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第五章 月夜に現れた暗殺者

 その夜、アオイは一人で寝室にいた。

 シオンが外出中のため、寝室には警護がいない。コウとオールが手前の部屋で待機しているだけだ。

 命を狙われているとはいえ、嫁入り前の乙女の寝室で若い男が夜を明かすなど、あってはならないのだ。

 勿論、異変を感じ取れば二人は問答無用で寝室に飛び込んでくる事になっている。

 二人に護られているという安心感を胸に、アオイは寝間着に着替えようとして、ふと手を止めた。

(……シオンもいないし、今なら……)

 昼間にオールの言葉によって思い付いた事が、衝動となってアオイを突き動かす。

 ちらりと、二人が待機している部屋に続く扉を見て、音を立てないように窓へ近付く。テラスに続いているその窓をそっと開け、裸足のまま部屋を抜け出した。

 庭へ降りられないかと手摺から下を覗き込むが、テラスは思っていたより高く、それは断念する。ロープの一本もあれば何とかなっただろうが、寝室にそんなものはない。

「……はぁ」

 夜に一人で庭にでも出れば、犯人がやってくるんじゃないかと思ったのだが、よくよく考えれば此処は国内でも有数の貴族ラピス家の屋敷なのだ。警備は厳重になされており、忍び込む事は容易ではない。

 自分の考えの甘さに、アオイは溜め息をつき、空を見上げた。

 細い月が、地上を嘲笑っているかのように輝いている。

(いつまで、こんな生活が続くのかな……命を狙われながら、怯えて暮らすなんて……)

 何だか切なくなって、拳を握り締める。

 こんな生活がずっと続くのだと思うと、憂鬱でしかない。無意識に溜め息が零れ出て、更に気分が沈んでいく。

「……眠れないのか?」

 不意に背後から声が掛かり、アオイは弾かれたように振り返った。

 其処に立っていた人物に、アオイは安堵なのか緊張なのかよく解らない心地で名を呟く。

「……コウ」

 テラスは寝室からしか出られないようになっているのだが、コウは何か用でもあって寝室に入ってきたのだろうか。

「何かあったの?」

「いや。寝室からお前の気配が消えた気がして、部屋をノックしたんだが、返事がなかったから勝手に入った……」

「そっか……心配掛けちゃってごめんね」

 アオイは自嘲気味な笑みを零す。コウは首を横に振った。

「お前が無事ならそれで良い」

 しかし、そう言った彼の表情が、妙に暗く見えた。

 よく解らないが、痛いものを抱えているような、そんな顔だ。

「コウ……何か、悩みでもあるの? 私で良ければ話聞くけど……」

 思わず彼の深紅の双眸を覗き込む。だが彼はふっと視線を逸らしてしまった。

「……いや」

「話したくないなら無理には聞かないけど……でも、辛そうだよ?」

「そう見えるか?」

「うん」

 アオイは切なげに目を細め、ほとんど衝動のまま、彼の頬へ手を伸ばす。

「……少しでも、コウの心が軽くなれば……」

 言いながら、優しく彼の頬を撫でる。

「―――っ」

 コウは、何かを堪えるように目を閉じた。

 アオイが触れている頬から、とても心地よい優しい温もりが流れ込んでくる。

 それは先日手の傷を癒したのと、同じ感覚だった。

 まるで、心が洗われるような気がしてくる。

 昔から使える不思議な力だと言っていたが、その力は実際の怪我だけでなく、心にまで作用するのだろうか。

「……っ!」

 コウは、突然足を退いてアオイから離れた。

「あ、ご、ごめんなさい……」

 その反応を拒絶と受け取り、アオイは寂しそうに目を伏せる。

 それは先日手の傷を癒してくれた直後に見せた、気味が悪いと自嘲した笑みと同じ表情だ。

 それを目の当たりにして、コウは視線を落とした。

「違う……気味が悪いと思った訳じゃない」

 否定するが、アオイは表情を変えず首を横に振る。

「良いのよ、コウ……自分でも、気持ち悪い力だと思うから」

「俺はそんな風に思ってない」

「でも……」

「お前は先日もその力を卑下していたが、過去に何か言われたのか?」

 コウがそう尋ねると、アオイは傷付いたような表情を浮かべて俯いた。

 どうやら、図星だ。

「……俺の反応で、嫌な事を思い出させてすまない。だが俺はお前の力を気味悪いとは思わない……ただ、お前の優しさが直接流れ込んできて……何と言うか、どうしたら良いか解らなくなったんだ」

「え?」

「俺は、優しさに慣れてないからな……」

 コウはアオイ以上に悲しげな表情でそう言うと、その顔を隠すようにくるりと身を翻した。

「……あまり夜風に当たると身体を冷やす。ほどほどにしろ」

「う、うん」

 彼の表情が気になるものの、彼自身が言おうとしないので追及もできず、アオイは大人しく頷いた。

 部屋に戻っていくコウの後に続いてアオイが寝室へ入ると、彼はベッドの脇で立ち止まっていた。窓を閉めたアオイが何か言いたい事でもあるのかと思いながら近付くと、彼は振り返り彼女の頭をふわりと撫でた。

