壱・つるばみいろの
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よく晴れた春の空がひとかけら、小さく切り取られて、ひらりとこぼれおちる。
人ではないものの目には、そのように見えるそれは、人の目には映らない。
なにより、ヒトと彼等との意識のあり方はことなっているはずだ。
だが今は、かりそめにヒトの言葉をかりて、彼等の交わしあうそれを、語ろう。
言葉を彼等は持たないが、言葉なしではヒトは何一つものがたることはできないのだから。
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「空蚕。そこでうかうかしとるのは、空蚕じゃないかや?」
呼ばわる声は、昼間に聞くものではなかったから、風のまにまに舞っていたそれは、興味を引かれた。
くるりと風の流れからはずれ、一軒の民家の屋根に降りる。
色だけなら、大水青にもこれくらい濃い空色のものも、いるかもしれない。
だが、紋白蝶ほどの大きさしかない翅も、ほっそりした体も、鳥の羽毛のような幅広の触角も、ただ空色一色に染められた彼を分類できる系統樹は、ヒトの世には、ない。
「この里には、もう二十年は来たこと無いんだけどな。僕を見分けられたお前さんは、誰だい」
ちょこん、と空色の蛾は体の向きを茅葺の軒へ向けた。
茅の陰から、きらめく八つの眼が、彼を見つめていた。
「ああ、やっぱり空のだったわな。お前様はわっちを覚えちゃおらんだろうが、わっちは生まれてすぐにお前様を見たよ」
すらりと長い橡色の脚を伸ばして、彼女はうららかな陽光の下にするりと這い出してきた。
「ああ、前に僕を食おうとした脚高の嬢やか! やあ久闊。すいぶんと長生きしたもんだね」
空蚕と呼ばれた彼は、自分よりはるかに大きなその蜘蛛を見て、感嘆の声をあげた。
脚高蜘蛛は大きい。そして彼女は、通常の彼らよりも、さらに二周りは大きく、南方の鳥喰い蜘蛛ほどもあった。
もとより、彼らも野山にいる在来の小脚高蜘蛛とは別種の、南方から来た種ではあるが。
「ここの家のヒトはわっちを大事にしてくれたからねえ、今までは殺されずに済んだのさ」
「ほかの脚高の三倍は生きた計算になるかな。息災でなによりだよ。もう嬢やではなくて、刀自殿って呼んだほうがいいね。ともあれ、僕に二回もまみえる子は珍しい。また会えて嬉しいよ脚高刀自」
空蚕ははたり、と翅を伏せた。雨ざらしで黒ずんだ茅の上に、ひとかけらの青空が広がる。
「刀自はやめとくれ。おまけに存外な言祝ぎやな。うつろのは、外国から来たものに厳しい性じゃなかったかや。わっちらも、もとを正せば異国渡りの蜘蛛ぞ?」
「君らは野山の者たちをあんまり食べないしね。増えた割りに、豊葦原にも、ヒトにも、これといって害のない稀有な族だよ」
「そういって持ち上げてもらうと、頼みごともしやすくなるというものさ」
「頼みごと?」
「わっちでは叶わないと諦めておったが、今お前様がここに来た。そしてわっちがそれに気付いた。ならば、理を少しばかり、動かしてもいいと自然が言うておるのだわ。ちいとお前さんの力を貸しておくれでないか」
「僕には自然の理を動かす力なぞないよ」
「わっちを見ねえ、空の」
脚高蜘蛛はじり、と青い蛾ににじりよった。
「わっちを、おかしいとは思わないかえ。そりゃあ、わっちはたっぷりとごきかぶりどもを食ったし、鼠の小さいのもよう食ったわ。したが、それだけでこうも大きく、長く生きられるもんじゃあ、なかろうよ」
「そんなことも、たまにはあるかもしれない」
「ごまかしは無しにしとくれよ。わっちは、何も知らないちっちゃい頃、お前様を食おうとしたろうが。逃げられはしたが、その時、お前様の翅の粉のほんの一粒、わっちは舐めた」
「ああ……そりゃあ……」
ふるん、と空蚕は触角を揺らした。
「刀自殿の『理』を、揺らしてしまったんだね」
「お前様は、なりこそちっこい蛾だが、『理』の外におられるお方だ。だから、それを見込んでのお願いさね。わっちのように、強くしてやってほしい子がおるのや」
「刀自殿が強く大きくなったのはまれなことだけど……刀自殿の子かい?」
「いいや。この家で、わっちを大事にしてくれたヒトがおったのだが、そのヒトが、最期まで気にかけていた子がおるのや。この子の見届けを、頼まれておくれでないか」
「ふうん?」
「まあ、とにかくこっちにお入りな」
蜘蛛はするするとまた軒下に消えた。空蚕も、はたん、と舞い上がり、その後へ続く。
障子紙も黄ばみ破れた窓からはいった小屋裏は、荒れ果てて廃墟同然だった。部屋には、棚がいくつもつくりつけられていて、竹を編んだ網の上には、枯れた木の葉が散らばっている。
「こっちだよ、空の」
蜘蛛が、その棚の一つへ空蚕を招いた。
蜘蛛の長い脚の下には、一匹の白い芋虫が庇われていた。
・アシダカクモの言い回しは江戸弁と京都弁をあえて混ぜたものにしています。
・今作では、古語や文語的な言い回しがしばしば使われます。
・大水青:淡いブルーやペールグリーンの巨大な翅をもつ蛾。美しい上に人懐こく、もふもふしていて顔が愛くるしい、という完璧生物。