第26話 静かな子ほど、写真の中で嘘をつかない
月曜の昼休みが近づくころには、黒峰恒一の中で、掲示板の写真の残像が妙にしつこく残っていた。
オリエンテーション当日の記録写真。
一見すれば、ただの班行動の一場面。
けれど四班のそれは、見れば見るほど普通ではなかった。
夢咲ことねの距離感。
火乃森朱莉の当然みたいな立ち位置。
朝霧凛の資料越しの視線。
小鳥遊ましろの自然すぎる近さ。
鳴瀬いろはの少し外から眺めるような角度。
そして何より、雪代しおんだった。
しおんは普段、静かだ。
近くにいても、前へ出すぎない。
言葉も少なく、感情の揺れも見えにくい。
だからこそ、写真の中であれほどはっきり恒一を見ていたのが、どうにも引っかかる。
隠してるものも映る。
以前、しおん自身がそう言っていた。
もしそうなら、あの写真に写っていたものは何なのか。
授業中も、恒一は何度か無意識にしおんのほうを見てしまっていた。
しおんはいつも通りだった。ノートを取り、教師の話を聞き、必要があれば静かに返事をする。いつもと変わらない。変わらなさすぎて、逆に写真の中の“あの視線”だけが浮いて見える。
昼休みのチャイムが鳴る。
教室の空気が一気にほどけ、弁当箱の蓋を開ける音や、椅子を引く音、友達を呼ぶ声が重なり始めた。恒一も鞄から弁当を取り出す。すると間もなく、ことねがやってきた。
「ねえ」
声を潜めている。
だが、顔には完全に“この話をする気です”と書いてある。
「……何」
「やっぱり、気になる?」
ことねはわざと主語を省いた。
でも分かる。
分かるから困る。
「何が」
「雪代さんの写真」
やっぱりそれだ。
恒一が無言になると、ことねは少しだけ唇を尖らせた。
「いや、別に責めてるわけじゃなくてね? 私もあれはちょっと気になったから」
「……まあ」
否定はしきれない。
ことねは隣の机に腰を預けながら、少しだけ真面目な顔になった。
「だってさ、あれ、私たちの写真っていうより、雪代さんの視線の写真みたいだったもん」
その表現は、嫌になるほど的確だった。
たしかにそうなのだ。
他の全員も十分“距離感が見える”写真だった。
でも、しおんだけは少し質が違った。
距離ではなく、視線そのものが切り取られていた。
「ことね先輩」
静かな声がした。
びくっと肩が跳ねる。
ことねも露骨に固まった。
後ろに立っていたのは、しおんだった。
足音がしない。
いや、していたのだろうが、二人とも会話に気を取られすぎていたらしい。
それにしたって、近づかれたことに気づけないのはやっぱり少し怖い。
「え、あ、ゆ、雪代さん」
ことねがめちゃくちゃ分かりやすく動揺する。
「ごめん、聞いてた?」
「少し」
しおんは穏やかに答えた。
怒っているわけでもない。
むしろ、いつも通り静かだ。
「別に、悪く言われてる感じじゃなかったから」
「そ、そう! 悪くじゃないの! ただちょっと気になっただけで!」
「うん」
しおんは小さくうなずいた。
「私も気になったから」
その返答は予想外だった。
「……え?」
恒一が思わず声を出す。
しおんは自分の席の横へ立ったまま、少しだけ視線を落とした。
「写真、見た時。ああ、こう見えるんだって思った」
その言い方は、反省とも照れとも違う。
もっと単純に、“自分でも知らなかった自分の一部を見つけた”という響きがあった。
「私、自分では普通に見てるつもりだったから」
「いや、普通っていうには……」
ことねがそこまで言って、慌てて口をつぐむ。
しおんは責めるでもなく、ただ続きを待つ顔をしていた。
ことねは観念したみたいに言う。
「……結構、しっかり見てたよ」
「うん」
しおんはあっさり認めた。
「そうみたい」
そこで否定しないのか。
恒一は少しだけ目を見張った。
もっとこう、「たまたまそう見えただけ」とか、「気のせい」とか、そういう逃げ方をするのかと思っていた。
だがしおんは、思っていたよりずっとまっすぐだった。
「でも、たぶん無意識」
「無意識が一番強いんだよなあ……」
ことねが小さく呻く。
しおんはその言葉に、ほんの少しだけ首を傾げた。
「強い?」
「強いよ!」
ことねは本気で言う。
「だって、意識してやってるならまだ“見せ方”って感じするけど、無意識ってことはほんとにそうなんだってなるじゃん!」
たしかにその通りだ。
作られた距離感より、無意識に出る視線のほうが、ずっと誤魔化しが効かない。
「……黒峰くん」
しおんが静かに呼んだ。
「ん?」
「変だった?」
その問いは、あまりにも直接的だった。
教室のざわめきが一瞬だけ遠くなる。
昼休みの笑い声や弁当の音はそこらじゅうにあるはずなのに、今この机の周辺だけ、妙に静かだった。
変だったか。
その問いに、どう答えるべきなのか。
変、ではある。
少なくとも“普通のクラスメイトの視線”ではなかった。
けれど、それをそのまま言うのは少し違う気もする。
「……変っていうか」
恒一はゆっくり言葉を探した。
「思ってたより、はっきり見てるんだなって思った」
ことねがちらりとこちらを見る。
しおんは静かに、続きを待っている。
「雪代って、普段あんまりそういうの顔に出ないだろ」
「うん」
「だから、写真であそこまではっきり分かるの、ちょっと意外だった」
嘘ではない。
そして、できるだけ正直な答えでもあった。
しおんはその返答を聞いて、数秒だけ黙った。
それから、ほんの少しだけ目を細める。
