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第5話 幼馴染は、再会しただけでは終わらない

 翌朝、黒峰恒一は目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。


 薄いカーテン越しに差し込む朝の光が、部屋の隅をやわらかく白くしている。まだ眠気は残っているのに、二度寝する気にはなれなかった。昨夜もそれほど遅くまで起きていたわけではない。だが、ベッドに入ってからもしばらく意識が妙に冴えてしまっていたのだ。


 原因は分かっている。


 星ヶ峰学園に入ってから、まだたった数日なのに、周囲の情報量が多すぎる。


 夢咲ことねとは、二日連続で放課後に話し込んでしまった。昨日の図書室でも、原作初期設定の特集記事だの、キャラデザ初稿だの、脚本構成案だのを前に、気づけばかなりの時間を使っていた。ことねは相変わらず熱量が高く、そしてやっぱり話していて楽しかった。


 雪代しおんは静かなまま、しかし着実に自分のことを“聞き取って”いる。あの「図書室だと歩く音が変わるから、あとで分かる」という一言は、冗談でも脅しでもなく、本気でそう思って言っているのが厄介だった。


 朝霧凛の視線も、日に日に意味を持ち始めている気がする。真正面から関わってくるわけではない。けれど、こちらが誰とどう話しているかを、思っている以上によく見ている。


 そして何より、火乃森朱莉だ。


 幼馴染として再会したはずなのに、どうにもそれだけで終わる空気ではない。教室で見かけるたび、視線が合うたび、何か言いたいことを飲み込んでいるような、そんな張りつめ方がある。


 普通の高校生活は、どこへ行った。


 天井を見上げたまま、恒一は心の中でぼやいた。


 せめて恋愛イベントというものは、もう少し段階を踏んで起きるべきではないだろうか。いや、恋愛イベントと決まったわけではないのだが、どう考えても平穏なクラスメイト関係の進み方ではない。


 ベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗う。水の冷たさでようやく頭が少しだけはっきりした。


 今日は金曜日。

 まだ一週間も経っていない。

 なのに、体感ではもう二週間分くらいの出来事があった気がする。


 制服に着替え、鞄の中身を確認し、最低限の身だしなみを整える。リビングで朝食をかき込みながらも、頭の片隅では今日一日の空気を想像してしまう。


 教室に入れば、また何かが起きるかもしれない。

 いや、起きないほうがおかしいくらいには、もう周囲の人間関係が動き始めている。


 それでも、今日だけは少し静かであってほしい。


 そんなささやかな願いを抱えたまま、恒一は家を出た。


     ◇


 駅へ向かう道は、朝の光の中でまだ少し冷たかった。


 住宅街の角を曲がるたび、制服姿の学生がぽつぽつと増えていく。自転車を押している生徒、イヤホンを片耳だけつけて歩く男子、友達と待ち合わせているらしい女子二人組。どこにでもある朝の風景だ。星ヶ峰へ向かう生徒も何人か見かけたが、校門前ほどの視線はまだない。


 このくらいの距離感がちょうどいいんだけどな、と恒一は思う。


 学校へ近づけば近づくほど、自分が「男子」というだけで余計な意味を持ち始める。そこが星ヶ峰のやりづらいところだった。


 駅前の横断歩道を渡りかけたところで、ふいに背後から声が落ちてきた。


「遅い」


 短くて、妙に耳に残る声だった。


 恒一は足を止めて振り向く。


 そこに立っていたのは、火乃森朱莉だった。


 朝の空気の中でも目を引く。長い髪は肩のあたりでやわらかく揺れ、制服も星ヶ峰の着こなしの中では比較的きっちりしているほうだ。顔立ちは整っているし、黙って立っていればたぶんかなり美人の部類に入る。だが、目元だけが少し強い。昔から気の強さはあったが、今はそれがより洗練されて、簡単には揺らがない芯みたいになっていた。


