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第25話 たった一枚の写真が、平和を壊すには十分だった

 月曜の朝、黒峰恒一は教室へ入る前から、なんとなく妙なざわつきを感じていた。


 空気が少し軽い。

 いや、軽いというより、どこか浮いている。

 廊下を歩く女子たちの声がいつもより半歩だけ弾んでいて、視線の止まり方も少しだけ長い。何か共通の話題が先に走っていて、それを口にするタイミングを測っているような、そんな感じだった。


 嫌な予感しかしない。


 星ヶ峰学園に入ってから、この手の“空気の変化”にはわりと敏感になっていた。男子が少ない学校では、ちょっとしたことがすぐに話題になる。誰が誰と一緒にいた、どこで何をしていた、放課後どこへ向かった――そういうものが妙に意味を持つ。


 そして最近、その“妙に意味を持つもの”の中心へ自分が押し出されつつあることも、嫌というほど分かっていた。


 だからこそ、教室の扉を開けた瞬間に飛んできたことねの声で、恒一は心の中で静かに確信した。


「あっ、黒峰くん来た!」


 来た。

 これはろくでもないやつだ。


「おはよう」


 恒一が慎重に返すと、夢咲ことねは席から立ち上がりかける勢いで身を乗り出してきた。顔にはっきり書いてある。

 話したいことがあります。しかも急ぎです。


「おはようじゃないの!」


「いや朝だからおはようで合ってるだろ」


「そういうことじゃなくて!」


 ことねはそこで周囲を見た。見るまでもなく、周囲の何人かはすでにこちらを気にしている。通路側の席では凛が頬杖をついたままこちらを見ていて、窓際では朱莉が静かに様子をうかがっている。しおんはまだ何も言わない。けれど、明らかに状況は把握している顔だった。


「……何だよ」


 恒一が小さく聞くと、ことねはさらに声を落とした。


「写真」


「は?」


「この前のオリエンテーションの写真!」


 その一言で、脳のどこかが嫌な形で繋がる。


 たしかにあの日、広報用だとか記録用だとかで、何人かの教師や広報委員が班行動中に写真を撮っていた。特に気にも留めていなかったが、共学化記念の行事なら、掲示や校内報に使われてもおかしくない。


 まさか。


「……載ったのか?」


「載った」


 ことねが力強くうなずく。


 まるで自分が被害者第一号みたいな顔をしているが、たぶん実際そうなのだろう。


「しかも一枚じゃない」


「うわ……」


 心の底から出た。


 それは駄目なやつだ。

 班行動の写真ということは、四班の面子がまとまって映っている可能性が高い。そして、よりによって四班は、外から見れば“なんか雰囲気のある班”として成立してしまう組み合わせだ。


