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第4話 静かな優等生は、音で人を覚えている

翌朝、黒峰恒一は駅のホームに立ちながら、昨夜より少しだけ重たい気分で電車を待っていた。


 理由ははっきりしている。


 疲れが抜けきっていない、というのもある。入学初日というのは思っている以上に神経を使うものだ。新しい教室、新しい顔ぶれ、新しい空気。そこに加えて星ヶ峰学園特有の「男子がいる」というだけで視線を集める環境が、想像以上にじわじわ効いていた。


 けれど、それだけではない。


 頭のどこかに、昨日の放課後のことが引っかかっている。


 夢咲ことねとの会話は、正直かなり楽しかった。好きな作品について、解釈の奥まで自然に話が通じる相手と出会えることなんて、そう多くない。高校生活が始まったばかりなのに、あんなふうに打ち解けられるとは思っていなかった。


 だが、その最後に待っていた雪代しおんの静かな姿が、妙に記憶に残っている。


「教室の音が変わったから分かった」


 そう言った彼女の声は穏やかだった。淡々としていて、特に責める色もなかった。なのに、どうしてあれほど耳に残るのだろう。


 ホームに滑り込んできた電車が金属音を響かせる。開いた扉から朝の空気が乱れ、制服姿の生徒や通勤客が流れ込んでいく。恒一もその流れに乗り、つり革のある位置まで移動した。


 窓の外に流れていく春の街並みは、まだどこか眠たげだった。コンビニの前でパンを咥えたまま自転車を押す学生、通学路の端で咲き始めた花壇のチューリップ、交差点で立ち止まるランドセル姿の列。そういうものをぼんやり見ながら、恒一は昨夜の自分を思い返す。


 風呂に入って、夕飯を食べて、ベッドに入ったあとも、なぜか脳が落ち着かなかった。


 ことねの「また話していい?」という嬉しそうな顔。

 朱莉の「これからはちゃんと近くで見てるから」という重い声。

 凛の「変な噂になる」という忠告。

 そして、しおんの静かな視線。


 まだたった三話目なのに、濃い。


 普通の高校生活がしたいだけなのに、出てくる女子の癖が強すぎる。


 そう頭の中でぼやいてみたところで、現実が変わるわけでもない。むしろ今日からが本格的な始まりなのだ。昨日は入学式と最初の顔合わせ。言ってしまえば前口上みたいなものだ。ここから少しずつ日常が動き始める。


 その「日常」の中に、どれだけ自分の居場所を作れるのか。


 電車が駅を滑り出す振動の中、恒一は小さく息を吐いた。


 気負いすぎるな。

 普通にしていればいい。

 普通に。


 そう思っていたのに、その「普通」がまたしてもあっさり崩れ始めたのは、校門をくぐってから十分もしないうちだった。


     ◇


 朝の星ヶ峰学園は、やはりどこかきらきらして見える。


 春の光が校舎の白い壁に反射し、長い窓列が青空を映している。手入れの行き届いた花壇には淡い色の花が揺れ、煉瓦風の小道には夜のうちに落ちた桜の花びらがまだ残っていた。遠くから見れば、品があって、静かで、やわらかな雰囲気の学園だ。


 だが実際にその中を歩くと、昨日と同じように視線がある。


 露骨すぎるほどではない。けれど、確かに「いる」と分かる。すれ違う女子たちの会話が一瞬だけ間延びしたり、階段を上がるとき前方の二人組がちらっと振り返ったり、廊下の先で話していた集団の視線がふっと集まったりする。


 男子が少ない。

 それだけで説明はつく。

 つくのだが、やっぱり落ち着かない。


 恒一は肩に掛けた鞄を少し持ち直しながら、昇降口へ向かった。上履きに履き替え、クラスのある二階へ向かう。廊下には朝のざわめきが流れていて、教室へ急ぐ足音、誰かを呼ぶ声、紙を落とす音、笑い声が重なっている。


