肆・こみどりの
人間が出てきます。
「刀自殿、足をもっと後ろに下げられない? 棘がその子に刺さりそうだよ」
「やっておるわ! ええい、目がこやつでふたがれて、うっとうしいったら」
「んーしょ、んーしょ」
蚕の子の衣脱けは、真昼にはじまった。
濃緑の葉陰で、白い芋虫を前のめりに載せ、足をじたばたさせている大蜘蛛と、葉裏に留まったまま、はたはたと羽ばたいて風を送る空色の蛾の様子は、見るものがいたら滑稽だったにちがいない。
「あついのー」
「休まないで一気に脱ぎやれ!」
「あい。がんばる」
もじもじと体をよじらせ、もがいて、蚕の子も必死で薄皮を脱ぎ捨てようとする。
蜘蛛の頭の上から、その前の木の枝の上へと、もちもち、よじよじ、全力で新しい体を這い進めていく。
「あともうちょっとだよ。どっちもがんばって」
「おちりはぬーげーたーのー! あとはあたまー」
「ああ、とりあえずわっちの上からはどいたの。古衣を糸ではりつけよってからに、どこぞでこそげねば気色が悪うてかなわんわ」
背中に残った抜け殻を、蜘蛛はなんとか振り落とそうとしている。その一方で、仮面を一枚落とすように、蚕の子は頭の殻もぽとりと脱ぎ落とした。
「大丈夫? ここはとても細い場所だよ。君、つかまっていられるの?」
「うん、へいきよ。ころもをぬいだら、あし、つよくなったの!」
胸足、腹足でしっかりと桑の枝にしがみついて、蚕の子は空蚕に上機嫌で答えた。
「いっぱいごはんたべたい。はやく、からだが、かたまらないかな……」
脱皮したての弱い表皮が固まるまで、蚕はしばらく動かない。うとうとと、蚕の子は脱皮の疲れからまどろみだした。
「もうあの子は、蚕ではない、なにかになったようだよ、刀自殿」
空蚕は、ぽつりとそう告げた。
細い枝に止まっている。普通の蝶や蛾の幼虫たちには当たり前ことが、蚕はできない。
つかまり続けていられずに、落ちてしまうのだ。平坦な蚕座の上でなければ、満足に歩くこともできない、いびつな種。
「わっちも、もう違う何かに、なっておるのかの」
「……ヒトの言葉をわかる蜘蛛は、この世では刀自殿ただひとたりだろうね」
「わっちはそれで困ってはおらんがの? 理を外れるのは、とても恐ろしいことが起こること、と思うておったが」
「ごきぶりたちの声も判るようになったでしょ。食べにくくない?」
「ああ、あれは、仕方なかろ? 今更、痛いの、やめろの、言われてもなあ、そりゃあたりまえぞ。殺すのだもの。それに、言葉がわかったところで、あやつらの美味さが変わるでなし。今までも食ってきたもの、これからも食うに決まっておろう?」
不思議そうにいう蜘蛛に、空蚕はくりっと首をかしげた。
「うん、それならいいんだ」
「お前様もよくわからないことを言うの。ヒトのようや」
「ヒトね……そういえば、刀自殿。あの子を飛ばしてやりたいっていうのは、ヒトの願いだといったよね」
「そうや。あのヒトが横になってな、そのまわりが汚うなってきたら、ごきかぶりどもがうろちょろしやがるから、かたっぱしから食っておったのやがな。その時な、そう聞いたのや」
空蚕は触角をふるりとゆらす。
虚空蔵の時軸を触角で一なでし、その時の光景を垣間見る。
尿臭、便臭のこもった、薄暗い和室。布団に寝かされた、ヒトの老婆。枕元には下げ忘れたのか、冷え切った粥と刻み野菜をのせた皿。それも、僅かに腐臭を放ちだし、部屋の空気を淀ませる。
臭いにひかれて、ごきぶりが畳の上を這い、あまった食事にあやかろうとやってくるのを、驚くほどの速さで奔る巨大な蜘蛛が、次々に襲い、蹴散らしていく。
「己等はへっついまわりでは飽き足らず、ようものうのうと。……しかしこんだけ食うと、腹がくちくてたまらんな」
一匹を食べかけていても、新しい獲物が攻撃圏内にきたら、それを屠らずにいられない性の脚高蜘蛛である。ごきぶりたちは、あっというまに座敷から退散した。
「……ありがたいねえ。ヌシさんは、ほんとうにいい蜘蛛様だねえ」
ごきぶりを溶かしては啜っていた蜘蛛は、その声にふと動きを止めた。
老婆は惚けることなく、ただ動かない体に縛り付けられて、そこにいるのだった。
「ヌシさん、きいてくれるかい。すごくいい夢を見たんだよ」
自分の息子夫婦には、惚けの幻覚だと謗られる話を、老婆は枕頭にはべる大きな蜘蛛に語る。
「私ねえ、夢のなかでおかいこさまになっていたんだよ。繭は、この布団でね。それで、布団からでて、はねをうごかしたらね、ふわっと飛べたんだよ。そこの障子戸も開けてあって、そこから、空に飛んでいったよ。夜でねえ、月がものすごく奇麗だった。うちが小さくみえて、佐藤さんちの田んぼがきらきら光っているのまで良く見えた。ヌシさんの目のようだったよ。きらきら、きらきら、楽しかったねえ」
幸せそうに、老婆は笑う。
「おかいこさまが、飛べるわけないのにねえ。私はおかいこさまから絹をいただいて、おかいこさまのおかげで生きてこられたけれどね、思えばかわいそうだねえ。煮られたおかいこさまたちが、せめてあんな風に、天に向かって成仏しているなら、いいねえ」
