弐・ましろの
「あしながちゃん、これだあれ? これだあれ? あとね、あとね、あたち、おなかすいた」
おどおど、もちもちと、白い虫の子は脚高の足に身を寄せる。
「桑ッ葉が、いよいよもう無いかえ」
「みんな、しおしお。からから。たべられるの、ない」
「我慢し。もう少し待ってたら、美味しいのが食えるかもしれんでな」
「はぁい」
かろうじてまだ青味を残した萎れた葉を、のろのろと虫の子は噛みはじめた。
「……家蚕の子だね。まだ小さいなあ。ようやく二回目の衣抜けが済んだところ?」
「いやいや、あれで3回目の衣抜けは済ませておるよ。体が小さいのは、ここのところ、ちゃんと飯を食っていないからの。これからが、いっち飯の要る時やのに」
「蚕は食べないの、刀自殿は」
「ごきかぶりどものほうが口に合うでな。それに、この子はヒトが大事にしていた子や。わっちが守らずしてどうする」
「それがおかしいんだ。どうしてヒトに義理立てして、蚕を刀自殿が守るのだか」
「ヒトの言葉がわかると言うたら、お前様は笑うかえ」
「ええと、ああ、その、それはたぶん僕の鱗粉のせいだね……そもそも、六ツ足の族と、多足の刀自殿が話していることが、もうおかしいな。うっかりしてた」
空蚕は、決まり悪そうに、前脚でくるりと自分の触角を撫でた。
「それが良いことか悪いことかは、わっちの知ったことじゃあないが。とにかく、この家には、古いヒトのおなごが一人おったのさ。ぴんと体が伸びていたころから、ここで、蚕たちを育てておってな。蛹が好物と見えて、よく繭を熱い水でばらしては、取り出していたっけ」
「目当ては、繭のほうだったと僕は思うけどね」
撫でていた触角を離して、空蚕はつぶらな黒い目で周囲を見る。
かつては、全ての蚕棚に、白い虫たちはたくさん放たれていたのだろう。
「繭なんぞ、食えもせんものどうすんのえ? とまれこうまれ、そのヒトは、そりゃあ大事に蚕を養っていた。自分が食うものに、あんなに手をかけるなんて、変わった生き物よなヒトは」
「ヒトってのは、そういうものらしいからね」
「で、そのヒトが、わっちに前足を合わせて拝みよるのよ。ありがとうね、あんたがごきぶりを食べてくれるから、私も蚕も悪い病気にかからないよ、ありがたいねえ。と、そう言うのや」
「そりゃ変わったヒトだねえ」
「だろう? そう言われたら、もう蚕どもを食うなんてできなくてねえ。それに、わっちを見ると気持ちが悪いの、夜見たら縁起が悪いのと、追い回す人間ばっかりやったのに、そのヒトは、わっちの目を綺麗だとも、言ってくれたのや」
八つの単眼が、蚕室の薄暗がりの中で、水晶の玉を連ねたにも似て、僅かな陽光にきらめく。
「綺麗、って意味がわかるんだね、刀自殿は」
「そのヒトが、綺麗だねと言うものを見聞きしておったら、なんとのう、知れてくるわ。ああ、ほめてもらうというのは、快いものだねえ。お前様の粉の力でヒトの言葉がわからなんだら、知らなかったもの」
「困ったなあ……僕を食べて死ななかったものは虚空蔵に触れてしまうのかな。もっと用心しないといけないな」
また、くるくると空蚕は両方の前脚で触角を撫でた。ヒトでいうなら、頭をかかえて髪をかきむしっている、というところか。
「ようわからんが、お前様をかじると智慧がつくのかや」
「智慧は毒だよ。理を外れる大きな毒だ。ごめんよ、刀自殿の理を曲げてしまって」
「ようわからんが、舐めてしまったのはわっちだしの。わっちは困っておらん。ああ、そうだ今困っておるんだったわ。蚕のことや」
「ああ、そうだね、何で守るのかってことだね」
「そのヒトのおなごがな、動かなくなったのや。そうなるちっと前から、蚕の繭もばらさず、ちゃんとつがわせて、こっちかたの棚にのる分だけ、子を孵して育てておったのだけど」
かつん、と蜘蛛は苛立たしげに、牙を蚕網の枠に打ち付けた。
「そのヒトにも、子はおってな。どこぞで嫁女とつがいになって帰ってきたのだが、こやつらが、わっちも蚕も大嫌いときた。ヒトのおなごは、横になって動かなくなる前に、そりゃあ蚕のことを大事にしてくれと、そやつらに頼んでいたのにさ。嫁女にいたっては、頭の上に虫がいる家なんぞ気持ち悪くて住めないそうな。それきり、飯の葉は絶えた。蚕らは、どんどん弱って儚くなった。あの子が最後さね」
