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ジェイコブ⑨

「わあ、すごい。暗号かなにかなの?」


女は表情を崩して聞いてきた。ちらりと見えた小さな歯が可愛らしい。薄手の黒いワンピースにきれいに巻いた金髪が、少し焼けた肌に似合っていた。


「さあ、なんだと思う?」


女はわからないと言って笑った。帽子をまだ受け取っていない。真っ赤な帽子を。

こんなところに何をしにきたんだろうか。

ここにはこの女が望むものなんてなにもないだろうに。


「なにか、大事な人との記念日とか?」


「いい線だ。例えば君と今日出会ったことを記念にするなら、150607と日づけを入れてその間に君の名前を、」


「サラ」


「じゃあSを。それから赤い帽子が降ってきたからR、それから美人だったと付け加えなきゃな」


「いつもこういう手口を使っているの?」


女はジェイコブに刻まれたパスワードの一つを指でなぞった。


慣れているなとジェイコブは思った。

こういった、くだらない駆け引きにこの女は慣れている。それはジェイコブも同じだったが。


「こんなにたくさん記念の相手がいるなんて、あなたってモテるのね」


イタズラっぽい笑みを浮かべサラは笑った。

ジェイコブの嘘を見抜いたのか、それともそういう人間だと解釈したのか。


割りきってくれた方が手っ取り早いのだがとジェイコブは思う。

こうやって島に一夜限りの出会いを求め、中途半端に金を持った女が一人旅を称してやって来るのは珍しいことじゃない。


「名前を刻みたいと思う相手には、なかなか出会うことはないよ」


「じゃあこれはもっと違う意味があるのかしら」


「さあどうだろうな、君はそんなに俺に興味があるのかな?サラ」


「ええ、名前を知りたいくらいには」


「おっと失礼。ジェイコブだ」


「ここの人なの?島の住民?」


「ああ一応ね。とはいっても親はイギリス人で俺がここ生まれなだけだ」


「あら私もイギリスよ。驚いた、こんなところで同じ国の人に会うなんて」


「イギリス人はどこにでもいるからな。サラ、良かったら島を案内しようか?君には特別ただでガイドをしよう、どうだい?」


「ほんと?私ラッキーだわ!森の奥まで行ってみたかったの。でも一人で行って戻れなくなったらどうしようかと思って。嬉しい、ぜひお願いするわ」


「喜んで。けど今日はもう遅い、宿まで送っていくよ」


ジェイコブは帽子を渡しながらサラの腕に触れた。それから腰を抱き、向かい合って帽子を被せてやった。

風に揺れる髪を直し、女の頬を撫でる。

サラは微笑んでいた。ジェイコブも笑みを浮かべる。

もうこの女の命を握ったも同然だった。楽しむも逃がすも殺すのも。


並んで海岸を歩きながら、他愛のない会話をする。


彼女は貿易会社の事務員で、日々の仕事に忙殺され体調を崩して嫌気が差し、とうとう溜め込んだ有給を使うべく思い切ってここに旅行に来たそうだ。


「あえて遠い場所を選んだの。すぐに来いと言われても戻れないところにね」


「いい考えだな、上司も驚いたろ」


「クビになるかも」


そういいつつサラは全然気にしてないようだった。

もうとっくに辞めたのかもしれない。

ジェイコブには関係のない話だから詳しく聞きもしなかった。


「あなたはもう戻る気はないの?」


「どこへ?」


「イギリスによ」


「ここに家と仕事がある。ここが故郷だよ。戻る必要はない」


「そうなの?こんな所にずっといるなんてもったいないわ」


サラは何の気もなしに、ただ思ったことを口にした。

思ってしまったのだ。

ジェイコブには男としての魅力があった。くしゃくしゃの黒い髪にはっきりとした顔立ち。ブルーの瞳は美しいし、日焼けした肌も引き締まった体も素敵だった。

奇妙なタトゥーも見慣れてしまえば彼を引き立てる武器だった。


だからこそ、サラは思ったのだ。

こんな島で一生を終えるなんてもったいないと。外にはもっと別の世界があり、隣に並ぶこの男はそこでもやっていけるだろうと素直に思った。


しかしサラの言葉は彼女が全く思っても見なかった結果をもたらした。


ジェイコブの顔には明らかに不愉快だという、怒りの表情が見えていたのだ。

顔がこわばっている。不快だと言わんばかりに。

会社の取引相手の対応などをするサラには、相手の反応を見てすぐにジェイコブを怒らせたことがわかったが、理由まではわからなかった。


「ごめんなさい私、その、あなたの気を損ねて……」


それでも謝罪の言葉が出てしまったのは、先ほどまでの雰囲気を壊したくなかったからだった。

お互い相手を気に入っていた気がしたし、きっと自分が帰国するまでの間何度か寝ることになるだろうと、そんなことを妄想していたから。


せっかくのバカンスをぶち壊したくなかった。 


「ジェイコブ、その、」


「俺は都会で自分を飾り立ていい車や家、ご近所に自慢できるような仕事を持つことに優越感を感じる人間じゃないんだよサラ。お高い服も時計もバッグも靴も。名刺なんてくそくらえだ。君にはわからないだろうな。この島の良さがわかるものか。命を育む海の偉大さが生を謳歌する小さな生き物たちの輝きがそれを包み込む自然の母性が目が眩むほどの星空の雄大さがきっと君にはわからない。都会の人間は何も見ようとしないからな!」


「ジェイコブごめんなさい」


サラは面倒な地元民に関わってしまったことを後悔し始めた。


この男は都会で自らをあれこれ飾り立てなくても、とんでもないプライドの持ち主だったようだ。


一瞬の甘いひとときが嘘のようだった。





ジェイコブはこのやり方はまずいと自分ではわかっていたものの止められなかった。島を馬鹿にされたようで我慢ならなかったのだ。

頭の奥では冷静になれない自分に半ば呆れてもいた。アーサーなら絶対にもっとうまくやるだろう。


プロの意識を持て、ジェイコブ。


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