第7話 生徒会長は、人を困らせる才能に満ちている
昼休みの空気がようやく静まり始めたころ、黒峰恒一は自分の席で小さく息をついていた。
朝霧凛と火乃森朱莉の、あの妙に静かな牽制の応酬から、まだ一時間も経っていない。教室の表面上はいつものざわめきに戻っていたが、恒一の中では完全に戻りきっていなかった。
なぜただ体育で一緒に組んだだけで、ああいう空気になるのか。
いや、理由は分かっている。
分かっているのだが、納得はできない。
星ヶ峰学園という場所は、まだ共学化したばかりだ。男子が少ない。だからこそ、誰が誰とどのくらい近いかという変化が、普通の学校よりずっと強く意味を持つ。そこに加えて、周囲のヒロインたちが揃いも揃って距離感に癖がある。
夢咲ことねはぐいぐい来るし、雪代しおんは静かに入り込んでくる。火乃森朱莉は幼馴染という強い立場を隠さないし、朝霧凛は認める代わりに噛みついてくる。
そして、そういうのを全部受け止める器量が自分にあるかと言われると、正直あまり自信がない。
普通の青春がしたかっただけなのに。
恒一が机に肘をつきかけた、そのときだった。
「黒峰くん」
教室の前方から、聞き慣れない低めの女子の声がした。
顔を上げる。
そこに立っていたのは、同じクラスの女子ではなかった。
胸元のリボンの色が違う。二年生だ。長い黒髪を一つにまとめ、制服の着こなしは隙がない。背筋はまっすぐで、立っているだけなのに周囲の空気をひとつ分けるような存在感があった。美人、という一言で片づけるには、少し迫力がありすぎる。整った顔立ちの中で、とくに目が強かった。相手を見定めるような、逃げ道を最初からふさいでいるような目だ。
その瞬間、教室の空気がわずかにざわつく。
「あれ、生徒会長……?」
「え、なんで一年の教室に」
「黒峰って呼ばれた?」
ひそめたつもりの声が、すぐ近くでいくつも弾けた。
恒一は嫌な予感しかしなかった。
「……俺ですか」
そう返すと、二年生の女子は小さくうなずいた。
「少しいい?」
有無を言わせない口調ではない。だが、断られる前提をまるで想定していない声だった。
「えっと、何か……」
「生徒会から。共学化一期生の聞き取り」
そこで初めて、恒一の頭の中で情報が繋がる。
生徒会長。
共学化に伴う校内調整。
聞き取り。
確かに、そういう役目の人間がいてもおかしくない。
おかしくないのだが、なぜ自分なのか。しかもわざわざ教室まで来る必要があるのか。もっと事務的に呼び出せばいいのではないか。そう思ったが、教室の入り口に立つ彼女を前にすると、そういう疑問をそのまま口に出すのは妙に気が引けた。
「今ですか」
「今が都合悪い?」
問い返しが早い。
しかもその言い方が、こちらの反応を見るためにわざと半歩だけ踏み込んでくる感じで、非常にやりにくい。
「いや、悪いってわけじゃないですけど……」
「じゃあ来て」
即決だった。
もはや選択肢ではなく移動の確認である。
恒一は一瞬だけ教室の中へ視線を流した。
夢咲ことねが「なにあれ、強い……」という顔をしている。
朝霧凛は頬杖をついたまま、しかし明らかに興味を隠していない。
火乃森朱莉は窓際でこちらを見ていて、その表情は静かすぎる。
雪代しおんはノートを閉じる手を止め、やはり静かなまま状況を見ていた。
全方向から見られている。
やめてくれ。
これ以上イベント密度を上げないでくれ。
そう思いながらも、呼ばれた以上は行くしかない。
「……分かりました」
席を立つと、生徒会長らしき二年生は軽く顎を引いた。
「ありがとう」
その「ありがとう」は礼儀としては正しいのに、なぜかこちらが協力を申し出たような錯覚を起こさせる言い方だった。
恒一は鞄も持たず、そのまま教室の外へ出る。
扉が閉まる寸前、背後の空気が一段階ざわつくのが分かった。
終わった。
絶対あとで聞かれるやつだ。
◇
廊下に出ると、生徒会長はすでに歩き始めていた。
「ついてきて」
「はい」
返事をしながら、恒一は半歩遅れてその背中を追う。
歩き方に迷いがない。ヒールのない上履きでも、足音に無駄な揺れがなく、一定のテンポで廊下を進んでいく。校舎の角を曲がるたび、すれ違う生徒たちが自然に道を空ける。そのたびに「会長」「お疲れさまです」と小さな声が飛び、彼女は必要最低限のうなずきだけで応じた。