言われていることが複雑すぎて、蜘蛛には半分ほどもヒトの言葉はのみこめない。
ゆめ、とはなんだろう。ヒトが蚕になって空をとぶ、そんな理はありえない。煮られた蛹は、羽化しない。するわけがない。死んでいるのだ。それなのに、死んだ蛹どもが飛べるとは、どういうことだろう。
そのヒトは、蚕たちに、詫びている。食うことを詫びるとは不思議だ。大切なら食わなければいいものを、それでも詫びながら食う。
(わっちはごきかぶりどもを食うのに、ありがたいやらもうしわけないやらなぞ、思わんもの)
ヒトの言葉はわかっても、ヒトの考えることは、蜘蛛にはわからない。
「寝たきりになって、おかいこさまの不自由さがちょっとわかったねえ。ああ、おかいこさまたちもね、できるならきっと、飛びたかろうね。……飛ばしてあげたいねえ」
わからないが、智慧を得た蜘蛛は、考える。
死んだ蛹は飛ばない。しかし、生きている幼虫たちは、まだ小屋裏にいる。
ヒトはゆめとやらで飛べるそうだ。こんな重たい肉の体の生き物が飛べるなら、かりにも翅をそなえて羽化するあやつらが、飛べない道理があろうか。
むかしむかし、ずっとむかし、脚高蜘蛛たちが海をわたってくるよりもずっとむかしから、蚕は飛べない、ヒトの手に頼って生きる虫だ。
飛べるわけが無い。
飛べるわけが無いが、もしも。もしも、ヒトがゆがめたその理を、ゆりかえすことができたなら。
蜘蛛の神経節に、その時小さな閃きが走った。
「これ、ちゃんと聞いとるかや、空ろの」
気付けば、空蚕の目の前には黒光りする巨大な牙があり、頭を触肢でぺしぺしと小突かれていた。
「やめてやめて。うん、ちゃんと『見てきた』よ。刀自殿も、ずいぶんヒトにいれこんだね」
「いれこんどるかの? なんとのう、聞いているうちにな、わっちも見たくなったのや。わさわさがさがさ、歩き回るしかできなかったあやつらが、お前様や、蝶のように飛ぶところがの」
「自分が飛びたいとは、思わなかったんだね」
「ゆりかごから出てすぐの頃になら、糸を吹き流して、わっちも風に乗ったものさ。わっちのような羽無しの八つ足が飛べるのだもの、羽つきを飛ばすくらい、お前様にはたやすかろうて」
「僕にできるのは因を揺らすだけ。それがどんな果を孕んでいたのかは、僕にはわからない。ただ、刀自殿が昔僕のかけらを食べてしまった時に、もうあの子に通じる因も縁も、成ったのだろうね」
「……また小難しいことを。お前様を食ったあと、どう生きるかはわっちら次第ということやろう? なに、わっちもこのとおり息災でおるし、あの子も足が立つようやし。それでよかろうが」
「まあ、そうだね」
白い雛虫が、ふいにひょくんと頭をふりたてて、きょろきょろとあたりを見回した。
あたりはもうすっかり暗い。
「ふいー。あー、おなかすいた! おなかすいたのよ!」
体皮はしっかりしたものとなり、五齢にしては小さいがふっくらした体の中に、健やかな体液のめぐりが透けてみえる。
「いいにおい! まわりいっぱい、すごーくいいにおい、いっぱいね! あたち、たべる! いっぱいたべるよ!」
「葉のあるところ、わかるかい? 自分で探して、食べられるの?」
家蚕は、自分からほんの一尺ほども餌を遠ざけられると、もう自力では探せない。うろうろとあてどなくさまよって、すぐそこに見えているはずの餌にたどりつけずに、餓死してしまう。
まして、足弱い彼らは、うろうろするのさえも、このような樹上ではろくにできず、落ちたら最後、二度と木に登ることもできない。
「いいにおいのするほうにいけばいいのよ!だいじょうぶ!」
いいながらも、もう蚕の子は先細る枝先にどんどん這っていき、手近な葉の上にのぼって、ぱりぱりと齧りだした。不安定な葉のゆれるのにも、しっかりはりついて、一心不乱に食べていく。
「おいしーの! すっごくおいしーのよ!」
配合飼料のみで飼育できるよう、味覚をとりあげられた種もいるが、この子はそうではないらしい。
「すっかり元気になりよったの。ここまでして、狩り蜂や鳥に食われたら業腹や」
単眼八つ分の視線が、全部自分に集中しているのを感じて、空蚕の翅がどこかげんなりと、肩を落としたように下がる。
「あの子に、僕がついていればいいんだね?」
「わっちも月が太ってきたら、様子をみにくるわいな。まかせたぞえ、空ろの」
「はいはい……」
軽やかに、いそいそと狩りに出かけていく大蜘蛛を見送り、空色の蛾は触角をしょげさせた。
因と縁と果:これも仏教の概念ですが、「そういうもの」として使っています。詳しくは因縁生起や縁起でおググりくだしあ。
味覚のない蚕:広食性蚕といい、安い(蚕にとってはまずくて食べない)配合飼料のみで、最後まで育てられるように改良された蚕。味覚が無いので、キャベツだろうがリンゴだろうが、与えられたら食べてしまう。本来の食草さえ忘れさせられた蚕。