 その中に、ふと、静かすぎる気配があった。


「おはよう、黒峰くん」


 立ち止まって振り向くと、雪代しおんがいた。


 廊下の窓際、朝の光を背にするような位置に立っている。長い黒髪は今日もきちんと整っていて、制服の着こなしに乱れはない。白い指先で教科書を抱える姿まで無駄がなく、昨日と同じくひどく静かな印象をまとっていた。


 周りはちゃんと騒がしいのに、その子の周囲だけ空気の粒が細かいように見える。


「……おはよう」


 恒一が返すと、しおんは少しだけ目を細めた。


「今日は昨日より少し軽いね」


「何が?」


「歩く音」


 やっぱりそれか。


 恒一は一瞬だけ額を押さえたくなった。


「また足音で分かったのか」


「うん」


 しおんはごく自然にうなずく。


「昨日より重くない。眠れてない感じも少ないし、急いでる音でもない」


「……そこまで分かるもんなのか」


「分かるよ」


 返ってきた言葉はあまりにも当たり前だった。


 その反応が、かえって不思議でならない。普通なら、いやそれはさすがに分からないでしょ、と自分でも笑い話にするところだろう。けれど雪代しおんは本気で、それを「見れば分かる」と同じくらい自然なこととして受け取っている。


「なんか、昨日からずっと思ってるけど」


 恒一は歩きながら言った。しおんも特に断りなく横に並ぶ。歩幅が驚くほど一定だ。


「雪代って、耳いいのか?」


「いいほうかも」


「かも、っていうレベルじゃないだろ」


「そうかな」


「そうだよ」


 恒一が半ば呆れ気味に言うと、しおんは少しだけ笑った。


 その笑みはやはり穏やかで、派手ではない。けれど昨日より少しだけ表情が見えた気がした。


「黒峰くん、面白いね」


「いや、それ俺の台詞だろ」


「そう?」


「足音で人を当てるやつのほうが面白いに決まってる」


 しおんはまた小さく笑う。声を立てるほどではない、空気を少しだけ緩める笑い方だった。


 そうやって話していると、最初に感じた気味の悪さが少しだけ薄れる。もちろん、変わっていることに違いはない。だが、彼女は変わっていることを武器にして人を困らせようとしているわけではなさそうだった。ただ本当に、分かってしまうだけなのだ。


 それがなおさら不思議なのだが。


 教室の近くまで来たところで、しおんがふと立ち止まった。


「黒峰くん」


「ん?」


「昨日、楽しかった?」


 唐突な質問だった。


「昨日?」


「放課後」


 言葉は短いのに、何を指しているのかはすぐ分かった。


 夢咲ことねと自習室で話していたことだ。


 恒一は一瞬だけ言葉を選ぶ。


「まあ……楽しかったけど」


「そっか」


 しおんはそれだけ言った。


 表情は変わらない。声色も静かなままだ。なのに、その一言には妙な余韻があった。肯定でも否定でもない。評価も感想もない。ただ、確認だけが行われたような感覚。


「なんでそんなこと聞くんだ?」


 自然にそう返すと、しおんはほんの少しだけ首を傾げた。


「昨日、帰るときの音が軽かったから」


 また音。


「放課後、教室に戻ってきたときも、朝と全然違った。だから、ああ、楽しかったんだろうなって」


 恒一は思わず黙り込んだ。


 そこまで分かるのか。


 しおんの言っていることが嘘ではないと、もうなんとなく分かってしまっているのが困る。昨日の彼女は教室の音だけで自分が戻ってこなかったことに気づいた。そして今日は歩き方だけで眠れていたかどうかを見抜いている。