「……いや、待ち合わせしてたわけじゃないだろ」


 思わずそう返すと、朱莉は小さく鼻を鳴らした。


「してなくても、あんたの家から駅までの時間くらい覚えてる」


「なんでだよ」


「昔、何回一緒に歩いたと思ってんの」


 その言い方は当然のようで、少しだけ懐かしさを含んでいた。


 恒一は一瞬だけ言葉を失う。


 小学生のころ、確かに何度も一緒に歩いた。登校班とは別に、放課後に偶然を装って家の近くまで一緒になることもあったし、買い物帰りに並んで坂道を上ったこともある。夕焼けの色とか、公園の遊具の冷たさとか、そういう細かい景色と一緒に、朱莉の姿もぼんやり記憶の中に残っている。


 だが、それをこんなふうにまっすぐ掘り返されると少し困る。


「……覚えすぎじゃないか」


「そっちが忘れすぎ」


 返ってきたのは、少しだけ尖った声だった。


 信号が青になり、周囲の人々が歩き出す。二人も流れに乗って横断歩道を渡った。朱莉は自然に恒一の隣へ並ぶ。歩幅の合わせ方に迷いがない。まるで昔からそうするのが当たり前だったみたいに。


「で」


 朱莉が前を向いたまま言う。


「最近、楽しそうじゃん」


「急だな」


「急じゃない。昨日も一昨日も見てたし」


 やっぱり見てたのか。


 そう思った瞬間、恒一の胸のあたりが少しだけ引っかかる。


「夢咲さんと、雪代さん」


 名前を出す順番に、妙な温度差があった。


「よく話してるよね」


「まあ、ちょっとな」


「ちょっと、で済んでるならいいけど」


「どういう意味だよ」


 朱莉はすぐには答えなかった。駅前通りを抜け、学校へ向かう緩い坂へ入る。朝の光の中で、桜並木が少しずつ近づいてくる。風が吹くと、まだ散りきらない花びらが足元を流れていった。


「星ヶ峰、普通の共学じゃないから」


 ようやく落ちてきた言葉は、思ったより静かだった。


「それは分かってるつもりだけど」


「分かってない。たぶんまだ全然」


 朱莉はきっぱり言った。


「ここ、今年から共学って言っても、空気はまだ女子高のままなの。距離感も、噂の回り方も、誰が誰をどう見てるかも、ぜんぶ独特」


 その口調には、外から聞いた知識ではない実感があった。朱莉はずっとこの学校にいた。女子高時代から、その閉じた空気の中で人間関係を見てきたのだろう。


「夢咲さんはまだ分かりやすい。ああいうのは勢いで近づくタイプだから」


「“ああいうの”って」


「明るくて、好きなものに一直線で、たぶん悪気もない」


 そこまでは、わりと正しい。恒一も否定できなかった。


「でも雪代さんは違う」


 朱莉の声がほんの少しだけ低くなる。


「あの人、静かだから目立たないけど、気づいたら距離詰めてくるタイプ。悪い意味じゃなくても、ああいうのは自分のペースが強いから」


「……ずいぶん詳しいな」


「同じ学校にいたんだから当たり前でしょ」


 そう言ってから、朱莉は横目で恒一を見た。


「忠告してるの。あんた、そういうのに慣れてないから」


 その視線はまっすぐだった。


 馬鹿にしているわけではない。けれど、少しだけ苛立ちも混じっている。どうして苛立っているのかまでは、すぐには分からなかった。


「別に、俺だってそんな簡単に振り回されてないぞ」


 ついそう言い返すと、朱莉は小さく笑った。


 笑った、というより、呆れたように息をこぼした感じに近い。


「もう振り回されてるよ」


「は?」


「自分だけ普通にしてるつもりで、周りの空気読めてないとこ昔から変わってない」


「なんだそれ」


「そのまんまの意味」


 ひどい言いようだ。だが、言われた瞬間にまったく身に覚えがないとも言えないのが悔しい。


 恒一は昔から、悪意のない相手に対しては警戒が甘いところがあった。誰かが本気で困っていれば放っておけないし、楽しく話せるなら普通に返す。そういう“当たり前”の振る舞いが、女子ばかりの環境では目立つのかもしれない。