蚕の子は、萎れた葉の上に、溶けかけた千歳飴のようにぐったりとのびている。
「あのヒトが後生にと頼んだに、蚕どもは、見捨てられた。それに、この家があるのも今日が最後だ。潰して、つがいどもの新しい家を繕いなおすんだそうな。あのヒトが守ろうとしたものが、全部なくなる。確かにそれは理の流れであろうよ。それでも」
かつん、とまた牙を鳴らして、年経りた蜘蛛は空蚕を見た。
「わっちを綺麗だと言ってくれた、あのヒトの願ったこと、ほんのちっと、形なりとも叶えてやりたいと思うのや。あの子の為やのうてヒトの為、あの子には迷惑やもしれんが、そこはわっちの我侭よ」
「……煮殺す為に可愛がられている族だよ。蚕は、ヒトがいなくちゃあ生きられない、理外れの族だ。病にも風にも雨にも耐えられない。そのあの子ひとたり、自然に放り出したって、ただ儚くなる場所をたがえるだけだよ」
飼育される蚕は、雑種強勢を計算して作られる一代雑種だ。煮殺して絹を得る為だけの虫に、未来はいらない。継代飼育は解禁されたが、生かされて次代の種を残すことを許されているのは、実質交配用の原蚕だけだ。
生み出されては殺されていく、600種の子供たちの為に、病や寄生虫から完璧に守られながら。
「生かしても益はない虫に、ヒトが何を願ったって?」
「あの子らの族は、もう千年も前から、飛べない体にされてるそうな」
大蜘蛛は、空色の蛾の、たたまれた翅をじっと見た。
「あの子を、飛べる体にしておくれ」
空蚕の触角がぴんとそばだてられ、次の瞬間、蛾とは思えぬ俊敏さで舞い上がろうとし、
「わっちの速さをみくびるでないわ!」
さらに瞬発力にまさる蜘蛛に、その瞬間くわえこまれる。
「駄目駄目駄目、刀自殿だって生きていられるのは本当にたまさかなんだから! 僕をひとかけら食ったところで、どうなるかなんて僕にも判らないんだよ?」
「やってみなければわかるまいが。わっちが舐めたは、お前様のほんの一粒。むしられても痛くも痒くもない同じ一粒、無駄を承知で、蚕の子にも分けてくれと、そう言うとるだけや」
羽ばたこうとして、空蚕は動きを止めた。暴れれば、鱗粉が散る。それに、智慧もつ蜘蛛は、巧妙に空蚕の首根っこを牙ではさみ、かつ傷をつけてもいなかった。
「ああもう……ヒトに義理立てして蛾を守る蜘蛛なんて、ヒトのものがたる絵空事にだってでてこないよ、まったく」
ぐてん、と翅も触角もへこたれて、空色の蛾はぶつぶつ文句も垂れた。
「ここで断わったら、僕の首をこのままちょんと食いきって、翅をあの子にやるんでしょ?」
「お前様が蛾の姿でよかったわ。これが狩り蜂やら百足やらなら、わっちも説き伏せに手間がかかったわいな」
空蚕をがっしりとくわえたまま、得意げに蜘蛛は答えた。
「説き伏せ……捕食の勢いで襲ってくるのは説き伏せるって言わないよ、刀自殿……」
「だってお前様が逃げようとするから。それに、卵嚢を抱いてるのと同じに、優しゅう捕まえておろうが」
「困ったなあ……刀自殿みたいに、うまくいくとは限らないのに……」
ぷらぷらと蜘蛛にくわえられたままの空蚕の後翅が、つんとひっぱられる。
「あ?」
「くものおばちゃん、このひとたべるの? あたちもたべられるかな?」
蜘蛛の足の下に、蚕の子がもどってきていた。
「……これでお前様も諦めがついたのう、空の」
「あー……なんか、もう色々となし崩しだ……」
空蚕の後翅の端を、ほんの僅か、鱗粉一粒分ほど、蚕の子はもぐもぐと口に入れていた。
空蚕は蜘蛛にぶら下げられたまま、くるくると触角を撫でつけた。
虚空蔵:アカーシャ・ガルバ。虫が仏教を知っているはずないのですが、純粋に「そういったもの」として用語を使用。
蚕の飼育:蚕は病気や寄生虫に非常に弱いため、それらの蔓延を防ぐ目的もあり、無許可の飼育や繭の売買は禁じられていた。解禁されたのは平成10年。
卵嚢:タカアシグモの雌は卵を自分の糸で繭のような袋つめて、飲まず食わずで持ち運びます。