第18話 誰の隣にいるか、それだけで空気は変わる
毒島ひよりという新しい火種を購買前で拾ってしまった翌週、黒峰恒一は自分でも驚くほど「席順」というものに神経を使うようになっていた。
人は普通、そこまで席順を意識して生きていない。
教室のどこに座るか。
昼休みに誰の隣へ行くか。
移動教室でどの列に並ぶか。
学食でどこへ腰を下ろすか。
それらは本来、もっと気軽で、もっと無意識なもののはずだ。
だが星ヶ峰学園に入ってからというもの、その“何気ない位置取り”が、どうにも無視できない意味を帯び始めている。
夢咲ことねが隣へ来れば、話しやすい空気が生まれる。
雪代しおんが近くにいれば、静かなのに妙に意識される。
火乃森朱莉が当然みたいにそばに立つと、“昔からの距離”がそのまま見せつけられる。
朝霧凛が横から口を挟むと、牽制のようでいて、でもちゃんと見ている感じが出る。
小鳥遊ましろは自然すぎる近さで日常へ入ってくる。
鳴瀬いろはは少し離れた位置から“崩れ方”を眺める。
毒島ひよりは食べ物を介して静かに横へ並ぶ。
つまり、誰の隣にいるかで空気が変わる。
しかもそれを、本人より周囲のほうが先に気づいてしまっているから厄介なのだ。
月曜の放課後、恒一はそのことを改めて思い知っていた。
◇
教室の後ろ側、窓際寄りの一角。
終礼が終わったあと、クラスには帰る支度をする音と、部活へ向かう生徒の声と、まだ残って話し込む者たちのざわめきが混ざっていた。夕方の光は少しずつ柔らかく傾き、机の端や床の上へ長い影を落としている。
担任から、オリエンテーションの簡単な振り返り用紙が配られたのは、その終礼の最後だった。
「班ごとに軽く話し合って、今日中にまとめなくてもいいから。来週の月曜に提出ね」
そう言われて配られた紙は、A4一枚の簡素なものだった。
問いは三つ。
よかった点
改善したい点
今後の交流活動に活かせそうなこと
まっとうな設問だ。
まっとうすぎて嫌になる。
こういう紙は、普通の班なら「協力できた」「校内をよく知れた」「もう少し時間配分を工夫したい」あたりで済むのだろう。だが四班の場合、その“協力”の裏側にいちいち別の感情がちらつく。
そして今、その振り返りをやるために、またしても集まることになっていた。
「とりあえず、どこでやる?」
ことねが紙をひらひらさせながら言った。
明るく振る舞おうとしているのは分かる。だが、その明るさの中にほんの少しだけ緊張が混ざっているのも分かってしまう。
「教室でもいいけど、人多いよね」
「移動しなくていいなら、ここでいい」
凛は即答した。
相変わらず“余計な手間を増やさない”という一点ではぶれない。
朱莉は少しだけ教室内を見回したあと、淡々と言う。
「でも、机の配置だけは考えたほうがいい」
その一言で、空気がぴたりと止まった。
ことねが笑顔のまま固まり、凛が「ほら来た」とでも言いたげに眉を寄せる。しおんは静かだ。ましろはきょとんとしていて、いろはだけが面白そうに目を細めていた。
「……机の配置?」
恒一が聞き返すと、朱莉は当然みたいにうなずいた。
「適当に座ると、変な空気になるでしょ」
「そこ、そこまで前提になってる!?」
ことねが半ば悲鳴みたいに言う。
だが、否定できないのがつらい。
たしかに今の四班で何も考えずに円卓めいた配置を取れば、誰がどこに座るかだけで妙な意味が発生する可能性が高い。
その意味を、一番よく理解しているのが今ここにいる面子なのだから、さらに面倒だ。
「じゃあ、どうするの」
凛が腕を組んで聞く。
朱莉は少しだけ考えたあと、教室の一角を指した。
「窓際に机二つ寄せる。横並びじゃなくて、向かい合わせを二組。あと一つ端に足す」
「……その組み方、結局“誰がどこに座るか”問題を濃くしない?」
ことねが素直に言った。
「しないよりマシ」
「いやもう、かなりするでしょ!」
ことねのツッコミはもっともだった。
だが凛はそこへ口を挟まず、少しだけ視線をずらして恒一を見る。たぶん考えていることは同じだ。
席の話をした時点で、もう“誰の隣にいるか”の意味は避けられない。
そこで、しおんがぽつりと言った。
「黒峰くん、真ん中」
またそれだ。