 人を見る、というより、人の状態を聴いている。


 そんな表現がしっくりくる気がした。


「……雪代ってさ」


「うん」


「誰にでもそうなのか?」


 問うと、しおんは少し考えるように目を伏せた。


「誰にでも、ではないかも」


「じゃあどういう基準なんだよ」


「覚えた音は分かる」


「覚えた音」


「歩き方とか、椅子の引き方とか、ノートを置く音とか。何回か聞くと覚える」


 そこでしおんは一度だけ恒一の目を見た。


「黒峰くんの音は、覚えやすい」


 ぞく、とした。


 理由のない寒気ではない。怖いだけでもない。妙に落ち着かない、けれど完全には嫌とは言い切れない、そんな感覚だ。


「……それ、褒められてるのか?」


「私は好き」


「好きって」


 反射的に聞き返してから、恒一は自分で少し慌てた。言葉尻だけ取れば、かなり際どい。だが、しおんは特に意識した様子もなく言い直す。


「音が」


「そこ補足するなら最初からちゃんと言えよ」


「必要ある?」


「ある」


 やり取りの内容だけ見れば、少し変な会話だ。けれど不思議と、しおんの口から出ると冗談でもからかいでもなく聞こえてしまう。それがまた調子を狂わせる。


 二人で教室に入ると、すでに何人かの生徒が来ていた。朝の教室特有の、まだ完全に声が温まっていないような会話が散っている。窓際では日差しが机の端を照らし、黒板には今日の予定が白いチョークで簡潔に書かれていた。


 その空気の中に入った瞬間、いくつかの視線が動いたのが分かった。


 そりゃそうだろう。

 昨日のうちに多少なりとも注目されていた男子が、今日は静かな優等生と並んで入ってきたのだ。


 恒一は内心でまた頭を抱えたくなった。


 やめてくれ。

 何も始まってない。

 ていうか始める気もない。

 俺は普通の高校生活がしたいだけなんだ。


 だがその願いは、教室の空気には届かないらしい。


 夢咲ことねが自分の席からこちらを見て、あからさまに目を丸くしていた。

 朝霧凛は頬杖をついたまま、ほんの少しだけ眉を動かした。

 火乃森朱莉は窓際で鞄を机に置く手を止め、無言でその様子を見ている。


 しおんはまるで何も感じていないみたいに自分の席へ向かう。その自然さが逆に強い。


 恒一も席につき、鞄を机の横にかけた。心なしか、いつもより椅子を引く音まで意識してしまう。いや、意識したところでどうにもならないのだが。


 しばらくすると、夢咲ことねが耐えきれなくなったようにやってきた。


「お、おはよう……!」


「おはよう」


「……」


「……なんだよ」


「いや、別に……!」


 ことねは明らかに「別に」ではない顔をしていた。目が忙しい。恒一としおんのほうを見て、また恒一に戻して、言いたいことを飲み込んでいるのが丸分かりだ。


「その、朝から一緒だったんだ?」


 結局、我慢できなかったらしい。


「たまたま廊下で会っただけだよ」


「へ、へえー。そうなんだー」


 まったく納得していない相槌だった。


 ことねはちらっとしおんのほうを見る。しおんは前の席で教科書を取り出しているだけで、こちらには反応しない。その無反応がかえって壁みたいに感じるのか、ことねは少し落ち着かなそうに指先をいじった。


「昨日の話、ちょっとだけ続き気になってたんだけど」


「エテブレの?」


「うん。あのあと一人で考えてたら、やっぱり三期七話のあとの八話ってフィオナの見え方変わるなって思って」


「それは分かる」


 答えた瞬間、ことねの顔がぱっと明るくなった。


 そういうところが分かりやすい。

 そして、そういうところがたぶん可愛いのだろう。


「だよね! やっぱりそう思う!?」


「ただ、あれって八話だけじゃなくて、その前の六話の構図があるから効いてるんだと思う」


「うわ、そこで六話に戻るの正解すぎる……!」


 ことねは昨日と同じく勢いづく。だが今日は教室だ。さすがに昨日みたいに完全に二人だけの空間ではないので、どこかブレーキをかけながら話しているのが分かる。


 そのときだった。


「夢咲さん」


 静かな声が、少し前から落ちてきた。


 ことねがぴたりと止まる。恒一も顔を上げる。


 しおんがこちらを振り返っていた。表情は穏やかだ。怒っているわけでもないし、冷たく突き放しているわけでもない。ただ静かに言葉を差し出しているだけなのに、なぜか教室の空気が少し締まる。


