第28話 オタクヒロイン、平和的に牽制を始める
毒島ひよりから受け取った小さな紙袋が、机の横でやけに存在感を放っていた。
火曜日の放課後。
終礼が終わり、教室の中は帰り支度の音で満ちている。椅子が引かれ、鞄のファスナーが閉まり、部活へ向かう足音が廊下へ流れていく。窓の外では春の夕方がゆっくり傾き始め、校庭の端が淡い橙色を帯びていた。
そんな中で、恒一の机の横に提げられた小さな購買袋だけが、妙に“今日の象徴”みたいな顔をしている。
試作の謎肉スナック。
ひよりは「今日は持って帰るだけでもいいので」と言った。
たしかにそれは配慮だったのだろう。
でも、受け取るところを見られていたら意味はあまり変わらない。
ことねも、凛も、朱莉も、たぶん見ていた。
しおんも気づいていただろう。
つまり、もう“また新しい接点ができた”ことは共有されている。
面倒だ。
ものすごく面倒だ。
だが、その袋を捨てようとは思わない自分もいる。
「……はあ」
小さく息を吐いたところで、すぐ横から声がした。
「そのため息、今日三回目くらい?」
夢咲ことねだった。
見れば、彼女はもう帰る準備をほとんど終えていた。鞄を肩にかけ、でもまだ教室に残っている。顔はいつも通り明るい。だが、その明るさの奥に少しだけ意識的なものが混ざっているのを、今の恒一には感じ取れてしまう。
「数えてたのかよ」
「なんとなく」
ことねは机の端へ軽く腰を預けた。
「今日はわりと分かりやすく疲れてる」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「それ、たぶんいろんな人が半分ずつ悪い」
「否定できないのが嫌だな」
ことねは小さく笑った。
そしてその笑いのあと、ほんの一瞬だけ黙る。
その沈黙が少しだけ珍しかった。
ことねは基本、話しながら空気を作るタイプだ。黙るときは、何かを言う前だ。
「……黒峰くん」
「ん?」
「ちょっとだけ、図書室いい?」
唐突だった。
けれど、まったく予想外でもなかった。
ことねにとって図書室は、たぶん一番“自然に二人で話せる場所”なのだ。オタク趣味の延長で行けるし、放課後に寄っても不自然ではない。以前もそこで作品の話をした。だから今日ここで図書室が出てくるのは、彼女にしてはかなりまっとうな誘い方だった。
「今から?」
「うん。ちょっとだけ」
ことねはそう言ってから、すぐに続けた。
「別に重い話とかじゃないよ?」
「その前置き入る時点で少し重そうなんだけど」
「やめて、今から逃げないで」
その言い方が妙に必死で、恒一は結局うなずいてしまう。
「……少しだけな」
「うん」
ことねはほっとしたように息をついた。
その反応が、思ったより素直で、少しだけ胸に残る。
◇
放課後の図書室は静かだった。
窓から差し込む夕方の光が、書架の背表紙を斜めに照らしている。紙の匂いと、少し冷たい空気。遠くでページをめくる音がかすかに聞こえ、図書当番らしい生徒がカウンターで貸出処理をしていた。
人は少ない。
この静けさだけは、本当に救いだ。
ことねは奥のほうの閲覧席へ恒一を連れていった。窓際ではないが、外の光がちょうど届く落ち着いた一角だ。以前、作品の初期設定資料を一緒に見た場所にも近い。
「なんか久しぶりだね、ここ」
ことねが椅子を引きながら言う。
「そうだな」
「まだ一章も終わってないのに、なんかいろいろありすぎて、もっと前のことみたい」
「それは思う」
恒一も正直に答えた。
本当に、まだそんなに時間は経っていない。
なのに、オリエンテーション、写真、コンビニ、ひよりの変食ルート、玲華の観察。情報量だけならもう一学期分くらいある。
ことねは向かいではなく、少し斜めの席へ座った。真正面ではない。横すぎもしない。その微妙な位置が、今のことねらしかった。
「で」
恒一が先に言う。
「ちょっとだけ、何の話だよ」
「うん……」
ことねは指先で机を軽くなぞった。
「最近さ、増えたじゃん」
「何が」
「“黒峰くんと関わる女子”が」
直球だ。
だが、もはやそこを遠回しにする段階でもないのかもしれない。
「まあ……」
否定はできない。
「写真もそうだし、コンビニもそうだし、毒島さんの差し入れもそうだし」
ことねは一つ一つ数えるように言う。
「なんか、こう……気づいたら“誰がどこまで近いのか”みたいな空気になってきてるじゃん」
「なってるな」
「ね」
ことねはそこで少しだけ笑った。
でも、その笑いは明るいだけではない。
「私さ」
「うん」
「別に、今すぐどうこうしたいとかじゃないの」
声が少しだけ静かになった。
「黒峰くんに“誰が一番好き?”とか聞きたいわけでもないし、そういう答えを今ほしいわけでもない」
それは本音なのだろう。
少なくとも今のことねにとって、そこはまだ少し遠い。
「でも」
ことねは視線を上げた。
「やっぱり、最初にちゃんと話せたの私だし」
その一言には、わずかに熱があった。
「最初に、ただ男子ってだけじゃなくて、“話が通じる人だ”って思えたの、私だったから」
図書室の静けさの中で、その言葉はやけにはっきり聞こえた。
たしかにそうだ。
