ベランダにて
「さすらいのベランダ 掴み取れない」の二つのお題をいただいて書いてみたのですが……さてさて?
俺はごらんの通りの男やもめだ。だからベランダに花を植えようなんて思いつくはずもない。
だから、そこは雨ざらしのコンクリートがの床につっかけが一つ転がっているだけの、洗濯を干すためにしか使われない殺風景な建築上の出っ張り部分でしかなかった。
もし……ある朝、洗濯を干すためカーテンを開けると、そこが一変しているなんてことがあったら……いや、リフォームとかという話じゃない。元からあったベランダを切りとって、他の建物からくりぬいたように全く違うベランダがぽっかりと現れたら……?
普通ならば目の前にある状況を理解しようと思考を巡らせ、しばし立ち尽くすだろう。
だから俺も、ややしばらくの間、洗濯かごを抱えたままで馬鹿みたいに口を開いて立っていた。
「なんだ……こりゃあ……」
まずは広さが違う。うちのベランダは少し太めの俺には窮屈なほどの幅しかなかったはずなのだが、今はそれも悠々とした奥行で、室内とさほど変わらない広さが十分に確保されている。
足元は長い毛足の絨毯が敷きつめられ、その真ん中にちんまりと置かれたピンク色のソファはここの主が若い女の子であろうという思いを俺に起こさせた。
案の定、主と思しき人物は小柄な女である。彼女はベランダの隅に立って、大きな鉢植えの植物に水をくれている最中だ。
この鉢植えというのが珍奇で、ちょっとおごった瀬戸焼っぽい植木鉢に植えられているのだから観葉なのだと容易に想像がつく。しかし丈は2メートルほどもあり、枝は大きく横に張り出してベランダ全体を屋根のように覆っている。
そして枝には、一枝ごとに種類の違う果物がぶら下がっている。室内に近い枝に実っているのはリンゴだが、少し離れた枝には実りきっていないライチがぶら下がっている……という具合に。
あとは、俺ではわからないような計器や配線で物々しく飾られた謎の装置が置かれているだけ、それだけの部屋である。
とはいえ、ここは俺の家のベランダだったはずだ。ここの所有権は俺にあるのだし、何よりこのままでは洗濯物の干し場に困る。
だから俺はちょっと凄みを聞かせた声で言った。
「おい、あんた! 誰に断ってこんなところに部屋を作ったんだ!」
女は水やりの手を止めて俺に顔を向けた。
「ふむ、君は冷静であるな」
やはり若い女だ。下手をしたら高校生くらいではないかという、小柄で童顔な女だ。
しかしその声は鋭く、どこか老獪を感じさせる。
「ここの所有者であるかな?」
やっぱり、口調からしてみためほどに若くはない。どこかの老博士を相手にしているような気分だ。
それでも主張だけはさせてもらわないと、洗濯かごを抱えたままでいつまでも突っ立っているわけにはいかない。
「ここは俺の家だ。だからここのベランダも当然、俺のものということになるな」
「ほう? ふむ……ちょっと待っておれ」
女は謎の機械に歩み寄ると表面を撫でまわすようなしぐさをした。そのたびに計器が揺れ、ちかちかとライトが点滅するのを見るに、何らかの端末なのだろう。
ややあって、女は俺に向かって微笑みかけた。
「残念だったね、この時代のこういった形式の建物の場合、ベランダおよびバルコニーは共有であり、居住者に認められているのは使用権でしかない」
「これのどこがベランダだよ!」
「ふむ、確かにこれはベランダではないよ、過去人君」
奇妙な言い回しに俺の胸がざわめいた。
「未来人気取りかよ……」
「気取りではない。未来人なのだよ……君から見たら、だがね」
女は心底楽しそうに声を立てて笑う。
「これはベランダにあらず。『SASURA=イノ=べ=ランダー』だよ」
「さすらいのベランダ?」
「いやいや、これは私の時代での登録商標でね、イノという人物が開発した亜時空発生装置という意味であるのだよ」
「それって……まさか……」
「そう、この時代で言うところのタイムマシンっていうことさ」
「まさか……そんなばかな……理論上は可能といわれているけれど……実現は不可能なはず!」
「理論があって、技術がそれに追いついてさえいれば、不可能なことなどないさ。なんなら原理を説明しようか?」
「いや、いい……どうせ理解できないから……」
