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第6話 ツンデレは、褒める代わりに噛みついてくる

金曜の朝のホームルームが終わるころには、黒峰恒一はすでに「今日はたぶん静かじゃ終わらない」とうっすら悟っていた。


 理由は特にない。

 いや、正確にはありすぎて一つに絞れない。


 ここ数日で、星ヶ峰学園という場所が「一見上品で平穏そうに見えて、内側ではじわじわ人間関係が煮えていく学校」だということは、もう十分すぎるほど思い知らされている。誰が誰と話したとか、誰と登校したとか、放課後どこにいたとか。そんな些細な変化が、やたらと空気に波紋を生む。


 しかも、その中心に、なぜか自分が立たされている。


 普通の青春がしたかっただけなのに。

 少なくとも、こんなに周囲の視線の意味を読み続ける高校生活は想定していなかった。


 朝霧凛は今日も通路側の席で、頬杖をついたまま無表情に前を見ていた。窓から入る春の光が横顔の輪郭を細く照らしている。静かにしていれば、彼女はクールで近寄りがたい美少女に見える。実際、クラスの中でもどこか一線を引いているような雰囲気がある。


 だが、ここ数日で分かってきた。あれは単に冷たいのではない。距離の詰め方が不器用なのだ。言葉の端々が刺々しいくせに、妙なところでよく見ている。気にしていないふりをしながら、周囲の変化をかなり正確に拾っている。


 そしてたぶん、今日はその朝霧凛が前に出てくる日になる。


 なぜそう思ったのかといえば、時間割のせいだった。


 三時間目、体育。


 朝のうちに配られた時間割変更の紙を見た瞬間、教室のあちこちで小さなざわめきが起きた。男女共学化したばかりの星ヶ峰では、体育の運用もまだ試行錯誤らしい。しばらくは男女合同で基礎運動と軽いゲーム形式を行う、と説明があった。


 その瞬間、ことねが「うわ、男子いる体育ってなんか新時代……」と妙な感想を漏らし、凛は「騒ぎすぎ」と冷たく切って捨て、しおんは静かに時間割の紙を折りたたんでいた。朱莉は何も言わなかったが、恒一がそちらを見ると、ほんの少しだけ眉を寄せていた。


 ……嫌な予感しかしない。


 そして、その予感は大体当たる。


     ◇


 三時間目。


 体育館へ向かう途中の廊下は、普段より少しだけ空気が軽かった。座学の授業とは違って、体育の前はみんな多少なりとも浮つく。廊下に反響する足音も、普段より弾んで聞こえる気がする。更衣室から出てきた女子たちの声や、体育館の扉が開くたびに流れ出てくるバスケットボールの弾む音が、校舎の静かな空気を少しだけ崩していた。


 恒一は指定された体操服姿で、体育館の入口に立った。


 中学時代の体育館と大きく違うわけではない。高い天井、磨かれた床、ワックスの匂い、壁際に並ぶ器具庫。けれどその中に広がる景色は、やはりだいぶ違った。圧倒的に女子が多い。白と紺を基調にした体操服の群れの中で、男子の存在はやっぱり目立つ。


 目立つし、見られる。


 体育の時間くらい勘弁してくれ、と思うが、そうもいかないらしい。


「集合早くー。今日は基礎運動の確認と、最後に軽くミニゲーム入れるから」


 体育教師の女性が笛を鳴らしながら指示を出す。きびきびした口調だが、どこかまだ共学運用に慣れていない慎重さも感じた。


 クラスごとに軽く整列し、準備運動が始まる。屈伸、伸脚、肩回し。そういう動作はどこの学校でも変わらない。変わらないはずなのに、星ヶ峰だと妙に意識してしまうのは、周囲の女子たちがまだ「男子が同じ空間で体育をする」という状況に慣れていないからだろう。


 実際、あちこちで微妙に視線が動いている。


 直接じろじろ見られるわけではない。だが、「どういう感じなんだろう」という好奇心が空気に混じっているのは分かる。男子校でも女子校でもないはずなのに、今の星ヶ峰はまだその境目の途中にある。


 準備運動のあと、反復横跳びや軽いダッシュなど、基礎的な運動がいくつか続いた。恒一は別に運動神経が抜群というわけではない。中学では文化部寄りで、体力は平均程度。だが、運動そのものが嫌いなわけでもなかった。


