第一章 ムツキとコトミ
とある雑居ビルの八階にあるネットカフェの狭い一室で、俺はチェアに深く腰をおろして目を瞑っていた。
カフェの店内に、名前の知らないアイドルユニットの曲が流れている。
紙コップの冷めたコーヒーを口に運び、俺は深く息をついた。つぎに、炭酸飲料の喉ごしが欲しくなり、席を立とうとした瞬間、背後からチェア越しに抱きつかれた。
「むっちー、みーつけた!」
少女の金切り声が、頭に響き渡る。声の主はすぐに分かった。
「コトミ! どうしてここにいる!」
俺、【草刈睦月】が振り返った先には、長い髪をポニーテールに結んだ少女がいた。
イトコの【草刈コトミ】だ。
俺は一年間日本を離れていて、彼女と久しぶりに対面した。
コトミの背はすらりと伸びていて、ミニスカートの先の脚も細くて長い印象を受ける。ただ、上半身は華奢なままで、前とほとんど変わりがない。……って、なんで俺は、コトミの胸の発育を気にしているのか。彼女はイトコだ。
今日は、これからコトミの家に行き、伯父さん夫婦に帰国の挨拶をする。ネカフェで適当に予定までの時間をつぶしているところにコトミが現れた。
俺は彼女に居場所を知らせていない。
彼女はどんな魔法を使ったのだろう。
コトミは俺の首に、細っこい腕を回して顔を近づけてきた。
「うわ、よせ」
「なにさー、こっちからわざわざ迎えに来てあげたのに、おかえりのキスくらいいいでしょ」
そう言いつつ、コトミは自分が出た行動に恥じらいを覚えたのか、少し頬を赤く染めた。
「親戚どうしはまずいだろ」
「えー、なおさら問題ないじゃない。外国じゃあみんなキスしまくっているんでしょ?」
「ここは日本」
俺は子供をたしなめるように、同い年の頭にぽんと手を置いた。天使の輪が浮かぶ黒髪の手触りは、なめらかだった。
「わっ、すんごい日焼けしてるー」
頭上の俺の腕をみて、コトミは笑った。
「日差しが強くて、暑い国にいたからね」
「東京も十分暑いのにねー、よく生きていられたね、むっちー。ジュースのコップが空になっているよ。注いで来てあげよっか?」
「自分でやるからいい」
コトミは目元を緩ませて、また顔を寄せてきた。
「ねえねえ、聞いて。ウチ、この店の恋人ビップルームを確保したんだよ! 二人でゆっくり時間を過ごそうよ」
「いらんわっ。そんな部屋」
俺は軽くコトミを突き飛ばした。
「ところで、よく俺を探せたな?」
「ふふーん」
コトミは得意そうに、最新式の携帯端末を掲げた。ストラップはうさぎの小さなぬいぐるみだ。
「GPフォン……」
彼女の魔法の正体だ。俺もそれを使っている。
GPS機能付きの端末を手にするならば、相手がどこにいるのか、いつでもわかる。
俺が日本を離れていたあいだ、こいつから始終監視されていたのかもしれないと思うと、若干の寒気を感じた。
「で、何飲む?」
「コーラでいいよ」
「はいよ」
コトミは新しい紙コップに、ドリンクサーバからボタンを押して液体を注ぐ。
「ダイエットでいいよねー」
「ふつうの砂糖たっぷりのやつが飲みたかったが……」
「あー、もう入れちゃった。捨てる?」
「もったいないからいいよ。飲む飲む」
俺は伸び放題の無造作なヘアをかきむしった。
「コトミは飲まなくていいのか?」
「いらない。こういうところのジュースは安っぽくて、ウチの口には合わないよ。じゃ、映画探してくるね」
コトミは狭いネカフェの個室を出て行った。
勝手気ままに振舞う彼女に、俺は少しイラ立ちを覚えた。
でも、その感覚がとても懐かしくもある。
雑居ビルの安っぽいクーラーの風に当たりながら、あらためて日本に帰ってきたと感じた。
俺は、日本国防軍少年特別専攻科〈略称、特専〉に志願し、国内で一年訓練したあと、東南アジアにある国防軍基地に一年、駐留して帰ってきた。
特専を終えて、俺の顔立ちや体つきは、かなりたくましくなったと思う。なにしろ、拳銃を用いた近接格闘が得意だと自負できるくらいになったのだから。
コーラに口をつけ、炭酸のしぶきを楽しんでいたところ、唐突に寺の鐘を突くような振動が頭の中を廻った。
俺の手から紙コップがするりと抜け落ちた。
いくたびも体験した頭の痛み。
【デスフラッグ】が来た。
俺、草刈睦月は、自分が危機で死ぬ確率を予見する能力を持っている。
その確率は、数値として脳裏に浮かび上がり、知覚することができるのだ。
死亡確率の数値が高くなればなるほど、頭痛やめまいが激しくなり、苦痛を伴う。
この能力を俺はデスフラッグと呼んでいる。
能力のことは誰にも話していないし、教えてもいない。
今、かつてない頭の痛みに苛まれている状態だ。