 朱莉は少しだけ歩調を緩めた。


「別に、誰とも話すなって言ってるんじゃない」


 その声は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。


「ただ、あんたが思ってるよりこの学校めんどくさいから。男子が少ないってだけで、変な注目のされ方するし。誰かとちょっと仲良くしてるだけで、勝手に意味つけられる」


「……それは、なんとなく分かってきた」


「でしょ」


 朱莉はうなずく。


「だから、気をつけて」


 その一言だけは、綺麗なくらい真っ直ぐだった。


 守ろうとしている。


 そう感じた瞬間、恒一の胸のあたりに妙な温度が残った。


 昔の朱莉は、もっと分かりやすかった。気が強くて、世話焼きで、怒るときは怒るけれど、嬉しいときも顔に出る。今の彼女はその芯を残したまま、感情の見せ方だけが少し複雑になっている。


「……ありがとな」


 恒一がそう言うと、朱莉は一瞬だけ目を伏せた。


「別に」


「いや、でも忠告なんだろ」


「そうだけど」


「なら一応」


 言葉を重ねると、朱莉はわずかに視線を泳がせた。頬に朝の光が当たって、その横顔が少しだけやわらかく見える。


「昔からそういうとこ、ずるい」


 ぽつりと落ちたその言葉に、恒一は聞き返した。


「何が?」


「……なんでもない」


 だが朱莉はすぐに前を向いてしまう。


 やがて星ヶ峰の校門が見えてきた。煉瓦風の門柱、整った花壇、朝の光を受ける校舎の白い壁。相変わらず綺麗だが、そのぶん校門の前に立つと少しだけ緊張する。


 ここから先は、また学校の空気だ。


「そういえば」


 校門の手前で、朱莉が急に声を落とした。


「今日の放課後、少し時間ある?」


「放課後?」


「うん」


「なんで」


「話したいことあるから」


 それはあまりにもあっさりした言い方だったが、声音の奥には妙な緊張があった。


「今じゃ駄目なのか?」


「今は駄目」


 即答。


「教室の前でこんな話してたら、余計な目つくし」


 なるほど、それは確かにそうだ。今こうして二人で登校しているだけでも、校門前の空気はいくつかの視線を寄越している。男子希少の学校で、美少女と並んで歩いていれば目立たないわけがない。


「じゃあ、放課後」


 恒一がそう返すと、朱莉はほんの少しだけ表情を緩めた。


「……ちゃんと来て」


「逃げるみたいに言うなよ」


「信用してないから」


「ひどいな」


「信用されたいなら、教室入ってから他の子に流されないことね」


 その言い方に、恒一は苦笑するしかなかった。


 校門をくぐる。


 途端に、また空気が変わる。


 朝のざわめき。交わされる挨拶。教室へ急ぐ足音。そこに紛れるようでいて、確かに感じる視線。昨日までよりも少しだけ、「黒峰恒一」という存在がこの学校の中で認識され始めているのかもしれない。


 朱莉は恒一の隣から半歩だけ前へ出た。


「じゃ、また教室で」


「ああ」


 そう答えたところで、彼女はふと振り返る。


「恒一」


 名前を呼ばれたのは久しぶりだった。黒峰くん、ではなく、苗字でもなく、昔と同じ呼び方で。


 恒一が見ると、朱莉は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。


「……私、あんたのことはちゃんと分かるから」


 それだけ言って、彼女は先に校舎へ向かっていった。


 残された恒一は、数秒その場に立ち尽くす。


 なんだ今の。


 言葉の意味が曖昧なのに、妙に胸の奥へ残る。幼馴染だから、昔から知ってるから、という意味に取れば自然だ。けれど、それだけでは済まない何かがあの一言には混じっていた。


 ため息をつきたくなるような、でも少しだけ嬉しいような、ひどく扱いに困る感情。


 星ヶ峰の朝は、やっぱり平穏には始まらないらしい。


     ◇


 教室へ入ると、空気はいつも通り賑やかだった。


 窓際の席には朝の日差しが差し込み、何人かの女子が黒板の予定表を見ながら話している。机の間を抜けて自分の席へ向かう途中、いつものように何本かの視線を感じた。


 ただ今日は、それに別の意味が混ざっている気がした。


 ――今、火乃森さんと一緒じゃなかった?