 だから、言われたことはとりあえずちゃんとやる。


 手を抜いて目立つのも嫌だし、変に気負って無理をするのも違う。

 とにかく普通に、ちゃんとやる。


 そう思って動いているだけなのだが、それがどうやら何人かの目には違うふうに映っているらしかった。


 短距離の流しを終えて列に戻ったとき、すぐ横から低い声が飛んできた。


「へえ」


 朝霧凛だった。


 息はまったく乱れていない。さすが陸上部エースというべきか、体の軸がぶれていないし、立ち姿だけでも運動が染みついているのが分かる。


「何だよ」


 恒一が言うと、凛は前を見たまま答える。


「思ってたよりサボらないんだなって」


「そんな評価なのか、俺」


「だって男子って、こういう地味なメニュー嫌がりそうじゃん」


「また偏見だな」


「女子校育ちだから」


 もうその免罪符みたいな返しにも慣れてきた。


 凛はそこでようやく恒一をちらりと見た。


「でも、ちゃんと最後まで崩れてないのは意外だった」


「……それ、褒めてるのか?」


「半分だけ」


「残り半分は?」


「別に褒めたくない」


「なんだそれ」


 相変わらず言い方がひどい。


 だが、その目は少しだけ真面目だった。ただからかっているだけではない。実際に何かを見て、それを判断している目だ。


 そのあと行われたのは、二人一組での軽いパス練習だった。教師が「近くの人同士で組んで」と言った瞬間、体育館の空気が一瞬だけ揺れる。


 女子ばかりの環境で、男子と組むこと自体がまだ珍しいのだろう。何人かが迷うように顔を見合わせる中で、恒一も一瞬どうしたものかと立ち止まった。


「黒峰」


 先に声をかけてきたのは、凛だった。


「ぼさっとしてると余るよ」


「お前、いいのか」


「何が」


「俺と組んで」


 凛は露骨に眉をひそめた。


「別に深い意味ない。近いし、余計な遠慮してるほうがめんどくさいから」


「言い方……」


「ほら、早く」


 半ば命令みたいにボールを押しつけられ、恒一は苦笑しながら位置についた。


 教師の合図で練習が始まる。一定の距離を取って、胸元へ向けてまっすぐパスを出す。ごく基本的な練習だ。難しくはない。難しくはないのだが、相手が朝霧凛だと妙な緊張がある。しかも凛は投げ方がきれいだった。無駄がなく、強すぎず弱すぎず、受け手が取りやすい球を自然に出してくる。


 恒一も真面目に返す。

 別に対抗心があるわけではない。

 ただ、こういうときに妙なミスをしたくないだけだ。


 数往復したところで、凛が言った。


「意外とちゃんと取るじゃん」


「だからお前、毎回“意外と”つけるなよ」


「だって最初の印象、もっと頼りない感じだったし」


「初対面でそこまで思われてたのか」


「教室で一瞬止まったから」


「まだそこ擦るのかよ」


 凛は少しだけ口元を上げた。笑っているのか、それともただ面白がっているだけなのか微妙なラインだ。


 さらに数回パスを交わしたあと、彼女は不意に恒一の手元を見た。


「その指、少し固くなってる」


「は?」


「ペンだこじゃない。鞄の持ち方か、何か別の癖あるでしょ」


 また変なところを見ている。


「そんなの分かるのか」


「分かる。あと、靴の擦れ方も」


「靴?」


「上履きの横、ちょっと外側だけ削れてる。歩き方に癖ある」


 恒一は思わず自分の足元を見た。そんなところまで観察されていたのか。


 凛は平然としている。


「……お前も大概よく見てるな」


「見るよ。そういうの」


「なんで」


 凛はボールを受け止め、一拍置いてから返した。


「頑張った跡って、わりと出るから」


 その言い方だけ、少しだけトーンが違った。


 いつもの刺々しさが一瞬薄れて、代わりに何かまっすぐなものが見えた気がする。


「新品で綺麗なものより、使い込んだ跡のあるほうが分かるでしょ。ちゃんと使ってるとか、ちゃんとやってるとか」


 ボールがまた返ってくる。恒一はそれを受け止めながら、少しだけ考えた。


 朝霧凛は、表面の器用さとか愛想の良さより、もっと別のものを見ているのかもしれない。使い込まれたもの、繰り返した痕跡、努力の残り方。彼女が陸上部で、日々そういうものに囲まれているからだろうか。


「……なんか」


 恒一が小さく言う。


「お前、変なところで人見るな」


「悪い?」


「いや、悪くはないけど」


「じゃあいいでしょ」


 凛はそっけなく言ったが、その耳がほんの少しだけ赤くなっているのを、恒一は見逃さなかった。


 そこを指摘したらたぶんまた噛みつかれる。だから黙っておいた。


     ◇


 体育の最後は、クラスを二つに分けた簡単なミニゲームになった。ルールはかなり軽めで、全力勝負というよりは交流目的に近い。教師も「競いすぎないように」と何度も言っている。


