第8話 偶然が多すぎる後輩は、たぶん偶然じゃない
皇玲華に生徒会室へ呼び出された翌日、黒峰恒一は朝から少しだけ警戒心が強くなっていた。
もう何に対して警戒しているのか、自分でも半分分からない。
星ヶ峰学園に入学してまだ間もないはずなのに、すでにこの学校では「ただ一日を普通に終える」ということがどれほど難しいかを思い知らされている。何もしなくても視線は集まるし、ちょっと誰かと話せば空気が動く。しかも周囲にいる女子たちは、それぞれ違う方向で厄介だ。
夢咲ことねは勢いで距離を詰めてくる。
雪代しおんは静かに、でも確実に内側へ入ってくる。
火乃森朱莉は昔からの距離を武器にする。
朝霧凛は認める代わりに噛みつく。
皇玲華は完全に面白がっている。
普通の青春がしたかっただけなのに、難易度設定がおかしい。
そんなことを考えながら駅を降り、校門へ向かう道を歩いていると、背後から小さな足音が近づいてきた。
軽い。
けれど急ぎすぎず、遠慮がちでもなく、一定のリズムでこちらへ寄ってくる音。
振り向く前に、その足音がぴたりと横へ並んだ。
「おはようございます、先輩」
声はやわらかかった。少し高めで、丁寧で、どこか人懐っこい。
恒一が目を向けると、小柄な女子生徒が立っていた。
星ヶ峰の制服をきちんと着こなし、肩のあたりで揺れる髪は柔らかそうな淡い茶色。全体に小動物めいた可愛らしさがある。けれど、目だけは思ったよりまっすぐで、見上げてくる視線に迷いがなかった。
「……おはよう」
恒一は一応そう返したが、頭の中では高速で記憶を探っていた。
誰だ。
見覚えは……ないはずだ。
同じクラスではない。少なくとも、あの濃い面子の中にいたら覚えている。
相手の胸元を見る。リボンの色が違う。一年生だ。つまり同学年ではあるらしい。
彼女は恒一の視線の動きを見て、小さく笑った。
「覚えてないですよね」
「いや、その……」
「大丈夫です。ちゃんと初めましてなので」
そのフォローの仕方が妙に慣れていた。
「一年B組の、小鳥遊ましろです」
小鳥遊ましろ。
名前まで小さい。
いや、そんなことを考えている場合ではない。
「黒峰です」
「知ってます」
またそれだ。
もうこの学校で「知ってます」と言われることに驚くのもどうかと思うが、やっぱり少しだけ身構えてしまう。しおんや玲華のときと違って、ましろの言い方には変な圧はない。ただ純粋に当然の情報を確認しただけのような顔をしている。
「……なんで知ってるんだ?」
「男子、少ないですし」
もっともな理由だった。
もっともだが、これだけで納得していいのか微妙な気もする。
ましろはそのまま自然に恒一の横を歩く。歩幅が小さい分、少しだけちょこちょこした歩き方になるのだが、そのテンポは意外に安定していた。
「先輩、朝はいつもこの時間なんですね」
さらりと言われて、恒一は少しだけ引っかかった。
「……まあ、大体は」
「やっぱり。火曜と木曜はもう少し早いですよね」
思わず足が止まりそうになった。
「え?」
ましろは首を傾げる。大きな目が本気で不思議そうに見開かれた。
「違いました?」
「いや、違わないけど……なんで知ってるんだ」
「見かけたからです」
答えはあまりにもあっさりしていた。
見かけた。
それ自体はおかしくない。駅も学校も同じなのだから、登校時間が重なることはあるだろう。
だが、火曜と木曜だけ微妙に早いことまで把握しているのはどうなんだ。
恒一が返答に困っていると、ましろは少しだけ笑った。
「先輩、曜日ごとに出る時間違いますよね。たぶんゴミ出しか、家のお手伝いの都合」
「なんでそこまで推理してるんだよ」
「なんとなくです」
なんとなくの精度ではない。
だが、本人は本当に悪意なく言っているように見える。目も声も、ただ自然に会話しているだけだ。だからこそ逆に怖い。
校門が近づく。春の朝の光の中で、白い校舎がやわらかく輝いている。花壇の花も、整えられた並木も相変わらず綺麗だ。綺麗なのに、その前で話している内容がじわじわ落ち着かない。
「……小鳥遊さんって」
「ましろでいいですよ」
「いや、そこはまだ早いだろ」
「あ、じゃあ小鳥遊で」
引き際が妙に素直だ。
恒一は少し気を取り直して続ける。
「俺のこと、よく見かけるのか?」
「はい」
即答だった。
「よく見かけます」
「……そうか」
それ以上、何をどう聞けばいいのか分からない。
ただ、足並みを揃えて校門をくぐるこの状況が、またしても目立たないわけがないことだけは確実だった。
案の定、門のあたりですれ違った女子たちが一瞬だけこちらを見る。
――誰?
