第21話 コオロギせんべいは、修羅場の味がする
教室の後ろの扉が開いたまま、春の夕方の空気が細く流れ込んでいた。
差し込む西日が床に長い影を作り、窓際の机の角を橙に染めている。部活へ急ぐ足音は少しずつ遠のき、教室の中に残っているのは、四班の面々と、そして今しがた現れた毒島ひよりだけだった。
ひよりは小さな透明袋を胸の前で持ったまま、真剣な顔で立っている。
試作・コオロギパウダー入り薄焼きせんべい。
文字面だけでだいぶ強い。
しかも、それを差し出しているのが見た目だけなら控えめで可愛い女子なのだから、余計に脳が処理を拒む。
「これ、一緒にいけますか?」
その問いのあとの沈黙は、たぶん三秒もなかった。
だが黒峰恒一には、十秒以上に感じられた。
誰もすぐには口を開かない。
夢咲ことねは「また来た……!」という顔で固まり、朝霧凛は腕を組んだまま視線だけを鋭くしている。火乃森朱莉は完全に無言だったが、あの静けさはだいたい良くないときのやつだ。雪代しおんは静かに観察している。小鳥遊ましろはいつも通り小さく首を傾げ、鳴瀬いろはだけが心底面白そうにその場を眺めていた。
恒一はようやく口を開く。
「……“いけますか”って、食えるかどうかって意味か?」
「はい」
ひよりはすぐにうなずいた。
「味はかなり穏やかです。原型感はゼロですし、香ばしさ寄りなので、昆虫食の入口としては優秀なほうだと思います」
説明が的確すぎる。
しかも彼女の中では、これは明らかに“勧めるに値する食体験”なのだろう。おどおどもしていないし、無理強いの圧もない。ただ本当に、「これなら先輩いけるかもしれない」と思って持ってきている。
そこが一番厄介だった。
「……なんで俺なんだよ」
半分本音でそう聞くと、ひよりは少しだけまばたいた。
「偏見が少ないので」
やっぱりそこか。
「あと、一緒に変なもの食べてくれそうなので」
ことねが目を閉じて天を仰いだ。
「その言い方、ほんと強い……」
凛が低く言う。
「毒島さん、それ本人の前で普通に言うんだ」
「だめでしたか?」
ひよりは本気で不思議そうだった。
「だめではないけど、なんていうか……」
ことねが言葉を探す。その途中で、朱莉が静かに割り込んだ。
「だいぶ距離近いよね」
その一言で、空気がまた一段階締まる。
ひよりは朱莉へ目を向けた。怯まない。けれど挑発するわけでもない。ただ事実を確認するみたいに言う。
「そうですか?」
「そうだと思う」
朱莉の声は穏やかだった。穏やかだからこそ、余計に圧がある。
「会って間もない相手に、“一緒に変なもの食べてくれそう”って言えるのは、かなり」
もっともだ。
かなりどころではない。
普通の高校生活基準ならだいぶ危険域だ。
だが、ひよりは少しだけ考えて、それからこくりとうなずいた。
「たしかに、普通の基準だと近いかもしれません」
そこで認めるのか。
「でも、食べ物の相性って大事なので」
話がまたそっちへ戻る。
しかも筋が通っている。
否定しづらい方向に。
凛が小さく息を吐く。
「価値観がぶれないの、ある意味すごいね」
「褒めてますか?」
「半分だけ」
「朝霧さん、それ便利な返しですね」
ことねが小さく突っ込む。
そのやり取りにほんの少しだけ空気が緩んだが、中心の問題は何も片付いていない。
ひよりは再び恒一を見る。
「先輩、無理なら無理で大丈夫です」
その言い方は、意外なくらい柔らかかった。
「でも、もし一枚だけでもいけたら、たぶん次が広がります」
「次って何だよ……」
「未知の食べ物の幅です」
なんで高校生活の途中で食のフロンティアを広げなきゃいけないんだ。
恒一は小袋を見つめる。
薄焼きせんべい。見た目だけなら普通だ。たしかに普通の薄焼き煎餅と大差ない。色も少し濃いかな、程度で、虫らしいものは何も見えない。
問題は、それを取り巻く空気のほうだった。
ことねは気になる顔でこちらを見ている。
凛は止めるのか見守るのか微妙な顔だ。
朱莉は明らかに面白くなさそうだが、何も言わない。
しおんは静かに全体を拾っている。
ましろは「先輩、今日はしょっぱい方向ですね」とか今にも言いそう。
いろはは完全に“どんな顔をするか”を待っている。
地獄か。
「……一枚だけなら」