 だが、朝霧凛にその注意はあまり意味をなさないらしかった。


「そこ、右!」


「今、前出て!」


「いや、止まらないで動いて!」


 指示が飛ぶ。正確で、速い。決して怒鳴っているわけではないのに、声の芯が強いから自然と周囲が動く。なるほど、普段から走ることに慣れている人間は、動きの見え方まで違うのかもしれない。


 恒一も指示に従って動く。正直、完璧にはついていけない。けれど、分からないなりに食らいつく。途中で転びそうになりながらも、なんとか体勢を戻し、来たボールにはちゃんと反応する。


「黒峰!」


 凛の声。


「そこ!」


 反射的に手を出すと、思ったよりいい位置でボールを受けられた。驚く間もなく近くの味方へ返す。次の瞬間、周囲から小さく歓声が上がった。


 なんとか繋がったらしい。


 ゲームが一段落し、笛が鳴る。教師が終了を告げ、体育館の空気が一気に緩んだ。あちこちで「あー疲れた」「暑い」「今の惜しかった」と声が飛び交う。


 恒一も息を整えながら額の汗をぬぐった。全力ではないにせよ、慣れない環境で動いたぶん、思ったより疲れている。


「……はあ」


「なに、その死にかけみたいな息」


 隣に来た凛が、呆れたように言った。


「お前が普通に動かしすぎるんだよ」


「普通だけど」


「お前基準だろ、それ」


 凛は少しだけ肩をすくめた。


「でもまあ、思ったよりちゃんと動けるじゃん」


「また“思ったより”」


「うるさい」


 ぴしゃりと返されたが、その声音はさっきまでより柔らかかった。


「途中で投げないのはいいと思う」


 ぽつりと落ちたその一言に、恒一は一瞬だけ言葉を失う。


 真正面から褒められたわけではない。

 褒める代わりに、ぎりぎり素直になりきれない言い方で渡された評価。

 でも、それがたぶんこの子なりの本音なのだろう。


「……そりゃどうも」


 恒一がそう返すと、凛は視線を逸らした。


「別に、大したことじゃないし」


「お前それ、毎回褒めたあとに否定しないと死ぬのか」


「死なないけど癪」


「意味分からん」


 そのやり取りの途中で、体育教師が解散を告げた。更衣室へ戻る流れができる。女子たちの波の中で、凛は最後に一度だけ恒一の体操服の袖口を見た。


「……それ」


「ん?」


「ちゃんと洗ってる感じする」


「そこ評価されるのかよ」


「努力の痕跡って言ったでしょ」


「洗濯は努力か?」


「生活感」


「雑だな」


 だが凛は、なぜか少しだけ満足そうだった。


     ◇


 昼休み。


 午前の授業が終わるころには、体育のあと特有のだるさが体に残っていた。机に頬をつきたい気持ちをこらえながら、恒一は弁当を取り出す。


 すると間もなく、ことねがやってきた。


「黒峰くん、さっき体育で朝霧さんと組んでたよね?」


 いきなり核心だ。


「組んでたけど」


「なんか……普通に息合ってなかった?」


「普通にパス練しただけだろ」


「それが気になるの!」


 ことねは小声で言ったが、勢いはいつも通りだった。


「だって朝霧さん、ああいうとき他人にあんまり合わせないイメージあったし」


「そうなのか?」


「うん。ていうか基本、あの人、自分で全部できるタイプだから」


 その評価は分かる気がした。凛は、誰かに頼るより自分で走ったほうが早いと本気で思っていそうな人間だ。


 そこへさらに、別方向から声が差し込んだ。


「へえ、体育の話してるんだ」


 火乃森朱莉だった。


 ことねがぴくっと反応する。

 恒一の胃が、また少しだけ重くなる。


 朱莉は自分の席の横に立ったまま、ことねと恒一を見下ろした。その目は笑っていないわけではない。けれど完全に柔らかいわけでもない。幼馴染としての近さと、何かを牽制する鋭さが同居している。