なるほど、生徒会長らしい。
この人はたぶん、星ヶ峰の中でちゃんと立場を持っている。
廊下の窓から見える中庭には春の花が並び、白い光が石畳に反射していた。外は穏やかで、校舎の中もどこか静かだ。だが、その静けさの中で二人きりで歩いている状況が、恒一には少し落ち着かなかった。
「あの」
思い切って声をかける。
「生徒会の聞き取りって、俺だけなんですか」
前を歩く彼女は、振り向かないまま答えた。
「一期生の男子は人数が少ないから、優先的に」
「……なるほど」
嘘ではないのだろう。だが、なぜかそれだけではない気もする。
階段を上り、生徒会室のある特別棟へ入る。人通りは一気に減った。昼休みの喧騒も遠くなり、聞こえるのは自分たちの足音と、どこかの教室で椅子が引かれる小さな音くらいだ。
彼女は一つの扉の前で止まった。
プレートには「生徒会室」とある。
「どうぞ」
先に中へ入るよう促され、恒一は少しだけためらってから扉を開いた。
中は想像より整っていた。大きめの机がいくつか並び、壁際には書類棚と掲示板。窓際には鉢植えが置かれ、午後の光がレースのカーテン越しに差し込んでいる。きちんと片付いているが、冷たい感じはしない。むしろ、管理された静けさがある。
他の役員の姿はなかった。
「誰もいないんですか」
「今は私だけ」
後ろから入ってきた彼女が扉を閉める。その音はやけに静かだった。
「みんな別件。安心して。取って食べたりはしないから」
「安心できる言い方じゃないですね」
思わずそう返すと、彼女は初めてほんの少しだけ笑った。
「そう?」
笑うと、冷たいだけではない顔になる。だが、その分余計に距離感がつかみにくい。
「座って」
机を挟んだ向かい側の椅子を示され、恒一はおとなしく腰を下ろした。彼女も対面に座る。机上にはすでに何枚かの用紙が用意されていて、その段取りの良さが妙に圧になる。
「改めて」
彼女は視線を上げた。
「二年の皇玲華。生徒会長をしてる」
皇玲華。
名前まで強い。
「一年の黒峰恒一です」
「知ってる」
さらりと言われて、恒一は少しだけ眉を上げた。
この数日で「知ってる」を二人目から言われることになるとは思わなかった。しかも今度は単純に、生徒会長として情報を把握しているという意味で言っているのだろう。だが、なぜか妙に圧がある。
「じゃあ、始めるね」
玲華は机の上の用紙に目を落とした。
「とはいえ堅い内容ばかりではないから、そんなに警戒しなくていい」
「警戒してるように見えます?」
「かなり」
即答だった。
「扉を閉めたあたりから肩が少し上がってる」
細かい。
しおんとは違う方向で観察されている。あちらが“音”なら、こちらは“反応”だ。
玲華はボールペンを手にしながら、淡々と質問を始めた。
「まず、星ヶ峰に入ってまだ数日だけど、環境の変化についてどう感じてる?」
「どう、って……」
「率直でいい。男子が少ないこと、視線が多いこと、女子との距離感、設備面、不便なこと、困ったこと」
項目としてはまっとうだ。
だから恒一も、一応真面目に答える。
「視線は正直、多いなと思います」
「うん」
「設備はそこまで困ってないです。まだ慣れてないところはありますけど」
「たとえば?」
「更衣の動線とか、体育の運用とか……あとは、普通にしてても目立つ感じがあるので、そこはちょっと」
「ふふ」
玲華がそこで小さく笑った。
書き取りながらなのに、その笑いが妙に綺麗で、しかも少しだけ意地が悪く見える。
「そんなに面白いこと言いました?」
「言ってない。けど、“普通にしてても目立つ”って自覚はあるんだと思って」
「それは、嫌でも分かりますよ」
「そうね。君、わりと視線を集めるから」
「男子が少ないから、ですよね」
「それもある」
玲華はそこでペンを止めた。
「でも、それだけじゃないかも」
「……どういう意味ですか」
「君、自分で思ってるより反応が分かりやすい」
来た。
まただ。
この学校の女子たち、みんな人のことを見すぎではないか。
玲華は椅子に軽くもたれ、腕を組む。
「質問されたときの間、困ったときの視線の逃がし方、誤魔化そうとするときの眉の動き。ぜんぶ結構素直」
逃げ場がない。
「それ、聞き取りに必要な情報ですか」
「個人的な興味」
さらりと即答された。
しかも悪びれた様子がまったくない。
