第2話 この学校、距離感の初期設定を間違えている
入学式と最初のホームルームが終わったころには、恒一はすでに一日ぶん疲れた気がしていた。
まだ昼にもなっていない。校内の案内も、教科書の確認も、提出物の説明も、やったことといえばせいぜい「新入生として必要なこと」の入り口だけだ。なのに肩は妙に重く、喉も少し乾いている。原因ははっきりしていた。
見られすぎたのだ。
教師が話している最中でさえ、視線は消えなかった。もちろん露骨に振り向いてくる生徒はいない。けれど、黒板へ向けられるふりをした横目、ノートに何かを書きつけながら意識だけこちらへ寄せてくる気配、席を立つとき一瞬だけ止まる会話。そういう小さなものが積み重なると、教室全体が薄い膜のように自分へ張りついている気がしてくる。
共学化したばかりの元女子高。男子生徒は希少。
頭では分かっていたつもりだったが、実際にその渦中へ放り込まれると想像以上だった。
「じゃあ、次は校内案内の前に十分休憩。席を立つのは構いませんが、あまり騒ぎすぎないように」
担任がそう言った瞬間、教室の空気がふっとほどけた。
椅子の軋む音。机が少しずれる音。堰を切ったように始まる会話。ひそやかだった声がようやく普通の明るさを取り戻す。だが、その解放感の波は、恒一にとって必ずしも安心にはつながらなかった。
むしろ今からが本番、という気配がある。
ホームルーム中は教師がいた。だからみんなある程度は抑えていたのだろう。けれど休み時間になれば話は別だ。興味を持たれているなら、話しかけられる可能性もある。
そして、たぶんその予感は当たる。
恒一は机の上に置いた配布プリントをなんとなく整えながら、気配だけで周囲の様子をうかがった。前の席の子たちが笑いながら振り返る。斜め後ろでは二人組が何か相談するように顔を寄せている。窓際の女子たちは、時々こちらを見ては何か囁き合っている。
普通にしていればいい。
自然にしていればいい。
そう思っていても、自然というものは意識した瞬間に消える。恒一はそれを中学の発表会や面接練習のたびに思い知ってきた。
どうしたものかと考えていると、前方からひょいと誰かが机の横へ現れた。
「黒峰くん」
声とともに覗き込んできたのは、夢咲ことねだった。
さっき教室に飛び込んできて「男子いる!」と大騒ぎした、あの賑やかな女子だ。近くで見ると、目がくりっとしていて表情がころころ変わる。話していなくても感情が顔に出やすいタイプらしい。肩口で跳ねる髪も、少し慌て者っぽい空気に妙に似合っていた。
「……どうも」
とりあえずそう返すと、ことねは両手を胸の前で合わせた。
「さっきは本当にごめん! いや私、マジで変な子だと思われたよね!?」
「思った」
「うわ即答!」
「でもまあ、悪い意味ではない」
そう言うと、ことねは数秒だけ固まってから、ぱっと顔を明るくした。
「ほんと? よかったぁ……! いやでもほんと、男子の実物が教室にいるの、まだ脳が追いついてなくて」
「その言い方だと俺がUMAみたいなんだけど」
「違う違う、そうじゃなくて! なんていうか、概念が急に物質化した感じ?」
「余計ひどくなってるだろ」
ことねは「あはは……」と誤魔化すように笑ったが、少しも悪意がないのが分かるから強くは言い返せない。むしろこうして真正面から来られるほうが、ひそひそ見られるよりずっと楽だった。
ことねは机の縁に手をつき、好奇心を隠さず身を乗り出してくる。
「ねえ、男子って中学のときどんな感じだった? やっぱり女子いないと教室もっと雑なの?」
「質問が雑だな」
「だって気になるし……!」
きらきらした目で見られて、恒一は少し言葉を選んだ。
「まあ、今よりは騒がしかったかもな。机の上とかもっと散らかるし、プリントも雑に配られるし、休み時間はサッカーの話とかゲームの話とかばっかりだったし」
「へええ……」
ことねは本気で感心したようにうなずいた。
「なんか文化人類学みたい」
「男子中学を部族みたいに言うなよ」
「でも未知の生態系じゃん?」
「いや、そんなに違わないと思うぞ」