「別に大したことじゃないよ」


 恒一が先に言うと、朱莉は少しだけ眉を上げた。


「そう?」


「そうだよ。普通に授業だし」


「ふうん」


 朱莉は短く相槌を打つ。


「でも朝霧さんって、見る目あるよね」


 唐突な言い方だった。


「……どういう意味だ?」


 今度は恒一ではなく、少し離れた席から本人の声が飛んできた。


 朝霧凛だ。弁当の蓋を開ける手を止め、こちらを見ている。目つきはいつも通り鋭いが、声に混じる温度は明らかに低かった。


 朱莉はそちらへ顔を向ける。


「そのままの意味。ちゃんとやってる人間は嫌いじゃないでしょ、朝霧さん」


 空気が少しだけ張る。


 ことねが「うわ」と小さく呟いたのが聞こえた。


 凛は数秒黙ったあと、静かに返す。


「別に、誰を好きとか嫌いとかの話はしてない」


「でも褒めてたじゃん、さっき」


「聞いてたの?」


「聞こえる距離だったから」


 言い方は穏やかだ。だが、穏やかだからこそ刺さる。


 恒一は早くも思った。

 やめてくれ。

 昼休みだぞ。

 まだ昼だぞ。


 凛は箸を置き、椅子にもたれた。


「火乃森さんこそ、ずいぶん詳しいね」


「幼馴染だから」


 即答。


 朱莉のほうも、一歩も引く気配がない。


「黒峰のことは昔から見てるし」


 その一言に、ことねの視線が一瞬だけ恒一へ飛ぶ。

 しまった、と思ったときには遅い。


「……へえ」


 凛が小さく言う。


「じゃあ、昔からそうやって守ってきたんだ」


「そうだけど?」


「過保護なんだね」


「心配する必要があるから」


「ふーん」


 凛の口元が少しだけ上がる。あれは笑っているのではない。戦闘態勢に入る前の顔だ。


「でも黒峰、自分で思ってるよりちゃんとしてるよ」


 その言い方は、昼の体育で交わした言葉の延長線上にあった。


「すぐ投げないし、手抜きもしない。少なくとも、放っといたらすぐ潰れるタイプではないでしょ」


 その評価に、朱莉の目がわずかに細くなる。


「朝霧さんがそう思うのは勝手だけど」


「うん」


「私が心配するのも勝手でしょ」


「それもそう」


 凛はあっさり認めた。認めたうえで、さらに続ける。


「ただ、何でも先に囲おうとするのは、見てて息苦しいかもね」


 ことねが息をのんだ。


 恒一は本格的に頭が痛くなってきた。


 朱莉はしばらく黙っていたが、やがて静かに笑った。


「朝霧さん、意外とよく喋るんだ」


「相手による」


「そう」


「火乃森さんもね」


 教室の空気が、またしても嫌な意味で薄くなる。

 誰も大声を出しているわけではない。

 けれど、近くにいる何人かは確実に気づいている。

 やばい空気だ、と。


 そのときだった。


「……あのさあ」


 夢咲ことねが、ものすごく気まずそうに口を開いた。


「お弁当、冷めるよ?」


 あまりにも平和的で、あまりにもずれた一言だった。


 一瞬、誰も何も言わなかった。


 次の瞬間、恒一は吹き出しそうになり、それをなんとかこらえた。凛は呆れたように目を伏せ、朱莉は一拍遅れて小さく息を吐いた。


「……確かに」


 凛がぼそっと言う。


「ことね、そこでそれ言えるの強いな」


 恒一が言うと、ことねは半泣きみたいな顔になった。


「だってこの空気どうしたらいいのか分かんないし!」


 その一言で、張りつめていた糸が少しだけ切れた。


 朱莉は肩の力を抜き、凛も弁当へ視線を戻す。完全に収まったわけではない。けれど、とりあえずその場で正面衝突する流れは避けられた。


 恒一は内心でことねに感謝した。

 こういうところ、本当に助かる。


 だが、助かったのは一時的なものにすぎないとも分かっていた。


 朝霧凛は、もう完全にただのツンとしたクラスメイトではなくなっている。

 火乃森朱莉は、幼馴染としての距離を隠そうとしない。

 夢咲ことねは、明るさのまま空気の中心へ入ってくる。

 雪代しおんは、たぶんこの一連の流れすらどこかで静かに見ている。


 昼休みの光が教室の机を照らす中、恒一は小さくため息をついた。


 体育の時間にちょっと真面目に動いただけで、どうしてここまで話が広がるんだ。


 だが同時に、胸の奥では少しだけ分かってしまっていた。


 朝霧凛が自分を見る目は、最初より確実に変わっている。

 褒める代わりに噛みついてくるその態度の裏に、ちゃんとした評価が混じり始めている。


 そしてそれは、きっと面倒の始まりでもある。


 星ヶ峰の昼は、春の陽射しのわりにずっと落ち着かなかった。

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