第十話 懐かしい姿
河川敷からの帰り道。
俺のマンションの入口に、中型の黒いボックスカーが止まっていた。
運転席には、電話をかける女性の姿がある。あの姿は間違いない。
「渡良瀬少尉!」
コトミとつないだ手を振りほどいて、真っ先に駆けつけた。
【渡良瀬ひとは】少尉は俺を確認し、端末を片付けた。
「電話しても出ないから、家まで来た。いつでも応答できるようにしていろ!」
「すみません」
長かった!
俺は何年、いや何十年も放って置かれたような気分を味わっていた。
制服に模した薄いブルーの半袖シャツを着る渡良瀬少尉は、婦人警官のように見える。相変わらず大きな胸だ。
こころなしか、少尉は海外の基地にいたころよりも美しく感じる。
日本に戻り、きめ細やかな化粧をほどこしているからか。
上品な質感のある黒髪と、お堅いコスチュームが、彼女の魅惑を引きたてる。
「今夜七時に、『山王ユングフラウホテル』に正装して来ること。草刈の歓迎会をやる」
「えっ、今晩? 突然すぎないですか? 正装って、着るものもありませんよ」
「服と靴はこのカバンに入れてある」
少尉は車のドアを開け、助手席にあるケースを寄こしてきた。車内から冷房のヒヤッとした空気が流れてくる。
俺の両手は、スーツとアサルトライフルの二つのケースで塞がった。
あまりに急すぎる。
「どうして、今日なのですか? もしかしてエメ……」
「……ラダ。そうエメラダ」
少尉は俺の言葉に重ねて言った。
俺の脳裏に、淡いグレーの瞳の少女の姿が浮かんだ。彼女は、アイドルユニット、メルティ・アイスの制服に身を包んでいた。
「少尉、ホテルまで送ってくれますか?」
「私はこれからすぐホテルに向かう。普段着ではホテルに入らせて貰えない。時間までしっかり身支度を整えて来たらいい」
「セレブ御用達のホテルですからね。わかりました。自分で行きます」
「むっちー。ウチはそこで食事したことがある。案内してあげようか」
耳元でコトミがささやいた。
「ごきげんよう。草刈コトミさん」
渡良瀬少尉が車内からコトミに向かって敬礼した。
コトミは、少尉と視線を合わせることなく投げやりに礼をした。
態度が悪い。
ただ、渡良瀬少尉の登場によって、俺と過ごすコトミの日常が崩れようとしているのは確かだ。コトミは小さく抗議しているのだ。
「ねー、ウチも行っていい? むっちーの歓迎会なら、いいでしょ」
コトミが子供のようにせがむ。
「お前は、組織の人間じゃないから、出られないよ」
コトミは俺の世界に入ってきてはいけない。
「私がエメラダに聞いてみよう」
少尉は端末を取り出した。
すぐにエメラダは電話に出たようで、少尉はハイハイと快く頷いている。
「オッケーだ」
少尉が右手の親指を立てて見せると、コトミは両腕を上げて喜んだ。
「コトミ、場をわきまえた行動ができるか?」
「ウチを誰だと思ってるかな? パパはエメラダと取引しているくらいの大物だよ」
取引しているのは伯父さんであってお前ではないだろ。
「武装は必要ですか?」
「しなくていい」
少尉は即答した。確かに、歓迎会に武装は似つかわしくない。
「では約束通りの場所と時間で」
「はい。よろしくお願いします」
渡良瀬少尉は俺たちに慈しみに満ちたまなざしを送り、それから車を発進させた。
「あー、イライラする」
車両を見送ったあと、コトミは頭をかきむしりながら、ポツリとつぶやいた。
コトミ!?
「ウチ、暴れてやろっかな。そしたらエメラダも渡良瀬さんもあきれて、むっちーはクビになるよ」
「どうしてそんなことしてくれる?」
「イラつくから」
コトミはやはり嫉妬している。
俺としては少尉と会えたことで、これまでの不安と焦燥は一気に吹き飛んだ。
一つ後悔がある。
俺は、エメラダと少尉の連絡先を知っていた。
どうしてこちらから連絡しなかったのだろうと思う。
『待ち』の姿勢になりすぎていた。
「コトミ、早くしてくれ!」
神楽坂のコトミの家で、彼女の部屋をノックする。
午後七時までにホテルに着かなければならない。
俺はすでに渡良瀬少尉から受け取った正装とやらを身につけた。音楽会の演奏家のような格好で、まったく着慣れない。
「はい、はーい」
コトミはドアをすこし開けて顔を出し、それから照れくさそうに全身を披露した。
両肩が露わになった限りなく純白に近い卯の花色のドレス。
ポニーテールをほどき、長い黒髪を下ろして、落ち着いた雰囲気になっていた。
「大人っぽく攻めたな」
「ははっ。これ昔のやつだから。ピアノの演奏会に着ていったやつ。最近、ドレスとか買ってないから……、ケバい金髪ちゃんと、おばさんが相手なら、こんな間に合わせでいいでしょ」
失礼な。エメラダはケバくないぞ。それに、渡良瀬少尉をおばさんゆーな。
「さてと」
コトミの格好ならば、世界のどこの社交場に出ても、誰も文句を言わないだろう。
「むっちーも似合ってるよ」
コトミは俺の全身を眺め回した。
「ありがと。着たくて着ているわけじゃない」
「あのね、睦月君」
部屋でコトミと一緒に彼女のコーディネートを手伝っていた伯母さんが口を開いた。
「はい」
「世間は物騒でしょ? 山王ユングに向かうなら……、家の車で行ってほしいのね」
「伯母さんからの要望とあれば、ぜひともそうさせていただきます」
安心してください伯母さん。
いま俺の頭は極めてスッキリしている。
デスフラッグが起こっていない。危険な目に合うことはない。
「あまり遅くならないようにね。コトミは午後十時までに帰ってくるように約束ね」
「あーっ、門限つけられたー」
ドレス姿のコトミは反り返り、髪を乱した。




