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短編

蛇口の蓋

作者: 荻雅 康一

 春が近づいてきたんだな、と窓の外からの日差しで男は思った。開いていた本をゆっくりと閉じた。だいぶ前に駅の本屋で買ったものだった。無名に近い、その時男も初めて知った作家の本であった。


 ゆるりと座っていた傷んだ煎餅布団から立ち上がり、台所に向かい、蛇口を捻った。「何をしていたんだろう……」と呟いてから、蛇口から滔々と流れる水に口をつけ、無心に、何かがせり上がってきそうな胃に蓋を閉めるかのようにその水を飲んだ。

 そして気がついた。

「あ、カンジにお金借りたのか」

 蛇口を閉めるのも忘れたように男は、布団のそばに転がっていた上着の内ポケットを探った。そして、その中にくしゃくしゃになっていた封筒を見つけた。中身は入っていた。

 その封筒を見つけた時に、彼は何かを忘れているような気がした。しかし、忘れるぐらいのことなら大事ではないだろう、と楽観的に捉え、ズボンのポケットに封筒を突っ込み、外へ出ていった。部屋の中では、締め忘れた蛇口からチョロチョロと水がシンクに落ちていた。


 男は、職はなかった。大学を出ての2年間は、名のある企業へ務めていたが、人間関係で問題を起こし、逃げるようにその企業をやめた。上司も止めることはなかった。それから春がきたのなら一年は経つはずだ。早いものだ、と男は思ったが、とくに暗くなるようなことはなかった。

 着たきり雀の長袖のTシャツにジーパンは、ずいぶんとくたびれている様子だった。男はポケットに入った封筒を確かめながら、町を彷徨った。もうすぐ昼になるのだろうというのは、空で輝く太陽の位置が知らしていた。時折吹く風は冷気を孕んでいたが、春を感じる太陽の暖かさが、彼を歩ませた。


 随分と歩いてから、休むために見つけた公園に入って行き、設置されたベンチに座った。公園には、小さな子供たちがおり、彼らが遊んでいる様子を何を考えるわけでもなく、ただ眺めていた。ひっそりとした公園だ。遊具もブランコと滑り台ぐらいしかないのを見て、男はそう思った。子供たちは何やら鬼ごっこやっている様子だった。一人の男の子が、三人の子供を追いかけていた。悲しいほどに穏やかで、静かで、眩しいような光景だった。


「お前さん、どうしたのかね」

 気づいた時には、男の前に杖をついた老人が彼の隣に立っていた。歳を感じさせる顔のシワは、その老人の生き方を表すようだ。男が黙っていると、失礼するよ、と断りを入れてから男の隣りに座った。

「何を悲しんでおるのか知らぬがの、あまり急くことはないように。所詮、一時の迷いだからのう。罪と思い悔いるのなら、お主はまだ正常よ」

 男はそこで自分が涙を流していることに気がついた。ポロポロと流れ出る涙の粒に、男は衝撃を受けた。自分の出している涙は、一体何を意味しているのかを分からなかった。衝動的なものだろう。変な感傷にあてられたのだろう。湧き出る涙に、静かに高鳴っていく鼓動を鎮めようと様々な理由を思索しながら、腕でその涙を拭いた。

 気づいた時には、隣りに座っていた老人はいなくなっていた。まるで真夏に見た幻のようで、なぜか晴れ晴れとした感情が、胸に押し寄せてきた。

 男は、すべてを理解していた。自分の朝から続く、このもやもやとした胸の感じもすべて。男はそのことに気がついて、ベンチから立ち上がり、走るようにして公園から出ていった。公園では、子供たちがまだ遊んでいた。



 目的の警察署について、男はあることに気がついた。それが一瞬の迷いとも言えるものなのかもしれない。だけど、戻るわけには、いかなかった。

「蛇口の栓閉めてくるの忘れたなぁ」と呟いて、男は警察署の中に入っていった。もう蓋にしたものは何もなかった。


書き始めたときに思っていた終わりといつの間にか変わってしまったという話。

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