――一年Bの子じゃない?
――また黒峰くん?
そんな言葉が聞こえた気がした。気のせいかもしれないが、この学校では大体気のせいではない。
ましろはその視線を気にする様子もなく、穏やかに言った。
「先輩、今日の一時間目、眠くなりそうですね」
恒一はとうとう立ち止まった。
「なんで分かる」
「朝、少しぼーっとしてましたし」
「それだけで?」
「あと、金曜の体育のあともそうでした」
昨日見ていたのか。
いや、教室が違うはずだから体育は同じではないかもしれない。けれど、少なくともどこかで見かけたということになる。
「小鳥遊」
「はい」
「俺のこと、どのくらい見てる?」
できるだけ軽く聞いたつもりだった。だが、ましろはまったく動じなかった。
「見てる、というより、気づくんです」
言い方が少ししおんに似ている。だが、向こうが“音で覚える”なら、こちらは“日常の流れを拾う”感じだ。
「先輩って、分かりやすいから」
「それ最近いろんな人に言われるな……」
「いいことだと思いますよ」
ましろはにこっと笑った。
可愛い。
普通に可愛いのだ。
その可愛さに対して、言っていることが微妙に怖いだけで。
◇
教室に入るまでのあいだ、ましろは一定の距離を保っていた。
近すぎず、遠すぎず。隣を歩くけれど、べったりというほどではない。その絶妙さが、余計に「自然に近くにいる人」に見えてしまう。おかげで、廊下を歩く間にもいくつかの視線が刺さった。
「……じゃあ、私はここで」
一年B組の前で、ましろは小さく頭を下げた。
「また会いますね、先輩」
「いや、“また会いますね”って」
「会いますよ。だいたい同じ時間ですし」
それだけ言って、彼女は教室の中へ消えていった。
去り際まで足音が軽い。控えめで、けれど迷いのない歩き方だった。
恒一は数秒その場で立ち尽くし、それから自分の教室へ向かった。
予想通り、空気はすでに待ち構えていた。
夢咲ことねが「何その新キャラ!?」と顔に書いてある。
朝霧凛は頬杖をついたまま、あからさまに見ている。
火乃森朱莉は静かだが、目が明らかに細くなっている。
雪代しおんはいつものように静かな顔で、けれど確実に状況を把握している。
席に着いた瞬間、ことねが飛んできた。
「誰!?」
やはりそこからか。
「知らないのかよ」
「私が聞いてるのはそういうことじゃないの! 何あの小さくて可愛い子! なんで朝から自然に一緒にいたの!?」
「自然にいたっていうか、途中で声かけられたんだよ」
「途中で声かけられて、あの仕上がりになる!?」
ことねの言い方がひどい。だが言いたいことは分かる。傍目には、普通に知り合い同士に見えただろう。
そこで凛が、通路側から口を挟んだ。
「黒峰って、ほんとに偶然っぽく女子増えるよね」
「偶然“っぽく”って何だよ」
「本人だけ偶然だと思ってるやつ」
「不穏な言い方するな」
凛は小さく肩をすくめた。
「で、誰なの」
「一年Bの小鳥遊ましろって子」
「小鳥遊……」
ことねが名前を繰り返す。まるで今後のライバル候補をインプットするみたいな反応だ。
そのとき、窓際から朱莉の声が静かに落ちた。
「見たことある」
全員の視線がそちらへ向く。
朱莉は腕を組んだまま、淡々と続けた。
「あの子、たまに見かける。いつも誰かの後ろにいるわけじゃないけど、気づくと近くにいるタイプ」
「……なにその言い方、ちょっと怖いな」
ことねが本音を漏らす。
恒一も同感だった。