言ってしまったあと、自分でも少し驚いた。
ひよりの目が明るくなる。
「はい」
小袋を開け、中から薄いせんべいを一枚だけ取り出して差し出してくる。その手つきが妙に丁寧だ。お菓子を分ける仕草なのに、温度は完全にプレゼンに近い。
恒一は受け取る。
「先輩」
「ん?」
「最初の香り、先に見てください」
「食う前から要求が細かいな!」
「大事なので」
ひよりは真剣だった。
仕方なく鼻先へ近づける。
たしかに、香ばしい。せんべいの醤油っぽい匂いの奥に、少しだけナッツみたいな乾いた香りがある。違和感はあるが、不快ではない。
「……変ではない」
「はい」
ひよりがうれしそうにうなずく。
「では一口目」
「実況するな」
それでも食べるしかない。ここまで来て戻すわけにもいかない。恒一は覚悟を決めて、ぱり、と一口かじった。
音は普通の薄焼きせんべいに近い。
食感もそこまでおかしくない。
味は――少しだけ濃い目の醤油味の奥に、たしかに何か別の香ばしさがある。豆ともナッツとも違う、乾いたたんぱく質っぽい後味。けれど「無理」というほどではない。むしろ思ったよりずっと食べやすい。
「……あ」
思わず声が漏れた。
ひよりが一歩だけ身を乗り出す。
「どうですか」
「いや……」
恒一はせんべいを見た。
「普通にせんべいだな」
教室の空気が数秒止まり、それからいろはが吹き出した。
「普通にせんべい、だって」
ことねも遅れて肩を震わせる。
凛は呆れたように目を伏せるが、口元は少しだけ緩んでいた。
朱莉は無言のまま、しかしさっきよりはほんの少しだけ険しさが薄れている。
しおんは静かに「先入観、壊れたね」と言った。
ましろは小さくうなずく。
ひよりだけが、本当にうれしそうだった。
「そうなんです」
声のトーンがわずかに上がる。
「結局そこなんです。普通にせんべいなんです。でも、“コオロギ入り”って聞くと、そこで止まる人が多いので」
その感動の仕方が、なんというか、食の伝道師みたいだった。
「先輩、かなりいいです」
「また“かなり”か」
「はい。かなり」
ひよりは小袋を大事そうに持ち直した。
「“普通にせんべい”って感想、すごく重要なので」
「褒められてるのか?」
「最上級です」
この学校、本当に“最上級の褒め言葉”の使い方がおかしい。
ことねがそこで両手を上げた。
「待って待って。ちょっと私も混乱してる」
「何が」
恒一が聞くと、ことねは真顔で言う。
「今の一連、たぶん普通に見たら“放課後にお菓子分けてもらってるだけ”なんだけど、なんかすごい意味ありげに見えるの!」
「見えるね」
凛が冷静にうなずく。
「しかも毒島さん、本気だから余計に」
ひよりはその評価を聞いても、特に否定しなかった。
「本気です」
やっぱり言う。
「先輩なら、と思って持ってきたので」
朱莉の指先が、机の端でほんの少し止まる。
凛の目が細くなる。
ことねが「うわぁ……」と小さく呻く。
しおんは静かに全部拾っている。
恒一は思った。
コオロギせんべいより、今この空気のほうがよほど消化に悪い。
◇
「……で」
凛が腕を組んだまま言う。
「毒島さん、わざわざこれ持ってきたの?」
「はい」
「黒峰に?」
「はい」
「どうして」
「先輩、偏見少ないので」
ひよりの返しは一貫していた。
「あと、見た目で切らないので」
「それ、かなり強い評価なんだね」
ことねが半分感心したように言うと、ひよりは静かにうなずく。
「かなりです」
「“かなり”多いな……」
恒一がつぶやくと、ひよりは少しだけ首を傾げた。
「でも、本当にそう思ってるので」
その素直さが厄介なのだ。
朱莉がそこで一つ息を吐いた。
「黒峰」
「ん?」
「今後、購買前は少し警戒したほうがいいかもね」
「なんで俺に言うんだよ」
「だって、あんたが普通に反応しちゃうから」
刺さる。
ものすごく刺さる。
たしかに恒一は、ひよりの話に引きつつも、完全には拒絶しなかった。味見もしたし、感想も返した。それがひよりにとってどういう意味を持つかは、もうだいぶ分かってしまっている。
「先輩、警戒されるんですか?」
ひよりが小さく聞く。
「いや、そういう意味じゃ……」
言いよどんだ瞬間、ことねが机に手をついて身を乗り出した。