「……?」

 きょとんとするアオイを見るコウの顔は、とても辛そうに歪められていた。

「……すまない」

「え?」

 突然出た謝罪の言葉の意味が解らず問い返そうとしたが、次の瞬間、アオイは大きなベッドの上に押し倒された。



 シオンが屋敷に戻ったのは、随分夜も更けた頃だった。

 皆寝ているだろうと、勝手口から静かに入り、警護のためにアオイの部屋へ向かう。

 と、闇に包まれる廊下を進んでいると、向かいから明かりを手にした執事、ヴェールがやって来た。

 こんな時間に執事が廊下を歩いている事に怪訝な顔をしながら、シオンは擦れ違おうと廊下の端に寄る。

 しかしヴェールは彼女の前で立ち止まり、小さく会釈した。

「シオン殿、旦那様がお呼びです。至急、書斎へお越し下さい」

 柔らかな物腰は相変わらずだが、何だか今は不気味に見える。それは夜が持つ独特の空気のせいだろうか。

「……解ったわ」

 夜更けだろうと何だろうと、雇い主であるグリーズが呼んでいるのだから、断る理由はない。

 シオンは、ヴェールの後ろへ続く形で、グリーズの書斎へ向かった。

「旦那様、シオン殿をお連れ致しました」

 静かに扉をノックすると、短くそれに応じる声が返ってきた。ヴェールは扉を開け、シオンに入るよう促すと、自身は部屋に入らず、彼女が入った直後に扉を閉めた。

 その事に違和感を覚えながら、シオンは椅子に腰掛けている雇い主に視線を据える。

 机に置かれたランプだけが唯一の光源である書斎はぼんやりとした闇に覆われていて、そのランプに照らされたグリーズの顔に、シオンは小さく息を呑んだ。

 今まで、優しそうな父親、模範的な紳士だと認識していた。しかし、今目の前にいる彼は、そんな雰囲気とはおおよそ結び付かない。

 ぞわりと、背筋に冷たいものが這う。

「……私に、何か御用かしら?」

 平静を装いながら尋ねると、グリーズはうっそりと目を細めた。

 嫌な予感が、シオンの胸を過ぎる。自分の心臓の音が、妙に頭の中に響き出す。

「依頼の内容を、変更したい」

 低い声に、穏やかさは微塵もない。

 グリーズという人物は二人いるのではないかと思ってしまう程、受ける印象が違う。

「変更?」

 シオンは眉を寄せる。アオイを護るという依頼の内容を変更するとは、一体どういう事だろう。

 怪訝な顔をする彼女に、グリーズは席を立った。つかつかと彼女に歩み寄り、至近距離でその紫の瞳を覗き込む。

 そして、彼は驚くべき言葉を口にしたのだった。



 何が起きたのか、解らなかった。

 驚きのあまり声も出ないまま、ふかふかのベッドに沈み込まされたのだ。

 天地が逆転し、一瞬にして両手は頭の上で一括りに押さえつけられ、口を手で塞がれた。

「んんっ?」

 見開かれた青の目に映ったのは、今まで見た事もないほど冷たい目をして自分を見下ろしている、コウの顔だった。

「これが、俺の本当の仕事だ」

 冷淡に紡がれた言葉に、アオイはようやく気付いた。

(コウが、殺害予告をした、犯人だったの……?)

 今この状況からして、それしか考えられない。

 しかし、それを受け入れたくないと、信じたくないと思っている自分がいる。

(護ってくれてたのも、全部、安心させて近付くためだったの……?)

 朝食のスープに盛られた毒に気付いてくれたのも。

 パーティーで攫われそうになった時に助けてくれたのも。

 もう大丈夫だと言ってくれたのも。

 ありがとうと笑ってくれたのも。

 自分の持つ不思議な力を、気味悪くないと言ってくれたのも。

 全て、信用を得て、警戒されずに自分に近付くためだったのだろうか。

(全部、嘘だったの……?)

 それはまるで、雷に打たれたかのようなショックだった。

 知らず知らずのうちに涙が滲んで、溢れ出す。

 その彼女の目を見つめ、コウは一瞬だけ顔を歪めた。

「……すまない」

 二度目の謝罪の言葉と共に、彼は押さえつけていた彼女の口から手を放し、袖口に隠し持っていた短剣を瞬き一つの間に取り出した。

 アオイの首目掛けて振り上げられたその剣は、窓から漏れてくる僅かな月明かりに、きらりと煌めく。

 それを目の当たりにして、アオイは死を覚悟すると同時に、心のどこかで思っていた。

(コウに殺されるなら……)

 口を塞いでいた手が放されたため、悲鳴を上げようと思えば上げられる。

 隣の部屋にはオールがいるはずだ。悲鳴を聞いたら飛んでくるだろう。

 しかし、もし此処へオールが来て自分を助けてくれたとしたら、今度はコウが暗殺を企てた者として捕まってしまう。

 アオイは、自分が殺されようとしているのに、殺そうとしている相手の立場を考えていた。

(私が此処で大人しく殺されれば、私を護り切れなかったという咎めを受ける事はあっても、捕まる事はきっとない……)

 ラピス家の令嬢を暗殺しようとしたとなれば、国王も黙ってはいないだろう。

 例え全てが嘘だったのだとしても、アオイはコウに捕まってほしくないと思っていた。

(なら、良いわ)

 そっと、目を閉じる。

 次の瞬間には、刃が自分の首に届くだろう。

(さよなら……)

 心の中でそう呟き、その時を待つ。

 しかし、覚悟した痛みも衝撃も、いつまで経っても襲ってこなかった。

(……ん?)