「どこに?」


「一階の掲示板と、校内の広報アカウント」


「広報アカウント!?」


「共学化記念の特設投稿みたいなやつ……」


 ことねは額を押さえた。


「なんでこの距離感で載せるかなあ……」


 その言い方に、恒一の胸の奥がじわっと嫌な熱を持つ。距離感。つまり、ただ映っているだけではないのだ。


「……見に行くしかないか」


 恒一がそう呟いた瞬間、通路側から凛が淡々と口を挟んだ。


「もう見た」


「早いな」


「朝来たら話題になってたから」


 そりゃそうだろう。


 凛は頬杖をついたまま、少しだけ視線を外した。


「かなり分かりやすいよ」


「何が」


「黒峰を中心にした距離感」


 言葉が重い。


 朱莉がそこで小さく息を吐いた。


「朝から面倒」


「見たのか?」


「見た」


 短い返事だったが、それだけで十分だった。


「……最悪だね」


 そう言った声は、ことねではなく朱莉のものだった。珍しい。彼女がこういう場で感情をそのまま口に出すのは、よほど面白くない時だけだ。


 しおんはようやく口を開いた。


「写真って、隠してるものも映るから」


 それは以前にも聞いた台詞だった。

 そして、今回ほど嫌な形で意味を持つ場面はない。


     ◇


 一時間目の前の短い休み時間、恒一は結局、ことねと一緒に一階の掲示板まで見に行くことになった。


 凛は「あとで見る」と言ったが、たぶんもう細部まで確認済みだろう。朱莉は教室に残った。しおんは静かに「私もあとで」とだけ言った。ましろといろははまだ姿が見えない。


 廊下を歩きながら、ことねはうんざりした顔で言う。


「私ね、ほんとに“みんなで楽しく回った記念写真”くらいのやつだと思ってたの」


「まあ普通はそうだろ」


「でも違うの!」


 ことねは足を止めかけるくらいの勢いで振り返る。


「いや、たしかに“みんなで回ってる”写真なんだけど、なんかもう、配置が……配置がさあ……!」


「配置」


「うん! なんであの瞬間切り取るの!? って感じの!」


 それ、かなり嫌なやつではないか。


 掲示板の前には、すでに何人かの女子がいた。

 みんな「たまたま見ています」みたいな顔をしているが、視線はどう見ても一点に集中している。恒一とことねが近づいたことで、その空気がさらに少しだけ揺れた。


 掲示板には、共学化記念オリエンテーションの写真が数枚並んでいた。


 班ごとの集合、旧校舎前での確認風景、学食前での試食コーナー、中庭のチェックポイント――どれも一見すれば穏やかで、ちゃんとした学校行事の記録だ。


 そして、その中央寄りに四班の写真があった。


 恒一は数秒、何も言えなかった。


 ……これは、たしかにまずい。


 写真そのものは問題ない。誰かが露骨にくっついているわけでもないし、変なポーズを取っているわけでもない。ただ、構図があまりにも“見えてしまう”のだ。


 旧校舎前の写真では、ことねが黒峰のすぐ右側で楽しそうに何か話している。身を乗り出す角度が近い。

 向かいには凛が資料を見せるみたいに立っていて、視線は資料ではなく半分こちらを見ている。

 朱莉は自然な顔で前方寄りの位置にいるのに、その立ち位置が絶妙に“まとめ役兼近い人”になっている。

 しおんは少し離れている。離れているのに、その視線だけがはっきり恒一へ向いていた。

 ましろは斜め後ろに小さく写っているのだが、驚くほど自然に近い。

 いろはは少し外側から全体を見ている。まるで構図そのものを見ているみたいな顔だった。


 そしてなにより、写真全体が“黒峰恒一を中心に空気がまとまっている”ように見える。


「……うわ」


 声に出た。


 ことねが横で頭を抱えた。


「でしょ!?」


「これは……」


 言葉が続かない。


 だめだ。

 これは見える。

 誰がどんなふうに近いか、全部はっきり見えるわけではない。でも“何かあるっぽい空気”だけは十分すぎるほど伝わる。


 しかも、こういうものは見る側が勝手に意味を足す。


 女子AとBが小声で何か話しているのが耳に入った。


「やっぱ四班すごくない?」

「ていうか黒峰くん、普通に囲まれてる感あるよね」


 ほらきた。


 ことねがその声を聞いて、顔を赤くしたまま小さく唸る。


「ほんとやだ……」


「何がそんなに嫌なんだよ」


「全部!」


 ことねが即答する。


「だってさ、これ見た人、絶対“なんかある”って思うじゃん!」


「……まあ」


「“まあ”じゃないの!」


 もっともだ。


 だが、否定しようにもできない。写真は嘘をついていない。ただ、その瞬間の距離感や視線の向きや立ち位置をそのまま切り取っているだけだ。だから余計に厄介なのだ。


「ことね先輩」


 不意に後ろから小さな声がした。


 振り返ると、ましろが立っていた。

 いつの間に来たんだ。

 この子はほんとに足音が軽い。


「ましろちゃん……見た?」


「はい」


 ましろは掲示板の写真へ目を向ける。


「かなり自然ですね」


「どこが!?」


 ことねが半分泣きそうな声を出す。


「いや、そこ“自然”って言うの!?」


「だって、無理して近づいてる感じではないので」


 その評価が、余計にまずい。


「だからこそ怖いんだよ……」


 恒一が思わず言うと、ましろは少しだけ考えるようにしてからうなずいた。


「たしかに。先輩中心にまとまって見えます」


「ストレートすぎる」


「事実なので」


 そこへさらに、別方向からしおんの声が落ちた。


「この写真、ことね先輩より私のほうが危ないかも」


 みんなが一斉にそちらを見る。


 しおんは相変わらず静かな顔で、掲示板の前に立っていた。長い黒髪が朝の光を少しだけ反射している。


「どれ」


 ことねが聞くと、しおんは旧校舎前ではなく、別の一枚を指した。


 中庭横のチェックポイントの写真。


 そこでは、みんなが一応資料や掲示物へ視線を向けている中、しおんだけが明確に恒一を見ていた。


 いや、見ていたというより、“見ていることを隠せていない”に近い。


 ことねが息をのむ。

 ましろも小さく瞬きを止めた。

 恒一はしばらく無言になった。


「……ほんとだ」


 ことねがぽつりと言う。


「雪代さん、めっちゃ見てる……」


 しおんはきょとんとした顔をした。


「そう?」


「そうだよ!」


 ことねがすぐさま返す。


「これ、かなりそうだよ!」


 しおんはもう一度写真を見て、それからほんの少しだけ首を傾けた。


「……自分では普通だと思ってた」


「それが一番怖いんだって」


 ことねが額を押さえる。


 恒一はその写真から目を離せなかった。


 しおんはいつも静かだ。

 静かで、感情も読みにくい。

 だからこそ、写真の中に写った“無防備な視線”は、妙に生々しかった。


 隠しているつもりのものも映る。

 以前、しおん自身が言っていた通りだ。


「……雪代」


 思わずそう呼ぶと、しおんは静かにこちらを見る。


「ん?」


「いや……」


 何と言えばいいのか分からない。


 じっと見ていたな、というのも違う気がする。

 でも、普通じゃないなとは思った。

 写真に切り取られたその一瞬が、あまりにも“普段のしおん”よりもはっきりしていたから。


 しおんはそんな恒一の言いよどみを見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「写真って、やっぱり嫌だね」