「先生、来るよ」


「あ、えっ、ほんと!?」


 ことねが慌てて前を向く。確かに廊下から足音が近づいてきていた。次の瞬間、担任が教室へ入ってきて、朝のホームルームが始まる。


 席へ戻りながら、ことねは小さく「ありがとう……?」と曖昧な声で言った。しおんはそれにうなずいただけだった。


 教師の話が始まる。提出物の追加確認、今日の時間割、校内設備の利用方法。ごく普通の、平穏な朝の風景だ。


 けれど恒一の頭の片隅では、さっきの短いやり取りが引っかかっていた。


 雪代しおんは、ことねを助けたのか。

 それとも会話を切ったのか。


 どちらとも取れる。

 そして、そのどちらなのか分からないところが、やっぱり少し怖い。


     ◇


 午前の授業が終わり、昼休みを挟み、午後の授業もいくつか進んだ。


 星ヶ峰での一日はまだ手探りの連続だったが、それでも授業そのものは普通だった。教師がいて、黒板があり、ノートを取り、隣の席から消しゴムが転がってくる。そういう「どこの学校でも同じ」部分があるだけで、少しだけ気持ちが落ち着く。


 だが、人間関係のほうはそう簡単ではない。


 朝の件以降、ことねは前よりも露骨に話しかけてくるようになった気がするし、凛はそんな様子を見ているくせに自分からは関わってこない。朱莉は必要以上に近づいてはこないが、何かあるたびにこっちを見ている気配がある。しおんは相変わらず静かだが、静かなまま要所要所でこちらのことを知りすぎている。