恒一が返す言葉を探していると、玲華はさらに言った。
「君、からかうと分かりやすく困るでしょ」
「生徒会長が一期生をからかう前提なんですか」
「たまには観察も必要」
「何の観察だよ」
「反応の観察」
その返しがあまりにも迷いなくて、恒一は思わず言葉を失った。
玲華は静かに微笑んでいる。
その微笑みは、温かいのではなく、相手がどう出るかを楽しんでいる人のそれだった。
「まあ、冗談はここまでにして」
たぶん冗談ではなかったと思うが、恒一は黙っておくことにした。
「クラス内の馴染み具合はどう?」
「え?」
「友人関係。話しやすい相手はできた?」
質問自体は自然だ。だが、なぜかその目だけが自然ではない。静かなのに、獲物を見失わない目をしている。
「まあ、少しは」
「“少し”」
玲華が繰り返す。
「夢咲ことねさん、火乃森朱莉さん、雪代しおんさん、朝霧凛さん。そのあたり?」
心臓が変な音を立てた。
「なんでそこまで」
「観察対象だから」
またそれだ。
「生徒会長って、そんなに暇なんですか」
「失礼ね。忙しいからこそ、目立つ変化は把握してるの」
玲華は少しだけ目を細めた。
「それに、今の反応。やっぱりそのあたりは当たりだったみたい」
はめられた。
今ので確信を取ったのだ。わざと名前を並べて、反応を見た。
「……ひどくないですか」
「いい顔した」
「褒めてないですよね、それ」
「ええ。とても困ってる顔」
玲華の唇が、ほんの少しだけ楽しそうに上がる。
この人は危ない。
いや、別の意味で危ない。
しおんの静かな怖さや朱莉の重さ、ことねの勢いとはまったく違う。もっと理性的で、もっと意図的だ。相手を困らせたときの反応そのものを楽しんでいる。
それを悪意だけでやっているわけではないのが、なおさら厄介だった。
「安心して」
玲華が少し身を乗り出す。
「別に君をいじめたいわけじゃない」
「今の流れで安心しろって無理があるでしょう」
「そう?」
机を挟んでいるはずなのに、距離が少し近い気がする。声のトーンは低くて落ち着いていて、言葉だけ見れば穏やかだ。だが、その穏やかさが逃げ道を削ってくる。
「君みたいな子、嫌いじゃないの」
「どういう意味ですか」
「ちゃんと真面目にやろうとしてるのに、周囲に振り回されて困るタイプ」
玲華は頬杖をついた。
「見ていて飽きない」
「最後の一言で全部台無しなんですけど」
恒一がそう返すと、玲華は珍しく少しだけ声を立てて笑った。
その笑い方は上品だ。上品なのに、しっかり人を弄んでいる気配がある。
「君、本当に反応がいいわね」
「皇先輩がいちいち意地悪なんですよ」
「先輩」
玲華はその単語を拾うみたいに繰り返した。
「いい呼び方ね」
「そこ拾うんですか」
「うん。悪くない」
何が悪くないのか分からない。
玲華はまた用紙へ視線を落とし、何かを書き込む。だがその手元を見ていると、これが本当に聞き取りの記録なのか、それともただのメモなのか怪しく思えてくる。
「最後に一つ」
ペンを置いて、玲華が言う。
「星ヶ峰で過ごしていて、一番困ることは何?」
質問はまともだった。
だからこそ、恒一も一瞬だけ考える。
視線。
距離感。
噂。
女子との接し方。
いろいろある。いろいろあるが、今いちばん率直に出てくる答えは別だった。
「……何が正解か分からないこと、ですかね」
「正解?」
「どこまで普通にしていいのかとか。誰かと話すだけで変に目立つし、でも距離を取りすぎるのも感じ悪いし。気を遣いすぎても不自然になるし、遣わなすぎても空気読んでないみたいになるし」
言いながら、自分でも少し驚いた。思っていたより、ちゃんと溜まっていたらしい。
「正解が分からないから、ずっと様子見してる感じです」
玲華はその答えを聞いて、すぐには何も言わなかった。
さっきまでのからかうような空気が、ほんの少しだけ引く。
「……そう」
落ちた声は静かだった。
「それは、ちゃんと困るわね」
その一言だけ、少しだけ優しかった。
恒一は思わず顔を上げる。玲華の表情はいつもと大きく変わらない。けれど、目の奥にあった面白がる色が少しだけ薄れている。
「共学化の調整って、制度や設備だけじゃ足りないのよね」
玲華は小さく息を吐いた。
「人の感覚の更新は遅いから」
それは、たぶん生徒会長としての本音なのだろう。