「どうしてそうなるんだよ」
「一番平等だから」
「平等で済むなら苦労しない」
恒一が反射で返すと、しおんはほんの少しだけ首を傾けた。
「でも、端だと誰かが近くなる」
その言葉が静かすぎて、余計に核心だった。
ことねが顔を覆う。
「やめて、ロジックで詰めないで……」
たしかにそうなのだ。
端に座れば片側が確定する。
真ん中なら左右どちらにも人がいる。
平等と言えば平等。
ただし、その平等が空気を安定させるとは限らない。
「先輩の利き手、右ですよね」
ましろが小さく手を挙げた。
嫌な予感しかしない。
「……そうだけど」
「じゃあ右側は少し空けたほうが書きやすいです」
「そこだけやたら実務的だな!」
「大事ですから」
彼女は真顔だった。
だが、それを言う時点で、すでに“先輩の隣に誰が座るか”を強く意識しているのが分かってしまう。
いろはが窓際の机を指先で軽く叩いた。
「斜め前がいい」
「何が」
「困った顔、見やすい」
「座る理由に使うな」
恒一は本気でそう言った。
ことねがとうとう机に突っ伏しかける。
「もうやだ……振り返り用紙一枚でどうしてこんな空気になるの……」
「この班だからだろ」
凛が低く答えた。
だがその凛自身、少しだけ落ち着かない顔をしていた。いつものようにそっけなく、冷静に見える。けれど、まったく意識していないわけではないのが分かる。
「とりあえず」
凛が息をつく。
「黒峰はそこ」
彼女が指したのは、窓際の机の中央寄りだった。
すぐ隣に一人。
向かい側に二人。
少し離れた斜め位置に一人。
たしかに“端すぎず、真ん中寄り”ではある。
「朝霧さん、それ絶妙に逃げ場ない位置だよね」
ことねがじとっと言う。
「じゃあ代案ある?」
「うっ……」
ないらしい。
結局、その配置で行くことになった。
◇
そして、やはり問題は“誰がどこに座るか”だった。
ことねが一瞬早く恒一の右隣の椅子へ手をかける。
その動きを見て、朱莉の目が細くなる。
凛は何も言わないが、その無言が逆に圧になる。
しおんは静かに立ったまま、全体を見ている。
ましろは本気で“利き手側を空けたほうが”と考えている顔だ。
いろはは少し離れた位置から、その全部を観察している。
もうやめてくれ。
ただ座るだけだろう。
どうして椅子を引くまでにこんなに情報量があるんだ。
「……私、ここでいい?」
ことねが、半分確認のように聞いた。
右隣だ。
明るくて、話しやすくて、でも今この瞬間だけはだいぶ慎重だ。
恒一が返事をする前に、朱莉が静かに言う。
「黒峰、書くなら右利きだよね」
きた。
ましろが小さく「そうです」と追撃する。
ことねが「うっ」と詰まる。
「……じゃ、じゃあ私は向かいでもいいけど!」
その譲り方が、逆に意地らしく見えてしまうから厄介だ。
凛がそこへ冷静に言う。
「夢咲さんが向かいだと、たぶん話しながら身乗り出してくるでしょ。結果的に距離変わらない」
「朝霧さんそれ言う!?」
「事実」
ことねは口を尖らせる。
だが反論しきれない顔をしている。
たしかに彼女は話が乗ると身を乗り出すし、手振りも大きい。
しおんがそこで言う。
「夢咲さん、右でもいいと思う」
ことねがぱっとしおんを見る。
「え?」
「黒峰くん、夢咲さんが隣だと気が抜けるから」
また、そういうことを静かに言う。
ことねは一瞬だけ目を丸くして、それから少しだけ赤くなった。
「そ、そうかな……」
「そうだと思う」
しおんは穏やかに言い切る。
その言い方があまりに自然で、ことね本人すら否定しづらくなっているのがすごい。
朱莉はそれを聞いてわずかに視線を逸らした。
凛は小さく息を吐く。
いろはは明らかに楽しくなってきた顔をしている。
「じゃあ私、ここ」
ことねが右隣へ座る。
その動き自体は自然だ。だが自然であればあるほど、残りの配置に意味が出る。
向かい側。
空いた二席に、凛と朱莉がほぼ同時に手をかけた。
ぴたり、と空気が止まる。
本人たちは露骨な表情をしない。しないのだが、数秒だけ時間が伸びたみたいな感覚があった。
「……朝霧さん、そっち?」
朱莉が静かに聞く。
「火乃森さんこそ」
凛の返しも低い。
また始まるのか。
振り返り用紙一枚だぞ。
どうしてこうなる。
