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第22話 甘いもの一つで、平和はだいたい壊れる

 コオロギパウダー入り試作せんべいという、どう考えても普通の高校生活には出てこない火種をなんとか飲み込み、黒峰恒一はようやく「今日はこれで帰れるかもしれない」という希望を持ちかけていた。


 教室の窓の外では、春の夕日がだいぶ低くなっている。校庭の端が橙に染まり、遠くからは部活の笛の音がかすかに聞こえてきた。教室の中も残っている生徒はだいぶ少なく、机の並びのあいだに夕方特有の静けさが落ち始めている。


 ここから先は、鞄を持って、昇降口へ向かって、誰にも捕まらずに帰る。


 それだけでいい。

 それだけのはずだった。


「……帰るか」


 小さくそう呟いて、恒一は椅子を引いた。


 その瞬間、ことねがぴくっと反応する。


「え、もう?」


「もう、だよ。今日は十分いろいろあっただろ」


「それはそうだけど……」


 ことねは机の端に指を置いたまま、どこか言いたそうな顔をする。

 凛は鞄を肩にかけながら「むしろ今帰らないとまた何か起きそう」と現実的なことを言った。

 朱莉は無言で立ち上がる。

 しおんは静かにノートをしまい、ましろは小さく「先輩、帰りに何か買いますか」と聞きそうな顔をしている。

 いろはは最後まで窓の外の光を見ていた。


 この感じだ。

 誰かが帰ろうとすると、その動きひとつで空気がまた変わる。

 だから普通の高校生活は難しいのだ。


「黒峰くん」


 ことねが少しだけ身を乗り出した。


「……なに」


「もし、もしだよ?」


「前置きが嫌な感じだな」


「帰りにコンビニとか寄らない?」


 ほら来た。


 恒一は一瞬だけ目を閉じた。


 ことねの誘い自体に悪気はない。むしろ、今日ここまでの流れなら自然な一言だ。放課後、友達と寄り道する。高校生としてはごく普通のイベントである。普通の学校なら、ここで何も問題は起きない。


 問題は、ここが星ヶ峰であり、今ここにいる面子が四班の主要人物であり、全員が微妙に“誰がどこまで近いか”を意識してしまっていることだった。


「……コンビニ」


 凛が、その単語を静かに繰り返した。


 朱莉が視線を上げる。

 しおんもこちらを見る。

 ましろは「寄り道」という概念を頭の中で先輩の生活動線に組み込み始めたような顔をしている。

 いろはだけが少し楽しそうだ。


「いや、別に大した意味じゃなくて!」


 ことねは空気の変化に気づいたらしく、慌てて両手を振った。


「今日ちょっと疲れたし、何か甘いの買って帰るのもありかなって思っただけで!」


「夢咲さん、それ、今言う?」


 凛の声は冷たすぎるほどではないが、完全に平常でもない。


「だ、だって本当にそうなんだもん!」


「そういう“本当にそうなんだもん”が誤解を生むって、そろそろ学習して」


「朝霧さん、最近ほんと容赦ないよね!?」


 ことねが泣きそうな顔になる。


 そのやり取りを見て、恒一は本気で頭を抱えたくなった。


 ただコンビニへ寄るだけだ。

 それなのに、もう空気が平和ではない。


「先輩、今日は甘いものの日です」


 ましろがそこで、真顔で言った。


「だから、寄る可能性は高いと思ってました」


「お前はなんでそこまで俺の糖分摂取タイミングを把握してるんだ」


「疲れてる時、先輩は分かりやすいので」


「それも何回も聞いたな……」


 ことねが「うわ、ましろちゃん、それ追撃になってる」と呟く。


 しおんが小さく言った。


「今日、黒峰くん、朝より気が抜けてるから」


「また音か?」


「うん」


「どこまで分かるんだよ」


「甘いのは欲しそう」


 もうここまで来ると、占いに近い。


 朱莉が静かに言う。


「甘いもの買うだけなら別にいいんじゃない」


 その一言に、ことねがぱっと顔を上げる。


「え、いいの?」


「“いいの?”って聞き方もどうかと思うけど」


 朱莉は淡々と続ける。


「ただ、誰と行くかで空気変わるのは事実でしょ」


 またしても核心だ。


「一人で行けばいいんじゃない」


 凛が言う。

 それが最も平和な答えだった。


 ことねは一瞬だけ詰まる。

 たしかに、その通りだ。

 だが、それで引き下がれない顔もしている。


「……でも、それはそれでちょっと寂しくない?」


 小さく漏れたその言葉は、ことねにしては少しだけ弱かった。


 恒一は思わずそちらを見る。


 ことねは明るい。勢いもある。何でも笑いに変えようとする。けれど、その明るさの下にある“もっと話したい”とか“少しでも一緒にいたい”みたいな感情が、最近はわりと見えやすくなっていた。