そこへ、しおんがぽつりと言った。
「足音、軽い子」
話の方向がまた独特すぎる。
「雪代さん、それで誰か分かるの?」
ことねが半ば感心したように言うと、しおんは少しだけ首を傾げた。
「一回聞けば、だいたい」
この教室、本当に観察者ばかりだ。
恒一が内心で頭を抱えていると、凛がぼそっと言った。
「でも分かるかも」
「お前まで何なんだよ」
「小鳥遊って、変に目立たないのに印象残るじゃん。ああいうの、気づいたら近くにいる」
そこまで言われると、さっきの違和感が少しずつ形になってくる。
ましろは押しが強かったわけではない。むしろ言葉遣いも丁寧で、距離の詰め方も一見自然だった。だからこそ、気づいたらこちらの生活リズムを把握している感じが余計に怖い。
「……先輩」
そのときだった。教室の後ろの扉から、遠慮がちな声が聞こえた。
全員が一斉に振り向く。
そこに立っていたのは、まさにその小鳥遊ましろ本人だった。
小さな体で教室の入口に立ち、両手でノートを抱えている。視線は恒一へ向いていた。周囲の空気が一気に固まる。
嘘だろ。
なんで来るんだ。
タイミングを考えてくれ。
「……どうした」
恒一が聞くと、ましろは小走りで近づいてきた。やはり足音は軽い。控えめなのに、迷いなくこちらへ来る。
「これ、廊下に落ちてました」
差し出されたのは、恒一のシャープペンシルだった。
「あ」
確かに自分のものだ。朝、鞄の中を探ったとき見当たらなかった気がする。
「助かった。ありがとう」
「いえ」
ましろはにこっと笑う。
「先輩、これよく使いますよね。黒の芯ケースの」
またその一言で、空気が止まった。
ことねが「よく使うのまで知ってるの!?」という顔をし、凛は目を細め、朱莉は無言になり、しおんは静かにましろを見ている。
恒一だけが、どう返すべきか分からない。
「……なんで分かるんだ?」
「授業中、よく見かけるので」
ましろの答えはあまりにも自然だった。
同じ教室でもないのに、授業中にどうやって見かけるんだ。そう思ったが、たぶん移動教室や廊下ですれ違うタイミングなどを言っているのだろう。たぶん。そう思いたい。
「じゃあ、失礼します」
ましろは小さく頭を下げた。
それで終わるかと思った瞬間、彼女は一度だけ立ち止まり、振り返る。
「先輩、今日は昼休みのあと少し眠くなりますから、ミント系のガムあるといいですよ」
「……は?」
「昨日もそうでしたし、今日の朝もそんな感じだったので」
それだけ言い残して、ましろはぱたぱたと教室を出ていった。
残された空気がひどいことになった。
数秒、誰も口を開かない。
最初に沈黙を破ったのはことねだった。
「……え、何あれ」
心の底からの感想だった。
「可愛いのにちょっと怖いんだけど」
「ちょっと、かな……」
恒一は遠い目になる。
凛が頬杖をついたまま、低く言う。
「偶然じゃないでしょ、もう」
「だよなあ……」
朱莉は腕を組んだまま、明らかに面白くなさそうだった。
「言ったでしょ。この学校、そういう子いるって」
「いや、さすがにあそこまでとは聞いてない」
「私もあそこまでとは言ってない」
しおんはそんなやり取りの中で、静かに一言だけ落とした。
「先輩のこと、覚えてるんだね」
その言い方は責めるでもなく、感想でもなく、ただ事実を確認しただけみたいだった。だが、その“覚えてる”という表現が妙にしっくり来てしまう。