言いながら、恒一は少し笑ってしまった。ことねの言葉はときどきおかしな方向へ飛ぶが、その勢いが妙に面白い。
するとそのとき、ことねの視線がふっと恒一の机の端に落ちた。
「あっ」
短い声。
その反応の鋭さに、恒一はつられて机の上を見る。そこには、さっきまで何気なく置いていた筆箱があった。黒地にシンプルなラインが入っただけの、一見すると地味なものだ。だが横の端に、小さなラバーキーホルダーが付いている。
アニメ『エーテル・ブレイヴ』のマスコットキャラ。
中学の友人に半ば勢いで勧められて見始めた作品だったが、気づけば世界観もキャラもかなり気に入っていた。キーホルダー自体はさりげないサイズだし、目立たないだろうと思って付けっぱなしにしていた。
ことねはそれを見たまま硬直した。
「え、ちょっと待って」
「ん?」
「それ……エテブレの、第三期限定グッズのやつじゃない?」
恒一は思わずまばたいた。
「分かるのか」
「分かるよ!? むしろなんで男子で持ってるの!?」
「男子で持ってたらおかしいのかよ」
「いやおかしくない、全然おかしくないんだけど、星ヶ峰でそれを自然に付けてる人がいるとは思わなくて!」
ことねはそこまで一気に言ってから、はっと口を押さえた。そして左右をきょろっと見回し、少し声を潜める。
「……黒峰くん、もしかして、そっち系いける人?」
「そっち系って言い方をやめろ」
「ごめん、でも察して」
恒一は少し迷ってから、小さく肩をすくめた。
「まあ、人並みには見る」
その瞬間、ことねの目の色が明らかに変わった。
さっきまでの「珍しい男子を見ている目」ではない。急に仲間を見つけたときの、あの独特な高揚が宿っている。身を乗り出す角度も、さっきまでとは比べものにならない。
「どこが好き!?」
「早い早い」
「どこから入った!? 誰推し!? ていうか三期限定グッズってことはかなりちゃんと通ってるよね!?」
「圧が強いな!」
ことねは完全にスイッチが入っていた。机に両手をついたまま、ぐいぐい距離を詰めてくる。近い。さっきまでの「男子だ!」という戸惑いはどこへやら、今はもうただの早口オタクである。
けれど不快ではなかった。むしろ少し笑えてくる。
「入りは友達に勧められて、だな。最初は二期の終盤だけ見せられたんだけど、話がよく分からなくて、そこから一気に見返した」
「うんうん、それで?」
「推しっていうか、作品全体で好きだけど……強いて言うなら俺はフィオナかな」
ことねの目がさらに見開かれた。
「フィオナ!?」
「そんな驚くか?」
「いやだって普通、初見だとレオかミカに行かない!? そこでフィオナ選ぶ!?」
「いいだろ別に」
「どうして!?」
教室のざわめきの中で、そこだけ急に熱量が上がった気がした。
恒一は少し頬をかきながら答える。
「どうしてって……あいつ、三期に入ってからずっと自分が後手に回ってるの分かってるのに、それでも役割から逃げないだろ。強いっていうより、あれは覚悟がある感じで好きなんだよ」
言葉にすると、自分でも少し熱が入ったのが分かった。
ことねはしばらく固まってから、両手で口元を覆った。
「……え」
「な、なんだよ」
「その解釈、めちゃくちゃ分かる……!」
食いつきが、また一段上がった。
「そうなの! フィオナって見た目だけだとクール系美人に見えるけど、本質そこじゃないんだよ! あの子、自分が報われないポジションでもちゃんと引き受けるところが刺さるの! しかも三期七話のあの台詞、あれって強がりじゃなくて――」
「自分で自分の役目を認めた瞬間、だろ?」
「そう、それ!!」
がたっと音がして、ことねが机に手をついたまま勢いよく前のめりになった。
「うわ、ちょっと待って黒峰くん、何その理解度。え、ほんとにちゃんと見てる人だ」
「ちゃんと見てなきゃそのグッズ持たないだろ」
「それもそうなんだけど! でもだいたいみんな見た目とか人気キャラの分かりやすいとこしか言わないんだよ! そこでその感想が出るの、かなり危ないよ!」
「危ないって褒めてるのか?」