「先輩の前、見やすいです」
ましろが素直に言う。
「困る顔も」
いろはがさらに追い打ちする。
「お前ら本当に自重しろ」
恒一が本気で言うと、ことねが横で吹き出しそうになるのをこらえていた。
結局、向かいには凛が座った。
理由は単純だ。「ルートやメモを見ながら話すなら向かいがいい」と本人が言ったからだ。理屈としては正しい。たぶん正しい。けれど、その言い方があまりに“正しすぎて”逆に怪しい。
朱莉は一瞬だけ黙ったあと、向かい斜めの席へ座る。
その動作に無駄はない。だが、“本当は別の位置も考えた”ことだけは、何となく分かってしまう。
しおんは窓際の少し離れた位置。
ましろは記録がしやすいように斜め後ろ。
いろはは本当に“困る顔が見やすい斜め前”に座った。
結果として、かなり絶妙に意味深な配置が完成した。
「……これ、誰が考えたの」
ことねが小声で言う。
「誰も完成形を想定してなかったのに、出来上がるとだいぶやばいんだけど」
「まあ、そうだね」
凛が冷静に返す。
「でも始めるよ。振り返り、先に終わらせたいし」
その“やるべきことはやる”モードに入った凛は強い。
たぶんそれがなかったら、この机の配置だけでさらに十分は消えていただろう。
◇
用紙の一問目。
よかった点。
「班としては普通に優秀だったと思う」
最初にそう言ったのは、ことねだった。
「楽しかったし、ちゃんと全部回れたし。朝霧さんの進行も火乃森さんの資料管理も、ほんと助かったよ」
「夢咲さんの空気作りも役立ってた」
凛が素っ気なく言う。
「騒がしかったけど」
「最後の一言余計!」
だが、そのやり取りでことねが少し笑う。
たぶん、ああいう軽い応酬がこの班の“ぎりぎり壊れない”理由でもある。
朱莉も紙へ視線を落としながら言った。
「記録もちゃんとしてたし、見落としも少なかった」
「先輩が途中でちゃんと確認してくれたからです」
ましろがすぐに補足する。
そこで、また空気が少しだけ動く。
恒一は内心で呻いた。
やめてくれ。
こういう何気ない一言が、一番あとを引くんだ。
「俺、そんな大したことしてないだろ」
「してたよ」
ことねが横から即答する。
「人数確認とか、移動のタイミングとか、地味だけど大事なやつ」
「そう?」
「そう」
向かいの凛も小さくうなずいた。
「黒峰、途中で妙に全体見てたし」
「それは……誰か遅れたら嫌だから」
「そういうとこ」
朱莉が小さく言う。
「ちゃんとやる」
それはたぶん、褒めているのだろう。
だが朱莉の声には、褒めるだけじゃない何かが混じっていた。
昔から知っている人間だからこそ分かる“変わらないところ”を見ている感じ。
「で、改善点は?」
凛がさっさと次へ進めた。
それはたぶん、この空気を必要以上に一か所へ留めたくなかったからだろう。
改善したい点。
ことねが真っ先に言った。
「席!」
「席?」
凛が聞き返す。
「昼休みとか、振り返りとか、誰がどこ座るかだけでちょっと変な空気になるの、改善したいです!」
それを真正面から言うか。
しかもここで。
だが、否定する者はいなかった。
ことねは続ける。
「いやだって、さっきもそうだったじゃん! 普通に座ればいいだけなのに、ちょっとだけみんな考えたでしょ!」
「……まあ」
凛が珍しく即答を避ける。
「ちょっとだけじゃないけど」
朱莉がぼそっと補足する。
ことねが「ほら!」と机を叩きそうになるのをこらえる。
「そういうの! そういうのがもう“改善したい点”だと思う!」
「改善、できるかな」
しおんが静かに言った。
「たぶん、難しい」
その一言がひどく現実的だった。
「黒峰くんがいると、みんな少し位置を考えるから」
本人の前で言うな、と言いたい。
だが、もうこの班ではそういう言葉が避けられないところまで来ている気もする。
いろはがそこで小さく笑う。
「でも、それ面白い」
「面白くない側の気持ちも考えろ」
恒一が言うと、いろはは素直にうなずいた。
「黒峰くんは面白くないかも」
「かも、じゃないんだよな」
「でも綺麗だった」
「分かったからもう」
そのやり取りに、ことねが肩を震わせる。
凛は呆れたように息を吐く。
朱莉は口元を少しだけ緩めた。