ましろはたぶん、恒一そのものより、恒一の“日常”を覚えている。
登校時間。
使う筆記具。
授業後の眠くなるタイミング。
曜日ごとのリズム。
好きとか嫌いとか以前に、習慣を知っている。
それがこの子の距離の詰め方なのかもしれない。
ホームルームのベルが鳴り、会話は一度途切れた。だが恒一の頭の中では、さっきのましろの声がしばらく残り続けた。
――先輩、今日は昼休みのあと少し眠くなりますから。
そんなことまで分かるものなのか。
いや、分かるのだとしても、それを本人に言うものなのか。
星ヶ峰のヒロインたちは、どうしてこうも全員、愛し方の入り口が少しずつおかしいのだろう。
◇
そしてその日の昼休み。
恒一は購買前の自販機で飲み物を買おうとしていた。
午前の授業が終わり、廊下はいつもより少しだけざわついている。購買へ向かう列、友達同士で弁当を持って移動する女子、階段を駆け下りる足音。昼休みの学園には独特の浮き立った空気があった。
自販機の前で小銭を探していると、横からやわらかい声がした。
「今日はミルクティーなんですね」
恒一はびくっとした。
横を見る。
小鳥遊ましろが、そこにいた。
「……なんでいるんだよ」
「昼休みなので」
「いや、そういう意味じゃなくて」
ましろは本気で不思議そうにしている。
「先輩、火曜と金曜はだいたい甘いの選びますよね」
もう駄目だ。
完全に日常を収集されている。
「小鳥遊」
「はい」
「それ、やっぱり偶然じゃないだろ」
ましろは少しだけ瞬きをした。
それから、困ったように、でもどこか嬉しそうに笑う。
「偶然もありますよ」
「“も”って言ったな今」
「でも、先輩のことを知れたら嬉しいので」
その言葉だけはまっすぐだった。
悪意も企みもない。
ただ純粋に、こちらの生活の一部を把握していることが彼女にとって喜びなのだ。
恒一は自販機のボタンを押しながら、思わず天井を仰ぎたくなった。
可愛い。
けれど怖い。
しかも本人にその自覚が薄そうなのが一番厄介だ。
ミルクティーの缶が落ちる音がして、冷たい金属の感触が手に伝わる。
「……ガムのこと、朝言ってたよな」
「はい」
「なんでそこまで分かったんだ」
「昼休みのあと、先輩、たまに目をこすります」
ましろは小さく指で自分の目元を示した。
「あと、少しだけ瞬きが長くなるので」
しおんは音、玲華は反応、凛は痕跡、朱莉は昔からの記憶、ことねは解釈。
そしてこの子は、習慣だ。
そう思った瞬間、恒一は妙に納得してしまった。
星ヶ峰のヒロインたちは、みんな見る場所が違う。
だからこそ、誰とも似ていない。
ましろは缶を持つ恒一の手元を見て、ふわっと笑う。
「先輩、今ちょっと困ってますよね」
「……困ってる」
「でも、少しだけ面白いとも思ってます」
「そこまで分かるのかよ」
「はい」
控えめなのに、妙に自信のある返事だった。
廊下の向こうから昼休みのざわめきが流れてくる。光の差し込む窓際で、小鳥遊ましろは相変わらず小さくて可愛かった。なのに、その中身は思っていた以上に恐ろしい。
恒一は缶を開けながら、心の中で静かに悟る。
この子もまた、たぶんもう始まっている。
気づいたら近くにいて、気づいたら自分の習慣を覚えられている。そんなふうに日常の中へ自然に入り込んでくるタイプだ。
偶然が多すぎる後輩は、たぶん偶然ではない。
そして、その事実を本人だけが“そんなに変じゃないこと”だと思っているのが、いちばん厄介だった。