「最上級に褒めてる!」
ことねは満面の笑みだった。さっきまでのドタバタも嘘みたいに、今は完全に話の合う相手を見つけた顔をしている。その変わり身の早さが面白くて、恒一もつられて笑ってしまった。
やっぱり趣味の話になると、距離は縮まりやすい。
中学でもそうだった。クラスの中心人物ではなくても、何か好きなものが一致すれば、そこから一気に話せるようになることは珍しくない。だから恒一にとって、この流れは少しだけ懐かしく、少しだけ安心できるものだった。
――ただし、それを周囲がどう見るかは別問題らしい。
「……ずいぶん楽しそうね」
不意に、冷えた声が横から落ちてきた。
恒一が顔を向けると、朝霧凛が通路側からこちらを見下ろしていた。腕を組み、眉をわずかに寄せている。その視線はことねに向いているようでいて、同時に恒一にも刺さっていた。
「え、なに凛ちゃん」
ことねが少しだけ身を引く。さっきまでの勢いは消えていないが、空気の変化は感じ取ったらしい。
「別に。休み時間始まってすぐ、知らない男子とそこまで距離詰められるんだなって思っただけ」
「いや、作品の話してただけだけど!?」
「見れば分かる」
凛の目は冷静だった。
「でも、さっきまで男子に慣れてないって騒いでた人の動きじゃないでしょ」
「それは……いや、うん、そこはそうなんだけど……!」
ことねがしどろもどろになる。確かに、十分前には「実物の男子!」と赤面していた人間が、今では机に手をついて前のめりに語っていたのだから、変化としてはかなり極端だった。
恒一が間に入ろうと口を開く前に、凛は視線をことねから彼へ移した。
「黒峰も」
「え、俺?」
「入学初日から馴染みすぎ。気をつけたほうがいいよ。この学校、ちょっとしたことで変な噂になるから」
言い方は相変わらず刺がある。けれど内容そのものは、忠告に近かった。
恒一は意外に思いながらも答えた。
「……忠告してくれてるのか?」
「勘違いしないで。巻き込まれると面倒そうだから言ってるだけ」
「そこまで言うならもう少し柔らかく言えないのか」
「無理」
即答。
ことねが不満そうに唇を尖らせた。
「でもただ話してただけじゃん。そんなことで噂になる?」
「なる」
凛はきっぱり言い切った。
「元女子高って、そういうとこあるから。距離の変化が目立つんだよ。新しいものが少ないぶん、余計に」
その一言だけは、どこか実感がこもっていた。
ことねもさすがに言い返しづらくなったのか、「う……」と小さくうなった。恒一も反論できなかった。実際、教室の空気を見れば分かる。さっきまでこちらを気にしていた視線のいくつかは、今もまだ残っている。
たった数分、趣味の話で盛り上がっただけ。
それなのに、すでに周囲からは「何か」が始まりかけているように見えるのだ。
なんだこの環境。
ラブコメ漫画の舞台か何かか。
そう心の中で突っ込みながらも、恒一はこの学校の空気の奇妙さを改めて感じていた。男子が少ないだけではない。人と人の距離の動き方そのものが、普通の共学と少し違う。誰が誰と話した、誰が誰を見た、それだけのことで微妙な揺れが起きる。
ことねはまだ少し不満そうだったが、やがて切り替えたように顔を上げた。
「じゃあ、変な噂にならないように、もっと普通に話せばいいってことだよね?」
「そういう問題か?」
「だってもう仲良くなりかけてるし」
「言い方」
ことねはにっと笑い、机の端に軽く指を置いた。
「黒峰くん、放課後ちょっと話さない?」
唐突だった。
「放課後?」
「うん。今ここだとさすがに落ち着いて語れないし」
「語る前提なんだな」
「当然でしょ。だってまだ全然足りない。フィオナの話も、三期の構成の話も、劇伴の使い方の話もしたいし」
そこまで言ってから、ことねは少しだけ声を落とす。
「それに……星ヶ峰でそういう話できる相手、あんまりいなかったから」
その言い方は、さっきまでより少しだけ静かだった。
