伍・そして、つきしろの
祈る手のように綴りあわされた桑の葉の間、純白の繭の端が、しっとりと濡れそぼつ。
幾重にも幾重にも、固く編み上げた揺り籠が、甘露をこぼすくちづけで内側からときほぐされていくのを、大蜘蛛と、青い蛾は、見守っている。
桑の木の一番高い枝の葉陰、一番細い枝の先が、ゆら、ゆら、と揺れる。
小さな頭が、やわらかくほとびた繭の端から、ようやくのぞく。
ゆっくりと、ほそいほそい枝葉の上へと、まだおぼつかない肢を伸ばして、あやうい均衡をたもちながら、羽化はすすむ。
昼の蒸した草の匂いを打ち消すように、涼しい月光が山の端からさしのぼると、夜行のものたちの気配が、山野にどよもす。
目覚め、食らい、婚えと、望の月が煌々と宣り賜う。
ヒトの耳には聞こえない、そのかまびすしさを他所に、静かに、蜘蛛と蛾はその時を待つ。
「ころころしてくれる、あのおっきなてがないの」
忙しく葉を食む昼に、蚕の子はそう言った。
「ころころされるの、ちょみっとたのしーのね。ここだとね、ころころできないね」
「これ以上目立つことはしないでくれるかなあ……」
桑の緑に、白い虫は目立つ。判りやすい餌だと寄ってくる狩り蜂や鳥の鼻先に舞い、食べるなら僕をお先に、と空蚕が言えば、皆あわてて遠ざかる。
追い払うのはたやすいが、昼夜問わずに何度も何度も繰り返すと、さすがに面倒臭い。
「今ね、君は結構おいしそうなんだから」
「そうね! おいしいものたべてるとおいしくなるのね!」
きゅっと胸足で桑の葉の端を抱え込み、蚕の子はしゃくしゃくとまた食べ始める。
「いっぱいたべるとね、いっぱいころころしてもらえるのよ。いいこいいこねって」
あのヒトの老婆は、よほど丁寧に蚕たちを扱ったのだろう。蚕座の掃除の時毎に、蚕たちは山盛りに別の蚕座によけられているが、それを嫌なものだ、とはこの雛虫は感じていない。ヒトの手に触れられるのは、薄い表皮の虫たちには熱く焼けた鉄を押し当てられるのと同じくらいの苦痛だ。ヒトの皮膚に薄く張っている脂肪酸と、一定した体温は、小さい虫など釜茹で同然に弱らせてしまう。なにより、
「ヒトの言葉がわかるの?」
空蚕の鱗粉を口にした時には、もうヒトはいなかった。ヒトの言葉をわかるように理が歪んだとしても、この子がそれ以前に言われたヒトの言葉を理解しているのは、奇妙なことだった。
「ちょっぴり! ちちやははたちの、そのまたちちやははたちが、あたちたちにも、わかること、のこしてるの」
「……恨み言、とか?」
卵を孵してもらうのも、大事に育ててもらうのも、その全ての子を煮殺す為。野生に返ることなど不可能なほど、ヒトの手によって歪められた種の、それは悲劇ではないのか。
「ちまうよ」
だがけろりと、蚕の子は首をかしげた。「うらむのって、おこるってこと? なんで?」
「ヒトは君たちを大事に育てるけど、結局殺すんだよ。それを延々、繰り返してきた。ヒトの勝手でさ」
「そうね、あたちたち、いっぱいころされるね。うん、すごーくいっぱいね。けどね、ヒトは、あたちたちのみはりなの。うつろちゃんとおなじこと、ヒトにやらせてあげてるのよ」
腹脚で体の上半分をもちあげ、白い雛虫は誇らしげに三対の胸脚をぴんと張った。
「いっぱいいっぱいわたちたちがしぬことで、ちちやはは、のこっていくの。わたちたちは、とぎれないの。ヒトをめしつかって、ずっとのこるのよ」
石に彫刻された作り物のように、空蚕は動きを止めた。蚕の子は、また無心に桑を食べ始める。しゃくしゃく、しゃくしゃくと、その音だけが桑の木の静寂を乱している。
「ヒトもまだ、理のうちにあるのかな」