 ――え、知り合いなの?

 ――昨日もなんか話してたよね。


 そんな声が本当に聞こえたわけではない。けれど、この学校の空気ならそれくらいの連想は一瞬で走りそうだと、もう分かってしまっている。


「おはよう、黒峰くん!」


 席に着く前に、夢咲ことねがぱっと顔を上げた。


「おはよう」


「なんか今日ちょっと遅くなかった?」


「普通くらいだろ」


「そう? 私より後だった気がしたから」


 ことねはそこまで言ってから、何かに気づいたみたいに「ん?」と首を傾げた。視線が恒一の肩越しへ流れる。そこには、ちょうど教室へ入ってきた朱莉がいた。


「あ」


 短い反応。


 ことねの目が、一瞬だけ忙しくなる。


 恒一はその変化に気づきつつも、とりあえず席に鞄を置いた。


「どうした」


「え、いや、別に」


「その顔で別にって言われてもな」


「だって……」


 ことねは声を落とす。


「火乃森さんと一緒だったんだなって、ちょっと思っただけ」


 その言い方に、妙な棘はなかった。むしろ純粋な確認に近い。だが、“ちょっと思っただけ”にしては気にしているのが顔に出ていた。


「駅前でたまたま会っただけだよ」


「ふーん……」


 納得しているのかしていないのか分からない返事。


 そのとき、朝霧凛が通路側からこちらを見て、ぼそっと言った。


「“たまたま”便利だね」


「お前まで何なんだよ」


「別に。観察結果を述べただけ」


 凛は頬杖をついたまま、少しだけ口元を上げた。からかっているのか、本気で分析しているのか分からない顔だ。


「昨日は夢咲さん、今日は火乃森さん。黒峰、共学化のサンプルとして優秀すぎない?」


「なんだその扱い」


「男子一名投入による学内反応の変化、って感じ」


「実験動物か俺は」


「そこまで言ってない」


「だいぶ言ってるだろ」


 凛の軽い刺し方に、ことねが「ちょっとそれは言いすぎじゃない?」とむっとし、朱莉は自分の席で何も言わないままこちらを見ている。相変わらず静かな空気なのに、静かだからこそ分かる緊張があった。


 そこへさらに、雪代しおんが教室へ入ってきた。


 今日も変わらず静かで、整っていて、余計な動きがない。なのに不思議と、その姿が入ってきた瞬間だけ空気の密度が変わる気がする。


 しおんは席へ向かう途中で恒一のほうを見た。


「おはよう、黒峰くん」


「おはよう」


「今日は朝から少し忙しかったね」


 さらりと言われて、恒一は一瞬だけ固まる。


「……また音か?」


「うん」


「何が分かったんだよ」


「いつもより会話が多かった」


 それだけ聞いて、ことねが「うわ」と小さく漏らした。凛は目を細める。朱莉は表情を変えない。


 恒一は頭を抱えたくなった。


 なんでこの学校のヒロインたちは、こんなふうにそれぞれ別方向で空気を動かしてくるんだ。


「雪代さん、それ本人の前で言うんだ……」


 ことねが半ば感心したように言うと、しおんは少しだけ首を傾げた。


「言ったら駄目だった?」


「いや、駄目ではないけど……なんか、すごいなって」


「そう?」


 しおんは本気で不思議そうだった。


 そこへ担任が入ってきて、朝のホームルームが始まる。ぎりぎりのところで空気は日常へ戻ったが、恒一の胸の中には、いくつもの視線と、それぞれの違う温度だけが残った。


     ◇


 その日の放課後。


 授業が終わるころには、恒一はもう朝の約束を思い出していた。


 火乃森朱莉と話す。

 少し時間を取ってほしい。

 今は駄目。放課後で。


 そこまで念を押された以上、無視するわけにはいかない。


 ことねが少し話したそうな顔をしていたが、恒一が「今日はちょっと先約がある」と言うと、彼女は一瞬だけ残念そうにしたあと、「そっか、じゃあまた今度」と引いてくれた。そういうところはちゃんと空気が読める。