 その声は穏やかだった。

 けれど、そこに少しだけ照れのようなものが混じっている気がした。


     ◇


 教室へ戻るころには、四班の写真はもう軽い噂になっていた。


 あからさまに囃し立てるようなものではない。さすがに星ヶ峰の女子たちも、そこまで露骨ではない。けれど、何人かがちらりとこちらを見て、また誰かと話す。その流れだけで十分すぎる。


 教室へ入ると、凛が席からこちらを見た。


「見た?」


「見た」


「でしょ」


 たったそれだけの会話なのに、いろいろ詰まりすぎている。


「何が一番やばかった?」


 凛が聞く。


「……全部」


 恒一が答えると、凛は珍しく少しだけ口元を緩めた。


「正解」


 朱莉は窓際から言う。


「ことね先輩の距離もまあまあだったけど、しおん先輩の目、あれ結構すごいよね」


 しおんは自分の席でノートを出しながら、特に慌てることもなく言った。


「自覚なかった」


「それはそれで強いな……」


 ことねが自席に座りながら言う。


「でも、あれ見たら絶対誰かに何か言われるでしょ」


「もう言われてる」


 凛が平然と言う。


「さっき体育会系の子たちが“雪代さんあんな顔するんだ”って話してた」


 しおんがごくわずかに目を伏せた。

 ほんの少しだけ。

 だが、その反応はたしかにいつもと違った。


 恒一はなぜか、そこに少しだけ胸を引っかかれた気がした。


 しおんは静かだ。

 静かで、揺れが見えにくい。

 でも今の一瞬、ちゃんと“気にしている”感じが出ていた。


 その揺れが、妙に気になる。


「……まあ、写真なんて一瞬だし」


 ことねが自分に言い聞かせるみたいに言う。


「すぐ流れるよね?」


 その問いに、凛も朱莉もすぐには答えなかった。


 代わりに、しおんが静かに言う。


「流れないかも」


「なんで」


 ことねが聞き返すと、しおんは窓の外を見たまま答える。


「写真は、見た人の中に残るから」


 その言葉は、やけに本質的だった。


 たしかに掲示板の写真は、そのうち別の掲示へ差し替わるだろう。広報アカウントの投稿も、時間が経てば下へ流れる。

 でも一度見た印象は、そう簡単には消えない。


 夢咲ことねは黒峰の近くで楽しそうに笑っていた。

 朝霧凛は資料を見せながら、でも意識は向けていた。

 火乃森朱莉は当然みたいな顔で近い位置にいた。

 雪代しおんは、静かなのに、はっきりと見ていた。

 小鳥遊ましろは自然すぎる距離にいた。

 鳴瀬いろはは全体を見ていた。


 そして、その中心に黒峰恒一がいた。


 それがもう、見た人の中には残ってしまう。


     ◇


 昼休み前、机の上へ頬杖をつきながら、恒一はぼんやりと窓の外を見ていた。


 春の空は高く、白い雲がゆっくり流れている。グラウンドからは運動部の掛け声が小さく聞こえ、隣の教室では教師の声が反響していた。平和だ。景色だけなら、どうしようもなく平和だ。


 なのに頭の中には、あの写真の切り取られた瞬間が残っている。


 ことねの距離。

 しおんの視線。

 自分を中心にしてまとまって見える空気。


 そんなもの、別に望んでいたわけではない。

 普通に高校へ通って、普通に友達と話して、普通に部活や放課後や帰り道があればよかっただけだ。


 でも、その“普通”はたぶん、もう最初に思っていた形では手に入らない。


 誰かが笑えば意味が生まれる。

 誰かが近づけば噂になる。

 写真一枚でさえ、人間関係の空気を可視化してしまう。


 面倒だ。

 とても面倒だ。

 けれど、それでも教室の中で笑い合ったり、少しだけほっとしたりする瞬間があるのも本当だった。


 だから余計に、簡単ではない。


「先輩」


 小さな声がして、ましろがこちらを見ていた。


「ん?」


「今日、ちょっと甘いもの必要そうです」


「……またそれか」


「写真で疲れてる顔なので」


「顔、そんなに出てる?」


「少し」


 そのとき、ことねが半分笑いながら言った。


「黒峰くんさ、もう“普通の高校生”っていうより、“見られる側の高校生”になってるんだよね」


 その表現が妙にしっくりきてしまって、恒一はまたため息をついた。


 見られる。

 見られて、意味づけされて、噂にされて、それでも日常は続く。


 たった一枚の写真が、平和を壊すには十分だった。


 けれど、その壊れた平和の上で、それでもみんな今日も同じ教室にいて、同じ時間を過ごしている。


 それが救いなのか、次の火種なのかは、まだ分からなかった。

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