「しかし君は本当に落ち着いているなぁ。どの過去人もこれを見ると慌てふためくというのに」
いや、俺だってまったく動揺していないわけではない。顔に出にくい性質なのだ。
それに、ここに入居するときに家賃がやたらと安かった理由が……たった今、腑に落ちた。
「出るって聞いてたけど……幽霊じゃなくて未来人だとはなあ……」
俺の言葉に、彼女の瞳がキラキラと輝きだす。
「ほう! 出たのか! いつ?」
「もう何年も前だって聞いたよ……ってか、自分のことなんだから俺よりも知っているだろう?」
「そうではないよ。私は時間を遡上する旅をしている。つまり君の言う過去というのは、これから私が向かう先なのだよ」
それから神妙な顔をして、彼女は謎の装置を撫でまわす。
「しかし……これで次の時空逆行の成功は確証が得られたわけであるな」
「時間逆行……つまり、過去に行くってことだよな。なにをしに?」
「人類の未来を植え付けるために」
「はあ?」
「君はさあ、サルが本当に人間に進化したと信じているクチかね?」
「違うのか?」
「え~っと、ここは21世紀だよね。この時点ではまだミッシングリングは埋まっていないわけだ……そうすると、これは未来の情報ということになるから、教えるわけにはいかないなぁ」
「なんかそれ、ずるくないか?」
「ずるくはない。この世の中の歴史というのは、始まりから終わりまですべて決まっていて、今、ここで君と私が出会ったのも全て決まっていた歴史の流れなのだよ」
「決まっているんだったら、教えてくれてもどうってことないだろ」
「いいや、ここで私が君に未来の情報を教えないということも、決まっていることなのだよ」
「へえ、それは……ところで、そろそろ洗濯物干してもいいかな?」
「あと少しだけ待ってくれ。時間遡上は亜時空発生装置に負荷がかかるからな、こうして時間のあいまあいまに浮上してのクールダウンが必要になるんだ」
「はあ、じゃあ、もう少しだけな」
洗濯かごを足元に下ろして、俺はふと、自分よりもはるかに年下に見えるこの女が痛々しいもののように思えた。
何しろ彼女は一人で時間の中を旅しているのだ。どの時間から来たか知らないが、数千年、下手すれば数万年という年月をたった一人で……
だから俺は部屋の中に取って返し、冷蔵庫から買い置きのジュースを二本とりだして彼女の元へ戻った。
「ほら、未来人が何を食うのか知らないが、ジュースぐらい飲むんだろ」
「いや、お構いなく。じきに失礼するのでな」
「いいから、飲めよ、せっかくだからさあ!」
手の中に冷えた缶を押し付けると、女は一瞬だけびっくりしたような顔をした。
もっともそれは一瞬のことで、次の瞬間には花が咲くような無垢な笑顔をこぼす。
「もてなされたのは初めてだ」
「ああ、そうかい」
「しかし、これはどうやって開けるものなのだ?」
「貸してみろ」
ぷしっと小気味よく音を立ててプルタブを起こす。
彼女は眼を見開いて、それからコロコロと笑った。
「なるほど、過去人もなかなかやるなぁ。密閉させることによって食物を腐敗させる菌の繁殖を防ぎ……」
「いいから、飲めよ」
「うむ。いただこう」
さもおいしそうにのどを鳴らして缶を傾ける彼女は、どこからどう見ても普通の女だ。
だから余計に哀れを感じる。声も優しくなろうというモノだ。
「なあ、お前はどの時代から来たの? それも内緒?」
「細かな年代までは教えられないがな、『人類の終焉』と呼ばれているところからだ」
「終焉……」
「そんな驚いた顔をすることもなかろう。何事にも始まりがあって終わりがあるは道理であるぞ」
滅亡と同意義の言葉を告げながらも、女の表情は穏やかに凪いでいる。声の調子一つ変わるわけでない。
だから滅亡さえも決められた『歴史』の一つなのだろうと、俺はひどく納得した。
彼女はもう一口、こくりとジュースを飲んで続ける。
「もっとも、君の人生にこの終焉は何の関わりもない。君にとってはひどく遠い未来の話であるからな」
「原因は……やっぱり、環境問題とか……?」
「『何の関わりもない』と言ったはずであるが? この時代にある何物も終焉の遠因にすらならない。君たち過去人が想像もできないような理由で人類は終わりを迎えるのさ」
「想像もできない?」
「なあ過去人君、進化の究極の形とは、なんだと思う?」
