第19話 生徒会長、面白がって一枚噛む
共学化記念オリエンテーションが終わった翌週の月曜、黒峰恒一は朝から嫌な予感しかしなかった。
理由は単純だ。
今日、四班の振り返り用紙を提出することになっている。
そして、あの紙はただ担任へ出して終わり、という類のものではない。共学化一期生の反応を見るため、生徒会でも一部確認するらしい――そんな話を金曜の終礼で聞いた気がする。
その時点で、恒一の脳裏には一人の顔が浮かんでいた。
皇玲華。
星ヶ峰学園生徒会長。
完璧で、綺麗で、理性的で、そのくせ他人の“困った顔”を見ると目に見えて機嫌が良くなる人。
つまり、今の四班の状況を最も見せてはいけない相手である。
それなのに、こういう時に限って会うのだ。
もはや確信に近い。
春の朝の光が校舎の窓に反射して、廊下を明るく照らしている。いつものように女子の比率が高い教室、いつものように何本か飛んでくる視線、いつものように妙に濃いヒロインたちの気配。星ヶ峰での日常にはだいぶ慣れてきたつもりだったが、“慣れた”と“楽になった”は別だと、恒一はこの数週間で学んでいた。
教室へ入ると、ことねが真っ先に振り向いた。
「おはよー黒峰くん」
「おはよう」
「今日さ、振り返り用紙出す日だよね」
「朝一で嫌なこと思い出させるな」
「だって私も嫌なんだもん!」
ことねは机に突っ伏しかけながら言う。
「なんか、あの紙、書いてる内容自体は普通なのに、提出した瞬間だけ“私たちの班、ちょっとおかしかったです”って記録に残る感じあるじゃん」
「事実だからしょうがないでしょ」
通路側から凛が冷静に刺した。
「でも余計なことまで見られると面倒」
「朝霧さんも思ってるんだ」
「思うよ」
凛は即答だった。
「四班、外から見れば優秀だけど、近くで見るとちょっと変だし」
朱莉は窓際で資料の束を整えながら言う。
「“ちょっと”で済むかな」
「済まないかも」
ことねが真顔で返した。
しおんは静かにノートを閉じる。
ましろは「提出前に角そろえたほうがいいです」と、本当にどうでもよくないけど今じゃない方向の気遣いを見せる。
いろはだけが「紙って、その人たちの空気残るよね」と妙な感想を言っていた。
やっぱり、この班は今日も普通ではなかった。
◇
昼休み前、担任が振り返り用紙の提出について指示した。
「班の代表一名でいいです。黒峰、四班お願いできる?」
どうしてそこで自分なのか。
露骨にため息をつくわけにもいかず、恒一は短く頷く。
「……はい」
その瞬間、四班の空気が小さく動いた。
ことねが「あー……」という顔をし、凛は少しだけ目を細める。朱莉は口には出さないが、明らかに何か言いたそうだった。しおんは静かだ。ましろは「先輩が持つと折れませんし」と謎の信頼を寄せてくる。いろはは「困る顔しそう」と楽しげである。
嫌な予感しかしない。
そして、たぶんそれは当たる。
昼休み。
恒一は四班の振り返り用紙を手に、職員室脇の提出箱へ向かった。廊下は昼休み特有のざわめきに満ちていて、購買へ向かう生徒、弁当を持って移動する生徒、教師に用事のある生徒の足音が交差している。
提出箱は職員室前の小机に置かれていた。
その手前まで来た時点で、もう遅かった。
「黒峰くん」
低く、よく通る声。
恒一は心の中で天を仰いだ。
やっぱりいた。
職員室前の廊下、窓際に立っていたのは皇玲華だった。今日も生徒会長らしく隙のない制服姿で、長い黒髪をきちんとまとめ、背筋まで完璧に整っている。黙っているだけなら氷みたいに綺麗なのに、こちらへ向けられた目の奥には明らかに“面白いものを見つけた”色がある。
「……こんにちは」
恒一が慎重に言うと、玲華はゆっくり歩み寄ってきた。
「四班の提出?」
「そうです」
「やっぱり」
やっぱり、の意味が分からない。
分からないが、聞きたくもない。
玲華は恒一の持っている紙へ視線を落とした。
「少し見せてもらっていい?」
「え」
「生徒会でも確認するものだから」
筋は通っている。
通っているのだが、この人の場合、それだけで終わる気がまるでしない。
断れる空気でもない。恒一は紙を差し出した。玲華は受け取ると、長い指で用紙の端を整え、視線を滑らせる。読むのが速い。必要なところだけ一瞬で拾っていく感じだ。
「ふうん」
その一言だけで、もう嫌な汗が出る。
「何ですか、その“ふうん”」
「別に」
玲華はそう言いながら、口元だけ少し上げた。
「思っていたより、ちゃんと班してると思って」
「“思っていたより”が余計なんですよね」
「でも、改善点の欄が面白いわ」
やめてくれ。
