第30話 ツンデレは、噂より本人の態度で怒る
火乃森朱莉と別れたあとの帰り道、黒峰恒一はひどく静かな気分になっていた。
春の夕方は、どうしてああいう話のあとに限ってやけにきれいなのだろう。住宅街の屋根は薄く橙を帯びていて、遠くの空は青と紫の境目みたいな色になっている。風は冷たすぎず、ぬるすぎず、制服の袖口を少しだけ揺らすくらいの強さだった。
景色は穏やかだ。
なのに、頭の中だけが全然穏やかじゃない。
ことねは図書室で、自分が最初にちゃんと話せた相手であることを忘れられたくないと言った。
朱莉は、昔から近くにいたのだから今さら譲るつもりはないと言った。
どちらも強かった。
強いけれど、乱暴ではない。
押しつけがましいわけでもない。
ただ、自分の位置をはっきり示してくる。
そして、その位置を自分はもう簡単には「そんなつもりじゃない」で片づけられないところまで来ている。
ため息をつきそうになって、やめる。
今日はもう十分疲れた。
これ以上、何かを考える余力はあまりない。
少なくとも、家に帰るまでは頭を空っぽにしていたかった。
ところが人生は、本当に間が悪い。
◇
翌日、三時間目は体育だった。
更衣を済ませて体育館へ向かう途中、恒一は昨日のことをできるだけ引きずらないようにしていた。だが、無理だった。人間関係の話をして、その翌日に何事もなかった顔をするのは思っていた以上に難しい。
体育館前の廊下は、体操服姿の生徒たちで少し騒がしい。きゅっと鳴る上履きの音、ボールが跳ねる音、誰かが笑う声。体育の前の空気はいつも少しだけ軽い。
四班の面子も、今日はそれぞれ別の位置に散っていた。
ことねは友達と「今日バレーかな」と話している。
しおんは静かに髪をまとめている。
朱莉は少し離れた場所でストレッチをしていた。
ましろは別クラスだからここにはいない。
いろはも体育ではほとんど前に出てこない。
ひよりはそもそも体育館の空気とは少し縁遠そうだ。
玲華はもちろんここにはいない。
そして、朝霧凛だけが、いつも通りの距離でいた。
通路側、少し前。
近いわけでも遠いわけでもない。
でも、こちらをちゃんと視界に入れている位置。
「黒峰」
名前を呼ばれて、恒一は顔を上げた。
凛がこちらを見ている。
相変わらず、綺麗なくせに言葉の入口だけは少し冷たい。
「なに」
「今日、変」
開口一番それだった。
「いきなりだな」
「だってそうだし」
凛は遠慮なく言う。
「昨日からちょっと変。ていうか、今朝も」
その言い方には、単なるからかいではない鋭さがあった。
しかも厄介なことに、図星でもある。
「別に普通だけど」
「そういう返しする時点で普通じゃない」
即答。
逃げ道がない。
体育館へ入る生徒の流れが少しだけ動く。だが凛は足を止めたまま、さらに続けた。
「噂のこと?」
「……まあ、それもある」
否定しきれない。
写真のこと、クラスの空気のこと、“誰と一番仲いいの?”と軽く聞かれること。そこへ昨日のことねと朱莉の会話まで積み重なって、さすがに頭が少し重い。
凛はそれを聞いて、小さく息を吐いた。
「やっぱり」
「やっぱりって」
「分かりやすいから」
それはもう散々言われてきた。
だが、凛に言われるとまた別の刺さり方をする。
「別に、気にするなっていうのは無理だけど」
凛はそこで、少しだけ声を落とした。
「誰にどう見られるかばっかり気にして、変に鈍くなるほうがダサい」
その言葉は、思っていたよりずっと強かった。
恒一は一瞬、返す言葉を失う。
「……鈍くなってるか?」
「なってる」
凛ははっきり言う。
「今の黒峰、ちょっと“何を言っても意味づけされるかも”って思いすぎ。だから反応が半拍遅い」
たしかに、そうかもしれない。
最近の自分は、誰かと話すたびに少しだけ考えてしまう。
これを言ったらどう見えるか。
ここで立ち止まったら、誰がどう受け取るか。
誰かに何か渡されたら、それを受け取る意味が増えるのではないか。
そういう一つ一つを意識し始めて、前より少しだけ身動きが鈍くなっていた。
「別に、全部無神経にしろって言ってるわけじゃない」
凛は視線を少し外した。