死亡率50%
「……どうする?」
俺は個室を出て書棚に向かい、鑑賞する映画のタイトルを選んでいたコトミの腕を強引につかんだ。
「あー、まだ選んでいる途中ぅー」
無理やり連れられながら、平和ボケした間抜けな声で彼女は文句を垂れる。
俺は彼女を自席のPCデスクの下に押し込んだ。
「ちょっと、何するの? 乱暴だよ? むっちー。そういうことしたいの? ウチが広い部屋をとっているってばー」
俺は何も答えなかった。
それどころではない事態が起きようとしている。
突如、雑居ビルの狭い店内で銃声が鳴った。
「んーんー」
叫ばんとするコトミの口を俺はフェイスタオルで力いっぱい抑えつけた。コトミは口をもごもごさせて、足をバタつかせる。
彼女は俺の行動よりも、突然の銃声に驚いているはずだ。
「頼む、静かにしてくれ」
アサルトライフルの連射音が店内にけたたましく響く。
息を潜めて気配を探ると……、何者かが個室のドアに向けて弾を数発乱射したあと、扉を蹴り破って突入という行為を繰り返しているようだ。
日中の昼過ぎで客は少ないが、個室の中で撃たれた者、廊下に逃げ出し射撃された者の叫び声が耳に入ってくる。
いよいよ俺たちの個室の方へ、コツコツと床を鳴らす靴音が近づいてくる。
俺はバックパックから防弾チョッキを取り出し、チェアの背もたれに掛けた。それから、拳銃を取り出してセーフティを外した。
「椅子を盾にしてかがめ」
コトミは怯えきっているのか、大人しくデスクの下で体を丸くした。
乱入者は、俺たちのスペースのドア前に立ち止まり、俺が落とした床を這うコーラに気をとめたあと、部屋に数発の銃弾を打ち込んできた。
弾はチェアの背の防弾チョッキが吸収した。
次は、確認のためにドアを蹴破るはずだ。
予測どおりに入ってきた乱入者の首筋に、俺はベレッタで弾を2発撃ち込んだ。
男はその場に力なく倒れた。
「立てるな?」
コトミをデスクの下から引っ張り出す。
彼女は呆然として俺に身を預けた。
俺は仰向けで床に伏せる男を一瞥した。
熱い中、黒ネクタイを締め、黒いスーツを着込み、サングラスをかけた外国人だ。
2発で仕留めたはず。
一体どこぞの不届きものだ!
死体の身元を確認しようとすると、男の手には手榴弾が握られていた。
「……! 全速で走れ」
「ううううううう」
俺はコトミのか細い腕を引いて角を曲がり、ネットカフェ内の書棚の隅で彼女を抱き込んだ。
狭い店内に爆風が舞った。
いくつかの客室が消し飛び、棚が倒壊して本が雪崩れ落ちる。
非常ベルのサイレン音がけたたましく鳴り始め、いやおうなく切迫感を際立たせる。
「出るぞ」
俺はコトミの手をしっかりと握り、横たわる犠牲者を跨ぎ、店を出て階段を下った。
「もー、なんなのあれ。むっちーを狙ってきたのお?」
コトミが涙目になって息を切らす。
俺の方が聞きたいくらいだ。
俺が海外にいる間に東京の治安は悪くなったのか。
「東京では珍しい光景だよな?」
「あたりまえでしょ!」
コトミはヒステリックな声をあげた。
襲撃者は、サングラスに黒いスーツという格好からして、なんらかの組織から送られたと推測できる。無差別テロでなく、俺を狙ってきたのかもしれない。
階段の踊り場で、コトミは足を止めた。
「待って、ビルの下に、車を呼ぶから、待って!」
コトミは自分の家の専属運転手を端末で呼ぼうとする。すると、いつの間に消えていた頭の痛みが、再び俺を襲ってきた。
死亡率35%
「やばい、車を寄越してはダメだ」
俺は荒くコトミの手からGPフォンを払いのけた。
端末は勢い良く音を立てながら階段から落っこちていく。
もしかしたら、壊してしまったかもしれない。
デスフラッグが発動した俺に、彼女の気持ちを考える余裕は持てない。
「もう、なんなのよ。もう」
コトミの瞳から大粒の涙が溢れだした。
彼女は俺の胸を何度も叩きつける。
大人しくさせるために、俺はコトミの頭を胸に抱いた。
「バカバカバカ、最悪ー、ウチが知っていたむっちーはどこにいっちゃったの? むっちーは変わっちゃったよ。ほんと、ウチが知っていたむっちーを返してよ。ウチが知っていたむっちーを、草刈睦月を返してよー」
コトミは俺の胸の中で、ひくひくと喉を詰まらせてむせび泣いた。
「ゴメンな。人が銃で撃たれて、俺が人を撃つところを見せてしまって。びっくりさせてゴメンな。怖かったろ」
「もう……、ショックだよ……」
再会の場面としては、いささか刺激的すぎた。
俺はただ、階段の踊り場でコトミを抱きしめることしかできなかった。
そう、俺のめまいとはげしい頭痛……。
デスフラッグがおさまるまで。