改善点の欄には、結局かなりぼかした表現で書いた。
“座席や立ち位置によって会話の偏りが出やすかったため、役割分担と位置取りの工夫が必要”
という、限界まで丸めた文章だ。
だが、玲華のような人間には、その“丸め”が逆に見えやすいのだろう。
「立ち位置で会話の偏り、ね」
玲華がゆっくり繰り返す。
「誰がどこにいると、どう偏るのかしら」
「そこまで細かく書く必要はないと思ったので」
「賢明ね」
褒めているのか、遊ばれているのか分からない。
玲華は用紙を返しながら、ふと視線を上げた。
「四班、評判いいわよ」
「評判?」
「班として優秀。まとまりがある。仕事が速い。そういう意味で」
そこまでは予想通りだった。
だが玲華はそこで区切らず、続ける。
「ただし」
はい来た。
「黒峰くんを中心に空気が動いてるとも言われてる」
直球だった。
恒一は思わず無言になる。
「誰がそんな」
「見てれば分かることを、わざわざ誰か一人のせいにしなくてもいいでしょ」
玲華はあくまで穏やかな口調だ。
だが、その穏やかさが逃げ道をなくしていく。
「夢咲ことねさんは話しかけやすい位置を取る。火乃森朱莉さんは自然に仕切ることで近くにいる理由を作る。朝霧凛さんは指示と牽制を同時にやる。雪代しおんさんは静かなまま観察してる。小鳥遊ましろさんは生活導線から入り込む。鳴瀬いろはさんは反応を楽しむ。最近は毒島ひよりさんまで加わった」
そこまで一気に言われて、恒一は本気で引いた。
「……全部見えてるんですか」
「生徒会長だから」
玲華はさらっと答えた。
絶対それだけではない。
この人自身が、そういう“人間関係の動き”を見るのが好きなだけだ。
「それで」
玲華は少しだけ身を乗り出した。
「誰が一番厄介?」
「答えたくないんですけど」
「そういう顔、いいわね」
「もうそれ褒め言葉になってないですよね」
「なってるわよ。私の中では」
最悪だ。
玲華は本当に楽しそうだった。
嫌がらせをしているわけではない。
ただ純粋に、面白いものを見ている。
だからこそ質が悪い。
「別に、誰が一番とかないです」
恒一はどうにかそう返した。
「みんな、それぞれ別方向で面倒なんで」
「面倒」
玲華がゆっくり繰り返す。
「でも、嫌ではない?」
その問いは妙に静かだった。
ふざけているようでいて、意外と本質を突いてくる。恒一は一瞬だけ返答に詰まった。
嫌ではない。
それは事実だ。
ことねの明るさには何度も助けられている。
凛の冷静さがあったから班は回った。
朱莉の存在は腹立たしいくらい自然に近い。
しおんの静かな視線は怖いが、落ち着く時もある。
ましろの言うことはズレているのに、妙に正しいことも多い。
いろはの感性は厄介だが、見方によっては救いにもなる。
ひよりはもう、新しい扉をこじ開けかけている。
つまり、面倒だ。
だが、完全に嫌ならもっと簡単に距離を切れているはずだった。
「……嫌なら、もう少し避けてると思います」
結局、そう答えていた。
玲華はその返答を聞いて、目を細める。
「正直ね」
「皇先輩が聞くからです」
「聞きたくなるから」
やめてくれ、本当に。
玲華は廊下の向こうに目を向けた。何人かの一年生がこちらを気にしつつ通り過ぎていく。話題にされているのが自分だと分かると、地味に精神へくる。
「じゃあ、別の聞き方をしましょう」
玲華は再び恒一を見る。
「夢咲さんは、君にとってどういう相手?」
「なんで面接みたいに始めるんですか」
「気になるから」
「だからそれが困るんですよ……」
だが玲華は引かない。
引く気配がまるでない。
「話しやすい相手、です」
恒一はしぶしぶ答える。
「雪代さんは?」
「……静かだけど、よく見てる人」
「火乃森さん」
「昔から知ってる分、近い」
「朝霧さん」
「ちゃんとしてる」
「小鳥遊さん」
「自然に近いのが怖い」
「鳴瀬さん」
「感性が独特すぎる」
「毒島さん」
そこで、一拍だけ間が空いた。
「……変なものを食べる熱量がすごい」
玲華は口元を押さえて、肩を揺らした。
笑っている。
「何ですか」
「いえ、ちゃんと差別化されてるなと思って」
「比較対象みたいに言うのやめてください」
「でも、そう見えるのよ」
玲華は楽しげに言う。
「みんな同じように近づいてるわけじゃない。それぞれ違う方法で君を取ろうとしてる」
「“取ろうとしてる”って」
「違う?」
違わない、と言い切れないのが嫌だった。
玲華は少しだけ視線を和らげた。
「面白いわね」
「それしか言わないんですか、先輩」
「だって、久しぶりにちゃんと面白いものを見てるもの」