 怪訝に思いながら恐る恐る目を開けると、コウはその目に涙を浮かべ、短剣を握る拳を小さく震わせていた。

「……コウ?」

 思わず名を呟く。彼は、はっとしたように目を瞠った。ぽたりと、アオイの頬に涙が落ちる。

「……っ、―――…できない……」

 小さく掠れた声が僅かにそう聞こえた。アオイは驚きに目を瞬く。

 その時だった。

 突如、部屋の扉が勢い良く開き、シオンが飛び込んできた。

「っ!」

 二人が其方を見ると同時に、アオイに覆い被さって短剣を振り翳すコウの姿を見たシオンが、鋭く叫んだ。

「何をしてるの!」

 瞬時に、彼女は太腿に仕込んでいた鞭を取り出し、それをコウの右手目掛けて振るった。

 ビュン、と唸ったそれが、彼の手首に巻きつく。

「くっ」

 痛みに顔を歪めたコウが短剣を取り落とすと同時に、シオンが鞭を強く引く。  思ったほどの手応えもなく、コウはベッドから床に引っ張り落とされた。

 シオンは素早く駆け寄り、落ちた短剣を拾い上げると、それをコウの首に宛がう。

「……暗殺者は、貴方だったのね」

 シオンの声に感情はない。コウは抵抗する様子もなく、無言で視線を落とした。

 それは、肯定。

 シオンはぐっと短剣を持つ手に力を込めた。

「オールには何をしたの?」

 言われてみれば、シオンが飛び込んできたのに、あの赤髪の青年はいない。彼の性格を考えれば一緒に部屋に入ってきそうなものなのだが。

 アオイは呆然としたまま上体を起こすと、一度部屋の出口に視線を向け、それからコウを見下ろす。

 彼は彼女と視線を合わせようとしないまま、小さく呟いた。

「眠らせただけだ。あと数分もすれば起きるだろう」

 それを聞いて、アオイは安堵の息を漏らす。

 そして、そろそろとベッドから降り、シオンの横に膝を折る。

「シオン、放してあげて」

 そっと彼女の肩に手を置くと、彼女は複雑そうな顔をした。

「アオイちゃん……でも、彼は貴方を殺そうとしたのよ」

「ううん。コウは、躊躇ってた……きっと、逆らえない命令か何かだったのよ。そうでしょう?」

 アオイが問うと、コウは顔を背けたまま、唇を噛んだ。

 肯定も否定もしなかったが、その彼の表情が、全てを語っている。

 シオンは短剣を彼の首から外し、押し殺すような声で尋ねた。

「……コウ、貴方に暗殺の命令を下したのは、誰?」

 普段の彼女からは想像もできないような強い声音に、アオイは少しばかり驚きながら、コウの返答を待った。

「……それは、言えない」

「口止めをされているから? それとも、言えないような人物って事?」

 間髪入れずに問い返したシオンに、コウははっとした顔でシオンを見た。

 その彼の反応に、シオンは溜め息をつく。

「……やっぱり、貴方がグリーズに雇われたっていう……?」

「え?」

 シオンの口から出た父の名に、アオイが思わず声を漏らす。すると、シオンは口を押さえて彼女を振り返った。

「え、あっ……いえ……」

 しどろもどろになったシオンに、身を起こしたコウは右手に巻きついた鞭を引き剥がしながら、呆れたように呟く。

「俺が隠し通そうとした事を、お前が言うな」

「……じゃあ、貴方はアオイちゃんに知られたくなくて、隠そうとしたの?」

「知れば傷付くと解ってる事を、軽々しく言えるか」

 その言葉に、シオンが言葉を詰まらせる。

 二人のやり取りを聞いていたアオイは、何だか嫌な予感がしてシオンの腕を掴んだ。

「ねぇ、どういう事? あたしが知ったら傷付くって……?」

 縋るような目を向けるアオイに、シオンは困ったように視線を彷徨わせた。

「教えて、シオン」

 そう乞われ、シオンは小さく息を吐くと、そっとアオイの両肩に手を置いた。そして、ゆっくりと口を開く。

「落ち着いて聞いてね、アオイちゃん」

「うん」

「おい、言うのか?」

 強く遮ったコウに、シオンは彼を振り返らず答える。

「いつかは知る事よ。なら、早い方が良いわ」

 そして、再びアオイの目を真っ直ぐに見つめ、事実を告げる。

「……アオイちゃんを殺そうと企んでいたのは、グリーズ・ラピス、貴方のお父さんなの」

 その言葉に、アオイの瞳が音を立ててひび割れた。

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