!やだ本当に?」
「汗や尿の成分を栄養とする種なんだよ」
ジェイコブは見逃さなかった。
サラの表情が虫に対する嫌悪から好奇心に変わっていくのを。
目の奥がキラキラ輝いていくのも。
世の人間の半数以上は、虫というだけで汚物でも見るような嫌な顔を見せるものだが(自分たちの方がよっぽど悪性腫瘍と言える存在なのに)サラはどうやらそれに当てはまらなかったようだ。
「きれいね」
サラは呟いた。
ジェイコブはサラを手にかけるのはずっと後でいいか、ともすればそのまま返してやってもいいかと思い始めていた。
お互いの価値観の違いは埋めようにないが、サラがここにいる短い間ぐらい忘れたフリを努めよう。
寛容になれ、ジェイコブ・ブラックバーン。
そこにいるのは一生を添い遂げる相手ではないぞ。
ジェイコブは、島を悪く言われたように感じてしまい怒ってすまなかったとサラに告げた。
サラは、自分は相手のことを何も考えずに発言してしまうことが何度もあり、そんな自分に嫌気が差していると、いかにも落ち込んでいるわといった悲しそうな笑みを貼り付けて話した。
お互いもっと知るべきところがあるんじゃないかと言ったら、サラはホッとしたように綺麗な歯並びを見せて微笑んだ。
さて、都会の女へのご機嫌取りはいつまで続くものか。
それは猫が捕った獲物を半殺し状態でいたぶっているのと同じようなものだった。
蝶は飛び立ち(サラの冷や汗の味はうまかっただろうな)ジェイコブはサラのホテルまで送っていくことにした。
そのまま部屋まで行きサラが用意したアルコールを摂取しホテルの快適なシャワーを浴びて、それから彼女の腕に吸い付いて見せた。さっきの蝶が口をつけていた場所に。
サラはくすぐったそうに身をよじった。
サラは、薬を飲んでいるからゴムはいらないの、そう言って舌を出してみせた。
まるで蝶の皮を被った雌蜘蛛だ。
それなら自分は?
蜘蛛を食らう何かだなと、そう思うとジェイコブは可笑しくてたまらなくなった。
自分が優位だと信じて疑わなかった。