 普通の教室のはずなのに、妙に情報量が多い。


 そして放課後。


 掃除当番の説明やいくつかの連絡が終わり、教室の空気がまた少し緩み始めたころ、恒一は机の中のプリントを整理していた。


 今日は昨日みたいに放課後の約束はない。たぶんそのまま帰るだけになるだろう。そう思っていたときだった。


「黒峰くん」


 声の主は、また雪代しおんだった。


「ん?」


「今日、疲れてるね」


「……また音か?」


「少しだけ」


 しおんは立ったまま言う。


「朝より椅子を引く音が重いし、ノートを閉じる手も遅い」


「そこまで観察されると、もう怖いんだけど」


「怖い?」


「いや、まあ……普通はそこまで分からないだろ」


 言うと、しおんは少しだけ目を伏せた。困ったようにも見えるし、考え込んでいるようにも見える。


「分からないのが普通なのかもね」


「雪代は普通じゃない自覚ないのか」


「少しはあるよ」


 それは意外だった。


「あるんだ」


「黒峰くん、失礼」


「いや、だって全然そういう顔しないから」


「でも、昔からたまに言われる。気づきすぎるって」


 しおんの声は相変わらず静かだった。けれどその一言だけ、少しだけ柔らかい影があった。


「……別に、悪い意味で言ったわけじゃない」


 恒一がそう返すと、しおんは顔を上げた。


「うん。分かってる」


 そのとき、廊下から誰かが走ってくる足音がした。軽くて速くて、でも途中で少し迷うような音。


 しおんが先にそちらへ目を向ける。


 次の瞬間、教室の後ろの扉が勢いよく開いた。


「黒峰くん、まだいる!?」


 夢咲ことねだった。


 少し息を切らしている。どうやら一度どこかへ出たあと、戻ってきたらしい。肩に掛けたバッグがずれていて、いつも以上に慌ただしい。


「いるけど」


「よかったぁ……!」


 ことねはそこでようやくしおんの存在に気づき、ぴたりと止まった。


「あ」


「あ」


 短い沈黙。


 教室にまだ残っていた数人の生徒が、また何気ないふりをしながら耳をそばだてている気配がする。


 恒一は心の中で頭を抱えた。


 やめてくれ。

 もう少し段階を踏ませてくれ。

 なんで毎回、空気が変わるタイミングがこんなに分かりやすいんだ。


「……何か用か?」


 とりあえず恒一がそう聞くと、ことねははっとして話を戻した。


「えっと、そう! 図書室から借りた資料に、エテブレの原作初期設定載ってる雑誌特集があって!」


「はい?」


「いやほんと偶然見つけたんだけど、これ絶対黒峰くんも見たほうがいいやつ!」


 勢いがある。いつものことだが、こういうときのことねは空気より先に話題が出る。


 しおんは横で黙ってそのやり取りを見ていた。表情は変わらない。変わらないままなのに、その場の空気の輪郭が少しずつくっきりしていくような感じがする。


「今から図書室?」


 恒一が聞くと、ことねはうなずいた。


「閉まる前にちょっとだけ! たぶん十分くらいで見れる!」


 昨日の経験上、その「十分」はかなり怪しい。


 だが、それより先に恒一の口をついて出たのは別の言葉だった。


「雪代も行くか?」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 なんでそんなことを言ったのか。場の空気を中和したかったのかもしれない。二人きりになるとまた何か言われそうだという打算も、少しはあったのかもしれない。


 ことねも一瞬だけ目を丸くした。しおんはほんの少しだけまばたく。


「私も?」


「いや、別に嫌ならいいけど」


「……」


 しおんは少しだけ考えるように間を置いた。


「今日はいい」


「そっか」


「でも」


 彼女は恒一を見た。


「黒峰くん、図書室だと歩く音が変わるから、あとで分かると思う」


「だから何が分かるんだよ」


「楽しかったかどうか」


 静かなまま、しおんはそう言った。


 ことねが「え、なにそれ怖……いや、すご……?」みたいな複雑な顔になる。


 恒一はもうどう返せばいいのか分からず、半分笑うしかなかった。


「……分かったよ」


「うん」


 しおんはそれだけ言うと、自分の鞄を持ち上げた。長い髪が肩の上でさらりと揺れる。


「また明日、黒峰くん」


「また明日」


 しおんはことねにも軽く会釈し、そのまま教室を出ていく。歩く音はやはり静かで、ドアが閉まる気配まで妙に整っていた。


 残されたことねが、しばらく扉のほうを見たあと、小さく息を吐く。


「……雪代さんって、なんか独特すぎない?」


「それは俺も思う」


「だよね!?」


 ことねはようやく通常運転に戻ったように言った。


「いやでも、今の“あとで分かる”はかなり怖かったんだけど!」


「本人はたぶん怖がらせようとして言ってない」


「それが余計に怖いのでは……?」


 もっともな感想だった。


 恒一も否定できない。だが同時に、しおんのあの静かな言葉の裏に、単純な悪意がないことも分かっていた。だから余計に、対応に困るのだ。


「まあいいや、とにかく図書室!」


 ことねはすぐに切り替えた。切り替えが早い。


「今のうちに行かないと貸出終了になる!」


「分かったから引っ張るな」


 鞄を持って立ち上がった恒一の袖を、ことねが半歩だけ先導するみたいに引く。軽い力だ。けれどその動きは、昨日より少しだけ自然だった。


 教室を出る直前、恒一はなんとなく廊下の向こうを見た。


 もうしおんの姿はない。

 けれど、不思議とその気配だけがまだ残っているような気がした。


 図書室へ向かう足取りの中で、恒一は思う。


 雪代しおんは、静かで、綺麗で、変わっていて、少し怖い。

 けれどただ怖いだけではない。

 あの子はたぶん、普通に人と関わろうとしていて、その方法が少しずれているだけなのだ。


 そこまで考えてから、いや、それが一番厄介なんじゃないか、と自分で思い直す。


 ことねは隣で「初期設定のフィオナ、髪型少し違うんだよ!」ともう次の話題へ飛んでいる。


 夕方の廊下に二人の足音が重なる。

 その音を、どこかで誰かが覚えていくのかもしれない。


 そう思った瞬間、恒一はまた少しだけ落ち着かない気持ちになった。


 この学校では、たぶんまだ何も始まっていない。

 なのに、何かが少しずつ積み重なっていく音だけは、確かに聞こえ始めていた。

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