恒一はそこで初めて、彼女の高いテンションの奥にあるものを少しだけ見た気がした。ことねは明るい。騒がしいし、勢いもある。けれど、そのぶん「好きなものを語れる相手がいない」という孤独を、ずっと一人でやり過ごしてきたのかもしれない。
女子高という環境では、オタク趣味そのものが浮くこともあるだろうし、仮に好きな子がいても解釈まで深く語り合えるとは限らない。そう考えると、今のこの食いつき方も少し分かる。
恒一は短く息をついてから答えた。
「……少しだけなら」
「ほんと!?」
「ただし“少しだけ”だからな。俺も初日だし、いろいろあるかもしれないし」
「十分十分! ありがとう!」
ことねはあからさまに嬉しそうだった。そこまで喜ばれると、こちらも悪い気はしない。
だが、そのやり取りを聞いていたらしい気配が、またどこかで動いた。
静かな、しかし妙に輪郭のある視線。
恒一が何気なく教室の前方を見ると、雪代しおんが自分の席で静かにこちらを見ていた。さっきのような微笑みはない。ただ凪いだ水面のような表情で、何かを聞き取るみたいに視線を向けている。
その目が一瞬だけ恒一と合った。
すると、しおんはごく小さく首を傾けた。まるで「そういう感じなんだ」とでも言いたげに。
ぞく、と背中のあたりが妙に落ち着かなくなる。
なんなんだ、本当に。
ことねと話していたのを見ていただけなのか。そう考えれば普通だ。普通、なのだが、しおんの場合はその「普通」にもう一枚何かが重なって見えてしまう。
そしてさらに、教室の反対側では、火乃森朱莉が窓際の席からこちらを見ていた。
彼女は露骨に睨んでいるわけではない。むしろ表情は静かなくらいだ。けれど、静かだからこそ分かる。面白く思っていない。少なくとも、さっき再会したばかりの幼馴染が、別の女子と楽しそうに話している光景を歓迎してはいない。
視線が多い。
本当に多い。
恒一は心の中で深々とため息をついた。
まだ午前中の最初の休み時間だぞ。
どうしてもうこんなに四方八方を気にしなければならないんだ。
「黒峰くん?」
ことねの声で我に返る。
「ん?」
「いや、なんか急に遠い目したから」
「ちょっと将来が不安になっただけ」
「なにそれ」
「こっちの話」
恒一がそう言うと、ことねは不思議そうにしながらも笑った。その笑い方はやっぱり明るくて、見ていると少し救われる。
けれど、その救いの代償が大きい気もする。
担任が再び前へ出てきて、「そろそろ移動準備を」と声をかける。休み時間は終わりらしい。ことねは名残惜しそうに「あー、もうちょっと話したかった」と呟きつつ、自分の席へ戻っていった。
凛もまた何か言いたげだったが、結局口にはせず、自分の机へ向かう。その背中はすっと伸びていて、いかにも気の強い体育会系という感じだ。なのにさっきの忠告だけは妙に具体的で、少し気にかかった。
しおんは何も言わない。言わないまま、静かに教科書を整えている。
朱莉も動かない。ただ一度だけ恒一と目が合うと、わずかに視線を細めた。
――放課後、ちょっと話さない?
たったそれだけの約束が、もうこんなに波を立てるのか。
恒一はプリントを鞄へしまいながら、じわじわと現実味を増していく予感を噛みしめた。
この学校はやっぱり、おかしい。
元女子高だから、という一言では片づけきれないくらい、人と人の距離の動き方が極端だ。近づくのも早い。注目されるのも早い。噂になりそうな気配が生まれるのも早い。
そしてその中心に、自分が立たされている。
窓の外では桜が揺れている。明るい春の日差しが教室に差し込んで、制服の肩や机の表面を柔らかく照らしていた。見た目だけなら、どこにでもある穏やかな新学期の風景だ。
けれど恒一の胸の内側では、まったく穏やかではないものが少しずつ広がっていた。
普通の青春がしたいだけなのに。
まだ二話目なのに、もうその土台が怪しい。
そんな予感を抱いたまま、恒一は立ち上がる。
放課後まで、まだずいぶん長い。
なのにその放課後が、もう少しだけ面倒で、少しだけ楽しみになっている自分がいることに気づいて、恒一は小さく眉を寄せた。
それ自体が、たぶんもう、この学校に呑まれ始めている証拠なのだろう。