それはあまり生徒会長としてどうなのかと思うが、玲華がそこを気にするタイプではないのはもう分かっている。
「これ」
玲華は振り返り用紙を机の上の提出箱へ入れた。
「記録しておいたほうがいいかもしれないわね」
「何をですか」
「一期生男子を中心にした、元女子高における関係形成の変化」
「論文みたいにしないでくださいよ!」
思わず声が大きくなった。
玲華はくすくす笑う。
「そんなに嫌?」
「嫌に決まってるでしょう」
「でも、そういう反応するから面白いのよ」
「褒めてないですよね、それ」
「もちろん」
清々しいほど意地悪だった。
だが、その意地悪さの底に、本気でこちらを危険な目に遭わせようという感じはない。だからこそ、どう扱えばいいのか分からない。
そのときだった。
廊下の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「黒峰くーん!」
ことねだ。
しかも止まらない。
そのままこちらへ来る。
最悪のタイミングだ。
「……夢咲さん」
玲華が小さく呟く。
その声音が、面白いものをさらに見つけた時のそれだった。
ことねは近づいてくる途中で玲華に気づき、目を見開いた。
「うわ、生徒会長!?」
「こんにちは」
玲華は完璧な微笑みで応じる。
「何か用?」
「え、いや、その、黒峰くんまだかなって……」
ことねの言葉が途中で弱くなる。
玲華の前では勢いだけで押し切れないらしい。
だが、その“まだかなって”の一言だけで、十分に状況は伝わった。
玲華がわずかに目を細める。
「なるほど」
「な、何がですか」
「いえ、夢咲さんは分かりやすいと思って」
「それ、今言います!?」
ことねが顔を赤くする。
恒一はもう帰りたかった。
できることなら今すぐ消えたかった。
だが玲華は、さらに一枚噛みにきた。
「ちょうどいいわ。少しだけ聞かせて」
「は、はい?」
ことねが完全に流れへ飲まれている。
「四班、どうだった?」
その問いは軽い。
だが軽いからこそ、本音が出る。
ことねは迷ったあと、小さく言った。
「班としては……よかったです。ちゃんと回れたし、楽しかったし」
「でも?」
玲華が促す。
ことねは一瞬だけ恒一を見る。
それから、半分やけくそみたいに答えた。
「でも、黒峰くんの位置で空気変わるんです」
言った。
本人の前で、しかも玲華の前で。
玲華の笑みが深くなる。
「そう。やっぱり」
やっぱり、じゃない。
「記録案件ね」
「やめてください!」
恒一とことねの声が、珍しくぴたりと重なった。
その重なり方すら、玲華には面白かったらしい。彼女は本当に楽しそうに笑った。
「ふふ。安心して。さすがに公式文書にはしないわ」
「“さすがに”って付く時点で安心できないんですけど」
「そう?」
玲華は最後まで余裕を崩さない。
「でも、面白いものは面白いってだけ」
その言い方があまりにも玲華らしくて、恒一はとうとう力なく息を吐いた。
生徒会長が一枚噛むと、こうなる。
外から見ているだけならまだしも、わざわざ本人たちに質問を投げて、その空気ごと確かめにくる。
しかも悪意じゃなく、純粋な好奇心で。
最悪だ。
だが、この人にはたぶん、それが一番似合ってしまう。
◇
玲華が去ったあと、廊下には数秒ぶんの静寂が残った。
ことねが先に口を開く。
「……なんか、すっごい疲れた」
「俺もだよ」
「黒峰くん、いつもこんな感じであの人に弄ばれてるの?」
「弄ばれてるって言うな」
「でも否定できないでしょ」
できない。
しかもことねを巻き込んだことで、たぶんこれからさらに玲華の“観察欲”は高まるだろう。悪い予感しかしない。
ことねはまだ少し赤い顔のまま、ぽつりと言う。
「でも……」
「ん?」
「生徒会長、やっぱり分かってるんだね」
「何を」
「黒峰くん中心に、空気動いてること」
それは、もう否定しようがなかった。
見ている人には見えている。
班の中で、教室の中で、廊下の会話の中で。
誰がどこで黒峰恒一を見て、どう反応するのか。それが少しずつ形になっている。
そして今、それを一番楽しそうに把握しているのが、生徒会長・皇玲華なのだ。
「……記録される前に、なんとかしたい」
恒一が心底そう呟くと、ことねは少し笑った。
「もうちょっと遅いかもね」
その言い方は優しいのに、残酷だった。
たぶん、本当にもう遅い。
星ヶ峰の春は明るい。
明るいのに、その光の中で人間関係だけが妙に濃く、静かに絡まっていく。
生徒会長にまで“面白い”と思われてしまった時点で、黒峰恒一の普通の青春は、また一歩だけ遠ざかったのかもしれなかった。