最初のころ、ことねはアニメやゲームの話題から一気に距離を詰めてきた。勢いはあったし、騒がしくもあった。だが、その勢いの根っこには“通じる相手を見つけたうれしさ”がちゃんとあった。
それは今も変わっていないのだろう。
「だから、なんていうか……」
ことねは少しだけ言いよどむ。
「最近、いろんな子が増えてきて、“あ、そっちからも刺さるんだ”ってなるたびに、ちょっとだけ落ち着かない」
そこまで言ってから、ことねは慌てたように笑った。
「ごめん、変なこと言ってるよね」
「いや」
恒一は首を振る。
「変ではないと思う」
ことねが少しだけ目を丸くした。
「ほんと?」
「だって、俺も最近、いろいろ増えすぎて落ち着いてないし」
「それは知ってる」
「知ってるのかよ」
「顔に出てるし」
ことねはくすっと笑う。
少しだけ、いつもの調子が戻る。
「でもね」
また、声が静かになる。
「私、別に誰かを押しのけたいとかじゃないの」
その言い方には嘘がなかった。
少なくとも今のことねは、露骨な勝ち負けをしたいわけではないのだろう。
「ただ、ちゃんと“私が最初にいた”ってことは、忘れられたくないなって思った」
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
最初にいた。
最初に話せた。
最初に“通じた”。
それは、派手な告白よりもことねらしい主張だった。
明るくて、柔らかくて、でも確かに手放したくないものがある。
「……ことねらしいな」
恒一がそう言うと、ことねは一瞬だけ止まった。
「何それ」
「いや、なんていうか」
うまく言葉にしづらい。
「いきなり“私だけ見て”って感じじゃなくて、でもちゃんと自分の位置はあるって言うの」
「……それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶん!?」
ことねは抗議するみたいに声を上げて、けれどすぐに笑った。
その笑い方は、さっきまでより少しだけ軽い。
「でも、よかった」
「何が」
「ちゃんと伝わったなら」
ことねは椅子の背にもたれ、天井を少し見た。
「最近、なんかさ、私の“明るい感じ”って、便利に見える時あるんだよね」
その言葉に、恒一は少しだけ考え込む。
「便利?」
「うん。夢咲ことねはいつも元気で、明るくて、オタク話してて、空気悪くならない子、みたいな」
たしかに、周囲から見ればそうなのかもしれない。ことねは場を軽くするし、話題を転がすのも上手い。オリエンテーションでも彼女の存在が空気をつないでいたのは事実だ。
でも、それだけではない。
「俺は、便利って感じでは見てないよ」
自然にそう言っていた。
ことねが顔を上げる。
「……ほんと?」
「うん」
「どう見えてるの?」
その問いは少しだけ危険だった。
だが、逃げるのも違う気がした。
「話してて楽しい相手」
まず、それは本音だ。
「あと、変に気を張らなくていい時が多い」
それも本音だった。ことねは感情が見えやすいし、嬉しい時も不安な時も分かりやすい。だから、玲華やしおんみたいな別種の緊張感がない。
「それに」
「それに?」
「お前、結構ちゃんと見てるだろ。明るいだけじゃなくて」
ことねは数秒、言葉を失ったみたいに黙った。
頬に少しだけ熱がのぼるのが分かる。
「……それ、今言う?」
「今じゃだめだったか?」
「だめじゃないけど!」
ことねは両手で顔を少し覆って、それから深く息を吐いた。
「もう、黒峰くんって、ほんとこういうとこなんだよなあ……」
「何だよ」
「変にまっすぐ返してくるとこ」
それは責めているようでいて、でもどこかうれしそうだった。
図書室の静かな空気が、少しだけやわらぐ。
ことねは指の隙間からこちらを見て、小さく笑った。
「……じゃあ、次はちゃんと二人で寄り道したいな」
その一言は、思っていたよりずっと真っ直ぐだった。
冗談めかした調子ではある。
でも、その奥にはちゃんとした願望がある。
誰にも邪魔されず、誰にも“意味”を足されず、少しだけ一緒に過ごしたい――そういう、ごく普通の希望。
なのに今の二人にとって、それが一番難しい。
「次は」
恒一は少しだけ苦笑して返す。
「もう少し平和だといいな」
「ほんとそれ!」
ことねがぱっと笑う。
「コンビニ一個であんなに増えない日がいい!」
「だな」
そのやり取りのあと、二人のあいだに少しだけ静かな時間が流れた。
気まずくはない。
むしろ、さっきより落ち着いている。
ことねが言いたかったことを言えて、恒一もそれを正面から受け取ったからだろう。
しばらくして、ことねが立ち上がる。
「よし」
「帰るか?」
「帰る前に一個だけ借りてく」
「何を」
ことねは書棚のほうへ向かいながら振り返った。
「アニメ誌のバックナンバー。次に話すネタ仕入れとく」
「ちゃっかりしてるな」
「だって、“最初に話が通じたの私”だし?」
その言い方が少しだけ得意げで、少しだけ可愛かった。
恒一はそんなことを思ってしまった自分に気づいて、内心で小さく息をつく。
普通の青春からはだいぶ離れている。
でも、こういう時間まで全部“面倒”で片づけてしまうには、もう少しだけ大事なものが混ざり始めていた。