「違うの! 違うけど、毒島さんの距離感がちょっと強いの!」
「距離感」
「うん!」
ことねはうなずく。
「会ってそんなに経ってないのに、“先輩ならいけます”とか“また今度”とか、普通に言うでしょ?」
ひよりは少し考えた。
「でも、そう思ったので」
すごい。
ここまで筋が通っていると、もはや芸術である。
いろはが面白そうに言う。
「毒島さん、まっすぐだね」
「そうですか?」
「うん。だから強い」
ひよりは少しだけ目を伏せた。照れたのかどうかは分からないが、少なくともその言葉は悪くなかったらしい。
ましろが小さく口を開く。
「先輩、今日は帰りに甘いのじゃなくて、しょっぱいのいきそうです」
「お前、ほんとそこだけは一貫してるな」
「生活の流れ、大事なので」
ことねがとうとう笑い出した。
凛も呆れたように息をつく。
朱莉は小さく眉を寄せるが、その顔も少しだけ緩んでいる。
しおんだけが変わらず静かだ。
「黒峰くん」
そのしおんが言った。
「今、少しだけ気が抜けた」
「分かるのか」
「うん」
「なんで」
「音」
やっぱりそこか。
「さっきまで、もっと肩に力入ってた」
その言葉は穏やかだった。
穏やかで、妙に的確だった。
たしかにそうかもしれない。
ひよりの出現でまた場がざわついた。だが、コオロギせんべいを一口食べて「普通にせんべい」と言ってしまったあたりから、空気の種類が少し変わった。完全な牽制だけではなく、“なんなんだこの状況”という可笑しみが混じってきたのだ。
修羅場の味が、少しだけ笑いに変わったとも言える。
◇
ひよりは最後に小袋を閉じながら、恒一へ言った。
「先輩」
「ん?」
「今度、謎肉のほうもいけそうです」
「勝手に次のステップへ進めるな」
「でも可能性ありますよね」
「それを否定しきれない自分が嫌なんだよな……」
そう返すと、ひよりは少しだけうれしそうに笑った。
「やっぱり危ないです」
「褒め言葉なんだろ、それ」
「はい」
その“はい”があまりにも迷いなくて、恒一は本気で言い返す気を失くした。
ひよりはそのまま教室の後ろへ一歩引く。
「じゃあ今日は失礼します」
そこで一度立ち止まり、ことねたちへも小さく会釈した。
「みなさんも、お疲れさまでした」
そして、本当に自然な足取りで去っていく。
小柄な背中が扉の向こうへ消えたあと、教室には少しだけ妙な余韻が残った。
ことねがぽつりと言う。
「……なんかすごいね」
「何が」
恒一が聞くと、ことねは両手で頬を押さえた。
「昆虫食ってワードの破壊力が強すぎるのに、最終的に“普通にせんべい”へ着地したこと」
「それは俺も思ってる」
凛が淡々と続ける。
「しかも毒島さんの距離感も、だいぶすごかった」
「やっぱりそう思う?」
ことねが言う。
「思う。食べ物っていう、生活寄りのところで来るの強い」
朱莉も小さくうなずいた。
「たぶん、あの子にとっては相当大きいんだろうね。“一緒に食べられる相手”って」
しおんが静かに言う。
「だから、自然なんだと思う」
その一言で、なんとなく輪郭が見えた。
ひよりにとって、食べることはただの趣味ではない。
距離を測る基準であり、誰かと何かを共有するための入り口なのだ。
だからこそ、他人から見れば距離が近すぎることも、本人には自然に思える。
「……また面倒なの増えたな」
恒一が本音を漏らすと、ことねが横で笑った。
「でも、ちょっと面白かったでしょ?」
「否定しづらいのが悔しい」
「でしょ」
ことねはどこか楽しそうだった。
凛は呆れたように肩をすくめる。
朱莉は静かなまま、しかし完全に不機嫌ではない。
しおんは穏やかだ。
ましろは“次はしょっぱい系の日ですね”みたいな顔をしている。
いろはは最後まで、今回の一連を“綺麗な崩れ方”として見ていたらしかった。
夕方の光が少しずつ弱まり、教室の中へ長い影が伸びていく。
普通の青春を望んでいたはずなのに、今の自分の日常には、コオロギせんべい一枚で修羅場めいた空気が発生するヒロインたちがいる。
それはたぶん、だいぶおかしい。
けれど、そのおかしさを少しずつ受け入れ始めている自分もまた、すでに“普通”からは少し離れてしまっているのかもしれなかった。