「究極の……よくわからないが……歳をとらないとか、死なないとかかな」
「うむうむ。この時代の人間は思考が健全でよろしい」
「違うのかよ、じゃあ正解はなんだよ」
「それは教えるわけにいかない未来である。想像して楽しむがよいぞ」
彼女はジュースの缶を俺に押し付けた。
「あ? まだ残っているじゃないか」
「いや、もう行かなくては……クールダウンが終わったのでな」
先ほどから聞こえていた風の吹くような微かな音が動力音だと理解できたのは、その音の質が変化したからだ。でたらめにパイプオルガンをかき鳴らすような、不規則な騒音を発して、謎の装置は微振動を始めた。
――彼女が笑っているから、俺が取り乱すのはおかしいことなのかもしれない。だけど、このまま彼女と別れたくない、もう少しだけここにいて欲しいと強く思う。
彼女がどんな原理でどこまで旅をするのかは知らないが、人類の種をまくという言葉の通りならば、これからさらに気が遠くなるほどの時間をさかのぼらなくてはならないのだ。
それを考えると、きゅうと締め付けられるような感覚が全身に走る。いや、本当に肉が縮んでいるわけではなく、もちろん心が締め付けられているのだ。
そんな俺の気持ちも知らず、彼女はとびきりの笑顔をこちらに投げた。
「過去人君!」
声を聞くだけで泣きそうな気分になる。びりっと体が震えるほど本能的なこの寂寥は、いったい何の感情によるものなのだろうか。
「ほんの一時だったが、実に楽しかった! まさか遠いご先祖様に出会えるとは、この旅も決して悪くはない!」
「先祖? 俺が?」
「ああ、先ほどメンテナンスのついでにデータ照会した。何代はなれているのかまでは未来を明かすことになるから言えないが、私は君の直系の子孫なのだよ」
「そうか……」
この寂しさは、家族と別れるときに感じるものか。呼び合う血と血のつながりを振りきって二度と会えない旅路に向かう家族を見送るときの、原初的な哀しみというものか……
「なるほど……そういえばお前、うちのお袋に似ているわ」
「うむ。それは光栄だ」
気が付けば……彼女の晴れがましい表情のただ一点、目元のみが曇って、ぽたぽたと大粒の涙を流している。
「何で泣いてるんだよ」
「わからぬ……しかし過去人君、君も泣いているではないか」
そう、俺も先ほどから頬を伝う涙の感触に気づいてはいた。だが泣いているという自覚などないのだから、これは……涙じゃないのだと思いたい。
それでも少しばかり頬を拭ってから、俺は彼女に缶ジュースの残りを差し出す。
「持って行けよ。どこまでいくのか知らないが、道中でも飲めるだろ」
時間遡上はすでに始まっているらしい。彼女の体はゆっくりと色彩を失い、透け始めている。しかし、言葉はまだ伝わっている。
「ありがたくいただこう。今日の記念にもなる」
「記念かよ。だったらもっといいものを持たせてやればよかったな」
「何を言うか、これでも十分すぎるくらいだ。決して交わることの無い過去と未来が交わった、そしてそこに同じ血統の二人が居合わせた……これは確率でいえば決してありえない、まさに偶然というやつだ」
指の長い、華奢な手がジュースの缶に伸びる。それもすでに色を失ってはいるのだが。
「このような偶然に何かあらかじめの準備などできるわけがなかろう。それでも我が先祖は、私を拒絶するでなく、きちんともてなしてくれた。その心がうれしいのだよ」
指先はかなり透き通って今にも空気に溶け込みそうだが、缶の腹にしっかりと触れている。まだ、その感覚がある。
「たっしゃでな、ご先祖様」
「お前こそ!」
ひゅおん、と耳障りな風なりに似た音が響き渡り、彼女の姿も、奇妙なベランダも……消えた。
最後の最後に彼女がつかみそこなった缶は床に落ち、中に残っていた液体をだくだくと垂れ流している。もちろん、見慣れた狭いベランダの、冷たいくらいに無機質なコンクリートの上に、だ……
錆びかけた物干しざおが風に吹かれて寂しげな音を立てる。
俺は空を見上げて、今しがたまでここにいた珍客の行く末に、もう思いをはせはじめていたのだが――人類の始まりまで行くというのはどれほどの長い旅になるのだろうか、想像すら及ばない。そして彼女がそこで何をするのかさえ――『過去人』である俺には思い及ぶことすらないというのがただ……何とも悔しい気分であった。