 それに気づいてしまうと、雑には扱えない。


「……ちょっとだけなら」


 恒一は、自分でも驚くほど自然にそう言っていた。


 教室の空気がまた、静かに止まる。


 ことねが目を見開く。

 凛の眉が動く。

 朱莉は表情を変えない。変えないが、それが逆に怖い。

 しおんは静かにこちらを見ている。

 ましろは何かを記録するような目で今の返答を覚えた顔をした。

 いろはは完全に面白がっている。


「ほんとに?」


 ことねの声は少しだけ明るくなった。


「コンビニ、ちょっとだけだぞ」


「うん!」


 その返事が、どうしようもなく嬉しそうだった。


 凛が小さく息を吐く。


「……ほらね」


「何が」


 ことねが振り向くと、凛は肩をすくめた。


「黒峰、そういうとこだよ」


 それは責めているようでいて、半分呆れで、半分はもう諦めに近い響きだった。


 朱莉はそれを聞いて、小さく視線を伏せたが、何も言わない。

 しおんはただ静かだ。

 ましろだけが小さく手を挙げた。


「先輩」


「ん?」


「コンビニ行くなら、糖分だけじゃなくて塩分も少し入れたほうが回復します」


「お前ほんと生活指導みたいになってきたな」


「実用的なので」


 いろはがぽつりと落とす。


「甘いもの選ぶときの顔も見たい」


「お前まで来ようとするな」


「行かないよ。今日は見送るだけ」


「その言い方も嫌だな……」


 そしてその場の空気を、結局一番うまく動かしたのはことねだった。


「じゃ、じゃあほんとにちょっとだけ! アイスか飲み物か、一個だけ!」


 そのはしゃぎすぎないように気をつけている感じが、逆に今の彼女の本気を伝えていた。


     ◇


 結局、教室を出たのは恒一とことねの二人だけだった。


 いや、正確には“二人で先に出た”という形だ。

 後ろに残った面々の空気がどうなっているのかは、考えないことにした。考えたところで平和にはならない。


 夕方の廊下を歩く。

 窓の外では、春の空が少しずつ青から橙へ変わっていく。

 部活へ向かう生徒たちの声が遠くにあって、目の前の廊下は少し静かだった。


 ことねは隣を歩いている。

 少しだけ近い。

 けれど、昼休みみたいにぐいぐい来る感じではない。むしろ気を遣っているのが分かる。


「……なんか、ごめん」


 突然、ことねが言った。


「何が」


「いや、さっきの空気」


 ことねは苦笑する。


「ただコンビニ寄ろうって言っただけなのに、あんな感じになるとは思わなくて」


「いや、俺も思った」


「だよね」


 少しだけ笑いがこぼれる。


 正直、こうして二人で歩いているだけなら気は楽だ。

 ことねは騒がしいが、分かりやすい。気まずい時は気まずそうにするし、嬉しい時は素直に顔へ出る。だからしおんや玲華みたいに“何を考えてるか分からない怖さ”はない。


「でも、ありがと」


 ことねが小さく言う。


「今日、ちょっとだけ一緒に帰りたかったから」


 その一言は妙にまっすぐで、恒一は一瞬だけ返す言葉に困った。


 ことねはすぐに誤魔化すように笑う。


「いや、変な意味じゃなくて! 今日いろいろあったし、ちょっと話したかっただけ!」


「その“変な意味じゃなくて”って補足、最近あんまり意味なくなってきてないか」


「うっ……」


 図星らしい。


 校門を出て、通学路の途中にあるコンビニへ向かう。

 春の夕方の空気は少しだけ冷えていて、昼間の熱をやわらげてくれる。街路樹の葉が風に揺れ、信号待ちの自転車が二台ほど並んでいた。


 コンビニの自動ドアが開くと、冷えた空気と、揚げ物の匂いと、商品棚の整った光景が一気に流れ込んでくる。


「うわ、なんか安心する」


 ことねが素直に言った。


「分かる。コンビニって、だいたい平和だもんな」


「ね」