空色の蛾のつぶやきは、その音にさえ負けて、紛れたが。
ぽってりとした腹が、繭を抜けた。3対の肢でしっかりと枝につかまり、皺ばんだ翅が、少しずつ伸びていくのを、蚕は静かに待っている。
「あのやかましかった雛っ子とは思えんの」
「美味しそうだとは思わないの、刀自殿」
「思うとも。けどそれ以上にな、食うのが勿体無いほど、綺麗やしの。ふうわり、己でひかっておるようや」
まろい体も肢も、柔らかく豪奢な毛皮にふくふくと包まれて。
純白のびろうどで仕立てた打掛のような翅も、いまや裾引くほどに。
花嫁御寮の白無垢にして、終わる時への白装束。
闇の中、ほのかに暈がかかって見えるほど、けざやかに明るみ。
淡い金に裏打ちされた、あたたかい雪白の、小さな蛾。
「つきが」
大きく愛くるしい、艶やかな複眼が、月光に濡れる。
「つきが、とんでいいよって」
重たげに見える翅を、蚕は羽ばたかせる。最初はおどおどと、やがて激しく。
「だれも、できなかったのに。なのに、つきが、そういう」
羽ばたく力は、怯える肢を枝からもぎはなそうとする。その強さを恐れて、蚕は首をふる。
何千年以上も忘れられていた術が、ちいさな蚕のなかにいちどきに甦って、羽ばたきを止めさせてくれない。恐れても戸惑っても、揺らされた因が、彼方の時のむこうから、空に誘う。
とべ、と。
「おいき。お前さんを大事にしていたヒトも、わっちも、それを見たかったもの。見せとくれな」
脚高蜘蛛の声に、蚕は、空色の蛾がするように、くるくると触角を前脚でかかえこみ、撫でつける。
すだく小さな羽虫たちが、飛び交い、鳴きかわし、食らいあい、求婚の香をくゆらせ、その喧騒が野山に満つ。
朽ちた蚕室には戻れない、もう残り少ないその命を全うするのはここなのだと、世界がいう。
こい、と。
陽も月も星も、虫たちにとって、光は目指して飛ぶものではない。己の居場所を確かめる羅針盤であり、迷わずすすむための目印にすぎない。
人のつくる贋物の灯りは彼らの目を騙し、道筋を歪ませる罠となるが、今この天を圧する満月の光のもとに、なんの妨げになろう。万障繰り合わせて、この一夜はきた。
「おいで」
大蜘蛛とともに静観していたうつろのこは、ふわ、と舞い上がった。
夜空にひとかけら、真昼の空が刳りぬかれる。
「君は、途切れたい? 父や母が残っているなら、君は、何も残さなくてもいい?」
「……ううん!」
そして。
ましろのむしは、翔ぶ。
古い殻をそうしてきたように、恐れを脱ぎ捨て夜天へ。
瀕死の蝶よりみっともなく、宙を蹌踉い、あがいて、けれど決して落ちず。
ふらふらよろよろ、おぼつかない翅をばたつかせ、けれど気付けばあの桑の木もはるか眼下に。
(楽しいの)
(楽しいよ)
ほかの羽虫たちが謡う千の声万の声に、自らの声も和して、望月しろしめす真夜中、まばゆいほど白い虫は、翔ぶ。
(楽しいね)
(楽しいね)
同じ族が千の時万の時を越えて叶わなかった夢を現に顕して、ひたむきに、飛ぶ。
「ほんに、綺麗やの」
舞い戻った空蚕に、蜘蛛はつぶやく。
「わっちもゆめとやらを見れば、ひひるのように飛べるのかの」
「……かもしれないね」
可惜夜、月はしずむ。終夜続いたさんざめきは遠ざかり、暁降に鳥たちの声がこだましはじめる。
夜族の時は終わり、再び陽光のもとに世界は白々と明けていく。
空に、もう白い姿はない。
ただ、蜘蛛と空蚕のなかに、消えずに響む声がある。
たのしいね。
たのしいね。
いきているのは、たのしいね。
蜘蛛は眠りにつく。己のうちに、ゆめを探りに。
うつろのいろの蛾は、また舞い上がる。
風のまにまに。
了