「でも、黒峰の良いとこって、そういうの考えすぎる前にちゃんと動くとこでしょ」
その一言が、やけに胸へ残る。
凛は、こういうときに不意に核心へ触れてくる。
しかも、たぶん本人はそこまで自覚していない。
「俺の良いとこ、って」
「あるじゃん」
凛は素っ気なく言った。
「誰かが困ってたら放っとけないし、ちゃんと頼まれたらやるし、嫌なことは嫌って顔に出るし」
「最後のやつ良いとこか?」
「分かりやすいからいい」
やっぱり、そこへ戻るのか。
だが凛はそこで終わらなかった。
「私は」
一拍。
「ちゃんとしてるお前のほうがいい」
ほんの少しだけ、言葉が重くなった。
周囲のざわめきは相変わらずある。
誰かがバスケットボールを落とす音がして、別の誰かが笑っている。
なのに、その一言だけが妙にはっきり聞こえた。
恒一はしばらく黙った。
凛も、言ったあとで少しだけ目を逸らす。
耳がほんの少しだけ赤い。
たぶん本人も、そこまで直球になるつもりはなかったのだろう。
「……それ、わりとすごいこと言ってないか」
やっと出てきた言葉がそれだった。
凛は顔をしかめる。
「そうやってすぐ変な意味に取らないで」
「いや、今の流れで変な意味になるだろ普通」
「ならない」
「なる」
「ならない」
「なるって」
反射的に言い返し合って、そのやり取りにほんの少しだけ、いつもの空気が戻る。
凛は小さく息をついてから言った。
「とにかく」
「うん」
「噂とか、写真とか、そういうので変に自分の動きまで崩すなって言ってるの」
それはたぶん、凛なりの言い方なのだろう。
“ちゃんとしてるお前が好きだから、変に崩れるな”
そこまでの直訳はさすがにしない。
でも、言いたいことの輪郭はもう十分見えてしまっていた。
「……分かったよ」
恒一がそう返すと、凛はわずかに眉を上げた。
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ、今日の体育、変に手抜かないで」
「そこに繋がるのかよ」
「繋がるでしょ」
凛はあっさり言う。
「黒峰、そういう日に限って中途半端に力抜きそうだから」
「人のことなんだと思ってるんだ」
「気にしすぎてダサくなる男子」
「ひどいな!?」
「でも間違ってない」
そこまで言って、凛はほんの少しだけ笑った。
小さくて、すぐ消える笑み。
でも、それが見えただけで空気が少し軽くなる。
体育館の入口から教師の声が飛んだ。
「整列早くー!」
凛はそちらへ顔を向けて、すぐに歩き出す。
しかし数歩進んだところで、少しだけ立ち止まり、振り返った。
「黒峰」
「ん?」
「私はちゃんと見てるから」
その言葉だけ残して、凛は体育館の中へ入っていった。
恒一はその場に一瞬だけ取り残される。
ちゃんと見てる。
それは、写真や噂の外側で、凛自身がこちらをどう見ているかという話なのだろう。
誰が何を言っても、誰がどんな写真を見ても、彼女は彼女なりの基準でこちらを見ている。
そして、その基準の中には“ちゃんとしていること”がかなり大きな位置を占めている。
「……ずるいな」
思わず小さく呟く。
ことねは話が通じることで刺さる。
朱莉は昔からの距離で押してくる。
凛は、こういうところで真ん中を抜いてくる。
体育館の中からまた教師の声がした。
「黒峰ー! 早く!」
「今行きます!」
慌てて足を踏み出す。
床のきゅっと鳴る音、ボールの跳ねる音、明るい天井の反響。その全部の中へ入っていきながら、恒一は少しだけ肩の力が抜けているのに気づいた。
噂は面倒だ。
写真も厄介だ。
誰にどう見られるかを完全に無視することなんて、たぶんできない。
でも、そればかり気にして変に鈍くなるのはダサい。
凛の言葉は、その点だけはひどく正しかった。
体育館の列へ並ぶと、凛はすでに前方で準備運動の体勢に入っていた。こちらを見はしない。けれど、さっきの言葉がまだちゃんと残っている。
私はちゃんと見てるから。
その一言だけで、今日一日の重さが少しだけ変わった気がした。
ツンデレは、噂より本人の態度で怒る。
そしてその怒り方は、思っていたよりずっとまっすぐで、思っていたよりずっと効くのだった。