星ヶ峰は見た目だけならもう共学だ。だが、内側の空気はまだ女子高のまま残っている。玲華はきっと、それを一番近くで見ている側の人間なのだ。
「でも」
そう言ってから、彼女はまた少しだけ口元を上げた。
「その困った顔はやっぱり悪くないわね」
「前言撤回、やっぱりこの人意地悪だ……」
「今の、声に出てた?」
「半分くらいは」
「ふふ」
また笑う。
やっぱり楽しんでいる。
だが最初よりは少しだけ、ただの意地悪ではないと分かってきた。この人はたぶん、生徒会長として星ヶ峰を回している顔と、個人的に面白いものを観察したがる顔を、同時に持っている。
その両方が強すぎるだけで。
「今日はこれで終わり」
玲華は立ち上がった。
「協力ありがとう」
「本当に聞き取りだったんですね、一応」
「“一応”って何」
「後半ほぼ遊ばれてた気がするので」
「気のせいじゃないかも」
「否定してくださいよ」
玲華は答えず、代わりに扉のほうへ歩いた。恒一も椅子を戻して立ち上がる。生徒会室の窓から差し込む光が、床に長く伸びていた。
扉の前で、玲華がふと振り返る。
「黒峰くん」
「はい」
「困ったことがあったら、生徒会に言いなさい」
その言葉は真面目だった。冗談抜きに、生徒会長としての声だった。
だが次の瞬間、彼女は続ける。
「私が直々に観察してあげるから」
「やっぱりそこに戻るんですね!?」
玲華はくすりと笑った。
「冗談よ」
「さっきからその冗談の信頼度が低いんですけど」
「そう?」
そう言いながらも、彼女はどこか満足そうだった。
◇
教室へ戻る道のりが、妙に長く感じた。
特別棟から本校舎へ渡る廊下は、午後の光で白く明るい。中庭の木々が風に揺れ、その影が床にまだらに映っている。きれいな景色だ。きれいな景色なのに、恒一の頭の中はさっきの生徒会室のやり取りでいっぱいだった。
皇玲華。
生徒会長。
完璧で、意地悪で、逃げ道をふさぐのが上手くて、しかも本人はそれを楽しんでいる。
最悪の相性かもしれない。
いや、もしかすると、そういう相手だからこそ、やりにくさの中に変な鮮やかさがあったのかもしれないが、それを認めるのも癪だった。
教室の前まで戻ると、案の定、中の空気が少しだけこちらを待っていた。
扉を開けた瞬間、何人かの視線が動く。
夢咲ことねは「どうだった!?」と顔に書いてある。
朝霧凛は興味がないふりをしているが、絶対に気にしている。
火乃森朱莉は表情を変えずにこちらを見る。
雪代しおんは静かに、しかし確実に戻ってきたタイミングを拾っている。
席へ戻った瞬間、ことねがさっそく小声で聞いてきた。
「何だったの……?」
「生徒会の聞き取り」
「ほんとに?」
「ほんとに。たぶん」
「たぶん!?」
ことねが目を丸くする。
その反応に、恒一は思わず額を押さえた。
「いや、最初はちゃんとしてたんだよ。でも途中から、なんか反応見られてる感じがして」
「うわぁ……」
ことねが本気で引いたような顔になる。
「皇先輩、そういうとこあるんだよね……」
「知ってるのか」
「有名だよ。困ってる顔好きって」
やっぱりそうなのか。
恒一が遠い目になったそのとき、通路側から凛がぼそっと言った。
「ご愁傷さま」
「人ごとだな」
「だって会長に目つけられたら終わりでしょ」
「終わりってなんだよ」
「見てて面白いって思われたら、たぶんしばらく弄ばれる」
「言い方!」
そこで、窓際から静かな声が落ちた。
「皇先輩、反応いい人好きだから」
しおんだった。
その情報まで知っているのか、と恒一はもはや突っ込む気力もなかった。
そして最後に、朱莉が小さく言う。
「……面倒なの増えたね」
その一言だけで、恒一はまた深くため息をつきたくなった。
そう。
たぶん本当に、面倒なのが増えた。
星ヶ峰学園の中で、また一人、自分へ明確に興味を向ける人間が増えたのだ。しかも今度は、生徒会長という分かりやすく強い立場の相手。
普通の青春は、ますます遠のいていく。
教室の窓の外では、春の光がまだ明るかった。
なのに恒一の胸の中には、静かな疲労と、妙な予感ばかりが積もっていく。
皇玲華は、たぶんこれで終わらない。
あの人は一度「面白い」と思った相手を、きっと簡単には放っておかない。
それだけは、短いやり取りの中でもはっきり分かってしまっていた。