 凛は何も言わなかったが、「へえ」とだけ短く反応した。しおんは静かなままノートを閉じていた。


 教室を出て、指定された校舎裏のベンチへ向かう。


 表通りから少し外れたその場所は、グラウンド脇の植え込みに半分隠れるようにして小さなベンチが置かれていた。目立たないが、完全に人が来ないわけでもない。昔からの生徒なら知っている、ちょうどいい半端さの場所なのだろう。


 朱莉はもうそこにいた。


 夕方の光の中、制服のスカートが風に少しだけ揺れている。ベンチの背に片手を添えた姿は、待っていたというより、最初からここが自分の場所だと分かっているような立ち方だった。


「来たんだ」


「来るって言っただろ」


「まあね」


 朱莉はそう言いながらも、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。本当に来るかどうか、半分は疑っていたのかもしれない。


「で、話って?」


 恒一がそう聞くと、朱莉は少しだけ目を伏せた。朝みたいな強い調子ではなく、今はどこか言葉を選んでいる。


「……あんた、変わってないなと思って」


「それが話?」


「半分は」


 朱莉はベンチに座り、自分の隣を軽く叩いた。座れ、ということらしい。恒一も少し迷ってから腰を下ろす。距離は近すぎず、遠すぎず。けれど、こうして並んで座るだけで妙に昔を思い出す。


 放課後の風は朝よりやわらかい。校庭のほうから運動部の声がかすかに届き、桜の花びらがベンチの足元へ一枚だけ落ちた。


「昔もそうだった」


 朱莉がぽつりと言う。


「誰かに話しかけられたら普通に返すし、楽しそうならそのまま付き合うし、変に壁作らないし」


「それ、普通じゃないのか?」


「普通の学校なら普通かもね。でもあんた、相手がどう受け取るかは考えない」


 またそこか、と恒一は苦笑した。


「そんなに危なっかしいか、俺」


「危なっかしい」


 即答だった。


「自覚ないまま人の懐入るから」


「言い方が刺々しいな」


「ほんとのことだし」


 朱莉はそこで一度、視線を校庭のほうへ逃がした。


「……昔の私は、それでかなり振り回された」


 恒一は思わず彼女を見た。


 夕方の光が横顔に落ちている。強そうに見える目元も、今だけは少しだけやわらかい。いや、やわらかいというより、昔の記憶に触れるときの無防備さが一瞬だけ滲んでいた。


「振り回した覚えないんだけど」


「あるわけないでしょ。あんたはそういうやつだし」


 朱莉は少しだけ笑った。だけどその笑みは、あまり明るくなかった。


「一緒にいるのが当たり前みたいな顔して、でも別の子とも普通に仲良くして、困ってる子いたらそっち行って、私が勝手に気にしてただけみたいになる」


 そこまで言ってから、朱莉は自分で気づいたみたいに口を閉じた。


 数秒、風の音だけが間に入る。


 恒一はすぐに返す言葉を見つけられなかった。


 小学生のころのことだ。正直、曖昧にしか覚えていない部分も多い。だが、朱莉の中ではその記憶がもっと鮮明な形で残っていたのかもしれない。放課後、誰と帰ったか。どこで誰に笑ったか。そういう小さな積み重ねが、子どものころの感情にはひどく大きいこともある。


「……ごめん」


 自然に口をついて出た言葉に、朱莉は少しだけ目を丸くした。


「なんで謝るの」


「いや、なんか……今の聞くと」


「別に、責めてるわけじゃない」


 朱莉は首を振った。


「ただ、再会して思ったの。ああ、やっぱり変わってないなって」


 それから彼女は、今度は恒一をまっすぐ見た。


「だから、気をつけて」


 朝と同じ言葉。

 けれど今度は意味が少し違って聞こえた。


「夢咲さんも、雪代さんも、たぶんあんたが思ってるよりちゃんとあんたを見てる」


「……」


「で、あんたはそういうの分かるの遅いから」


 その指摘は図星かもしれなかった。


 ことねの熱量が自分へ向いていること。しおんの静かな関心が少しずつ深まっていること。凛が見ているだけで終わらなさそうなこと。そういう気配は感じていても、どこまで本気で受け取るべきかはまだ分からない。