その“少しだけ”が、逆に破壊力あった。
◇
話し合いが進むにつれて、机の上の空気は少しずつ落ち着いていった。
誰かが意図的に喧嘩をしたいわけではない。
誰かを排除したいわけでもない。
それは今日改めてよく分かった。
ただ全員、少しずつ譲らないだけだ。
ことねは、楽しい空気を自分も作りたい。
凛は、ちゃんとしている相手を認めてしまう。
朱莉は、昔からの距離を簡単に手放す気がない。
しおんは、静かなまま把握したい。
ましろは、日常の一部として自然にそばにいたい。
いろはは、崩れたバランスの中に美しさを見る。
全員が、自分なりの入り口で恒一に近づいている。
だからこそ、誰か一人の隣にいるだけで空気が変わる。
最後の設問、
今後の交流活動に活かせそうなこと。
それに対して、ましろが小さく手を挙げた。
「はい」
ことねが促す。
「歩くペース、最初に合わせたほうがいいと思います」
「……それ、また先輩基準じゃない?」
ことねが苦笑する。
「でも大事です」
ましろは真顔だ。
「誰か一人だけ速いとか遅いとかあると、途中でズレます。先輩、考えごとすると少し遅くなるので、最初にペース決めたほうが全体も楽だと思います」
そこへ、しおんが静かに続けた。
「黒峰くんがいないと、みんな少しつまらなそう」
言われた瞬間、空気がまた止まった。
それは以前にも聞いた言葉だった。
だが、今この配置で、今この流れの中で聞かされると、重さが違う。
ことねがゆっくりと瞬きをする。
凛は目を逸らさない。
朱莉の指先が、紙の端でほんの少し止まる。
ましろはいかにも“そう思います”みたいな顔をしている。
いろはだけが、見たかったものを見たような顔をしている。
「……それ、書く?」
ことねが半分本気で聞く。
「書かなくていい」
恒一が即答した。
「絶対いらないだろ、その情報」
ことねがつい吹き出し、凛も口元を押さえて小さく笑った。
朱莉は目を伏せる。
しおんは少しだけ首を傾けた。
いろはは楽しそうに、机の上の紙へ視線を落とす。
「でも本当」
「分かってるから余計に困るんだよ」
恒一が言うと、ことねが小さく笑いながら呟いた。
「うん、たしかに」
その“うん”には、どこか認める響きがあった。
◇
振り返り用紙を書き終えるころには、外はだいぶ夕方だった。
窓の外で、春の空が少しずつ青から橙へ変わっていく。部活へ向かう足音が遠くなり、教室の残り人数もかなり減った。机の上には書き終えた紙、シャーペン、消しゴム、飲みかけのペットボトル。ごく普通の放課後の風景だ。
なのに、恒一の胸の中には普通ではない感覚ばかりが残っていた。
誰の隣にいるか。
それだけで空気が変わる。
それは別に、誰かが大声で怒るとか、露骨に牽制するとか、そういう単純な話ではない。もっと静かで、もっとささやかで、それでいて確実に人の意識を揺らすものだ。
ことねの右隣。
凛の正面。
朱莉の斜め前。
しおんの静かな視線の届く位置。
ましろの観察が届く距離。
いろはの“見やすい角度”。
その全部が、今日の短い振り返りの時間だけで妙に意味を持ってしまっていた。
「……帰る?」
ことねが言った。
「うん」
恒一も頷く。
席を立つ。
するとまた、ほんのわずかな動きで空気が変わる気配がした。
右隣だったことねが一緒に動こうとして、凛がそれを見て、朱莉がその二人の間を静かに抜ける。ましろは自然に少し後ろへ付き、いろははその全部を眺めるように遅れて立つ。しおんだけが静かに、しかしちゃんと全体を視界に入れている。
やっぱり、誰の隣にいるかで空気は変わる。
それを、たぶんもう全員が理解してしまっている。
教室を出る直前、窓の外の夕日が一瞬だけ強く差し込んだ。
その光の中で、恒一はようやく本気で自覚する。
普通の青春は、もうだいぶ手遅れかもしれない。
まだ誰かが決定的な言葉を口にしたわけじゃない。
でも、立ち位置だけでこれだけ空気が揺れるなら、もう充分だ。
星ヶ峰学園という場所で、黒峰恒一は少しずつ“普通ではいられない中心”へ押し出されている。
そして、その中心にいる自分自身が、完全にはそこから目を逸らせなくなっていることもまた、今日、はっきりしてしまったのだった。