「そっか」
たったそれだけ。
でも、その“そっか”の中には、少しだけ安心したようなものが混じっていた気がした。
ことねが空気をやわらげるみたいに言う。
「いや、でもほんと、雪代さんって普段静かだからさ。逆にあの写真だと目立っただけだと思うよ!」
「目立った」
「うん、なんていうか……静かな子ほど、写真の中で嘘つけないというか」
その表現は、たぶんことねの本音だった。
しおんは少しだけ考えて、それから小さくうなずいた。
「それはあるかも」
しおん自身が認めると、妙に説得力が出る。
「私、話してる時は音とか流れで見てること多いから」
「音とか流れって、相変わらず独特だね……」
ことねが半笑いで言う。
「でも、写真だと音ないから」
しおんは静かに続けた。
「視線だけ残る」
その一言で、恒一はまた少しだけ黙ってしまった。
写真には音がない。
だから、普段は他のものに紛れて見えにくい感情や視線だけが、やけにはっきり浮き上がる。
たしかにそうかもしれない。
しおんは普段、歩く音や椅子を引く音や、呼吸の変化みたいなものまで拾っている。だからこそ、自分の視線の置き場について、たぶんそこまで意識していないのだろう。
けれど写真は、その視線だけを切り取ってしまう。
「……やっぱり写真って苦手」
しおんがぽつりと呟いた。
その声はいつも通り穏やかだったが、今のは少しだけ“本音”に近かった。
「なんか、隠せないから」
ことねが目を丸くする。
「雪代さんでも隠してるつもりのものってあるんだ」
「あるよ」
しおんはあっさり答えた。
「たぶん、みんなあると思う」
そこでしおんは一瞬だけ、恒一を見る。
その視線は写真の中ほど露骨ではない。
いつもの静かな目だ。
けれど今のやり取りを挟んだあとだと、その静けさの意味まで考えてしまう。
「……そうかもな」
恒一がそう返すと、しおんは小さくうなずいた。
◇
その後、ことねが「なんか変に真面目な話になっちゃった」と言って弁当を持って自分の席へ戻り、しおんも静かに席へ着いた。
教室の空気は再び普通の昼休みへ溶けていく。
弁当の蓋を開ける音。
笑い声。
窓の外の部活の掛け声。
そのどれもが、さっきまでの会話を少しずつ日常の中へ押し戻していく。
けれど恒一の中では、しおんの言葉がまだ残っていた。
写真だと音ないから。視線だけ残る。
それはつまり、普段しおんがどれだけ“音”や“流れ”の中で人を見ているかということでもあり、同時に、写真の中に残ったあの視線が、かなり純度の高いものだということでもあった。
そんなことを考えていると、通路側から凛がぼそっと言った。
「雪代さん、やっぱりあの写真かなりやばいよね」
「朝霧さん、それ本人の近くで言う!?」
ことねが即座に反応する。
「聞こえるように言ったし」
凛は頬杖をついたまま、しおんのほうを見る。
「でも、あれで変に隠さないのは偉いと思う」
意外だった。
凛がそういう方向で言葉を置くのは、珍しい。
しおんも少しだけ目を上げる。
「隠しても写真変わらないし」
「まあ、そうだけど」
「でも、見た人の印象は変わる」
朱莉が静かに言った。
彼女も結局、この話から完全には離れられていないらしい。
「今朝から、何人かに聞かれたし」
「なんて?」
ことねが恐る恐る聞くと、朱莉は少しだけ眉をひそめた。
「“雪代さんってあんな感じなんだ”って」
しおんは小さく息を吐いた。
「やっぱりそうなんだ」
その反応は驚きより確認に近かった。
「……嫌?」
恒一がつい聞くと、しおんは少し考えた。
「嫌、ではないかも」
「そうなのか」
「でも、落ち着かない」
その言葉は正直で、そしてとても人間らしかった。
しおんは静かで、綺麗で、何を考えているか分かりづらい。
でも、だからといって何も感じていないわけじゃない。
今の“落ち着かない”は、その証拠みたいなものだった。
恒一はそれを聞いて、なぜか少しだけ安心した。
あの写真の中の視線だけが特別だったわけではない。
その視線の持ち主もまた、ちゃんと揺れているのだ。
◇
昼休みの終わりが近づくころ、ことねがぽつりと言った。
「でもさ」
「ん?」
「写真って怖いね」
「今さらだな」
「だって、普段“なんとなくそうかも”って思ってることが、一枚で確定しちゃう感じあるじゃん」
たしかにそうだった。
夢咲ことねは近い。
火乃森朱莉は当然みたいにそばにいる。
朝霧凛は見ている。
小鳥遊ましろは自然に入り込む。
鳴瀬いろはは外から全体を見る。
雪代しおんは、静かなままはっきり見ていた。
誰も口にしていないことが、写真の中には少しだけ出てしまう。
「……黒峰くんも、気にしてる?」
ことねが聞いてきた。
恒一は正直に答える。
「してる」
「だよね」
「でも、嫌っていうだけでもない」
自分で言っていて、少し驚いた。
ことねが目を細める。
「それ、ちょっと分かる」
しおんは何も言わなかった。
けれど、その沈黙が嫌なものではなかった。
静かな子ほど、写真の中で嘘をつかない。
そしてその嘘のなさは、見る側の心まで少しだけ揺らす。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る中で、黒峰恒一はようやくはっきり自覚し始めていた。
写真一枚でここまで気になる時点で、もう“何も始まっていない”とは言いづらいのかもしれない。
ただ、それをどう呼ぶのかは、まだ誰にも分からなかった。