 朱莉はさらに続けた。


「私は、あんたを守りたいの」


 その言葉は、今度ははっきりしていた。


「変な噂とか、変な空気とか、そういうので消耗してほしくないし。女子ばっかの学校って、見えないとこで結構めんどくさいから」


「……それだけか?」


 聞いた瞬間、自分でも少し驚いた。


 だが朱莉は目を逸らさなかった。


「それ“だけ”じゃ足りない?」


「そういう意味じゃなくて」


「分かってる」


 彼女は小さく息を吐く。


「でも、今はそれでいい」


 夕方の空が少しずつ色を変えていく。校舎の窓が橙に光り、風が植え込みを揺らす。近くで誰かの笑い声がして、すぐに遠ざかっていった。


 朱莉はベンチの端を指で軽くなぞりながら、ぽつりと言う。


「私ね、再会したときちょっと嬉しかった」


「うん」


「でも同時に、むかついた」


「なんでだよ」


「あんたがあんまり普通にそこにいたから」


 意味が分からないようで、少し分かる言い方だった。


「私は、会えなかった時間のぶん、勝手にいろいろ考えてたのに。あんたは“久しぶりだな”って顔してて、それがなんか腹立った」


「それは……理不尽じゃないか?」


「理不尽だよ」


 朱莉はあっさり認めた。


「でも幼馴染って、そういうもんでしょ」


 そう言われると、否定しきれない。少なくとも彼女の中では、そういうものなのだ。


 恒一は少し考えてから言った。


「俺だって、嬉しかったよ」


 朱莉がこちらを向く。


「会えて」


 その一言で十分だと思った。うまく飾る気にもなれなかったし、飾ったところでたぶん彼女には見抜かれる。


 朱莉はしばらく黙っていたが、やがてほんの少しだけ笑った。


「……そういうとこ」


「ん?」


「やっぱりずるい」


 またそれだ。


 けれど今度は、少しだけ意味が分かった気がした。


 彼女がずっと抱えていた感情の重さに対して、自分はたぶんまだ圧倒的に無自覚なのだ。その無自覚さのまま、まっすぐなことだけは言えてしまう。それがきっと、彼女にとっては“ずるい”。


 風が吹く。

 桜の花びらが二人の間に一枚だけ落ちた。


「……帰るか」


 朱莉が先に立ち上がった。


「ああ」


 恒一も続いて立つ。


 校門へ向かう途中、二人はしばらく無言だった。けれど、その無言は朝みたいに張りつめてはいない。何かひとつ、大事なところだけは通じたあとの静けさだった。


 昇降口の近くで別れる直前、朱莉が足を止める。


「恒一」


「ん?」


「私、本気で言ってるから」


「何を」


「これからは、ちゃんと近くで見てるって」


 あの再会の日と同じ言葉。

 けれど今は、その意味が少しだけ具体的に分かる。


 守るつもりなのだ。

 そして同時に、手放すつもりもたぶんない。


「……分かった」


 恒一がそう答えると、朱莉は満足したように小さくうなずいた。


「ならいい」


 それだけ言って、彼女は先に歩き出す。


 その背中を見送りながら、恒一は胸の奥に妙な熱が残っているのを感じていた。


 幼馴染。

 再会。

 守るという言葉。

 過去から続いていたらしい感情。


 たったそれだけで片づけるには、今日の放課後は少し重かった。


 そしてたぶん、この重さはまだ始まりにすぎない。


 星ヶ峰の空は夕焼けへゆっくり傾いていた。

 普通の青春を望んでいたはずなのに、その“普通”の輪郭は、また少しだけ遠ざかっていく。


 火乃森朱莉は、ただ懐かしいだけの幼馴染では終わらない。


 そのことだけが、放課後の風の中ではっきりと分かった。



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