 その“平和”という単語が、今の二人には妙に切実だった。


 ことねはアイスコーナーへ、恒一は飲み物棚へ向かう。

 その途中で、ふと後ろから声がした。


「やっぱり来てました」


 終わった。


 振り向く。


 そこに立っていたのは、小鳥遊ましろだった。


 なぜだ。

 どうしている。


 ことねの顔も固まる。

 ましろはいつものように小柄で可愛らしく、控えめな笑顔すら浮かべているのに、その存在の意味だけが全然控えめではなかった。


「……なんでいるの」


 ことねが思わず聞く。


 ましろは不思議そうに目を瞬いた。


「コンビニなので」


「いや、そういう意味じゃなくて!」


「先輩、今日は甘いものだと思ったので」


 やっぱりそこか。


「寄るならたぶんここかなと」


 当たり前みたいに言うな。


 ことねが半ば崩れ落ちそうな顔になる。


「ましろちゃん、ちょっと怖いよ!?」


「そうですか?」


「そうだよ!」


 恒一は額を押さえた。


 ただ甘いものを買いに来ただけだった。

 それなのに、結局こうなる。


 だが本当に終わりではなかった。


「……あ」


 ましろの視線が、入口の外へ向く。


 嫌な予感しかしない。


 次の瞬間、自動ドアの向こうに見慣れた影が見えた。


 火乃森朱莉。

 そして、その少し後ろに朝霧凛。


 なんでだよ。


 ことねが本気で頭を抱えた。


「どうして増えるの!?」


 凛は店に入ってくるなり、呆れたように言った。


「予想通りだったから」


「予想してたの!?」


「ある程度は」


 朱莉は無言で飲み物棚を一瞥し、それからことねと恒一を見た。

 その目は冷たすぎるわけではない。だが、完全に穏やかでもない。


「ほんとに来たんだ」


 その一言は小さかった。

 けれど、かなり効く。


「いや、ちょっとだけって話で……」


 恒一が弁解しかけると、凛が横から入る。


「別に来ること自体はいいんじゃない?」


 その言い方が妙に落ち着いていて、逆に怖い。


「ただ、やっぱり空気変わるよねってだけで」


 ことねが「朝霧さん、その言い方ずるい!」と訴える。


 だが、その通りでもあった。


 ただ甘いもの一つ買うだけ。

 そのはずなのに、こうしてメンバーが増えるだけで、もう“放課後のちょっとした寄り道”ではなくなっている。


「先輩、塩分も少し入れましょうか」


 ましろが真顔で言う。

 いらない情報の精度だけは高い。


「ことね先輩は甘いのだけで大丈夫そうですけど」


「なんで私の糖分バランスまで見えてるの!?」


「顔に出るので」


 凛が吹き出しかけて、それをこらえる。

 朱莉もほんの少しだけ視線を逸らした。たぶん笑いそうになったのだろう。


 その瞬間、恒一は思った。


 ああ、もう駄目だ。

 今日も平和は壊れた。


 だが完全な地獄かと言われると、それも違う。

 たしかに面倒だ。

 ものすごく面倒だ。

 でも、このどうしようもなく騒がしい感じの中で、自分が少しだけ笑ってしまっているのも事実だった。


 ことねがアイスの棚を見ながらむくれる。


「もうさ、これ“二人で寄り道”じゃなくなってるよね」


「最初からそうなる気してた」


 凛が淡々と言う。


「でも、全員来るとは思わなかった」


 恒一が本音を漏らすと、朱莉が小さく言った。


「私は思った」


「なんでだよ」


「そういう流れだったから」


 その一言があまりに“火乃森朱莉”で、恒一は苦笑するしかなかった。


 コンビニの蛍光灯の下、甘いもの一つで平和はだいたい壊れる。

 けれど、その壊れ方が少しずつ日常になっていくことこそが、今の星ヶ峰で一番恐ろしいことなのかもしれなかった。

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