第17話 購買前、謎肉カップ麺が火種になる
月曜日の放課後、黒峰恒一は自分でも少し驚くほど素直に疲れていた。
授業が特別重かったわけではない。小テストがあったわけでもないし、体育で走り込まされたわけでもない。むしろ一日全体で見れば、学校生活としては比較的平和な部類だったかもしれない。
それでも疲れるのは、たぶん“空気”のせいだ。
四班のオリエンテーション以降、教室の中の視線や会話には、少しずつ前提が乗り始めている。あからさまではない。けれど確実に、「黒峰恒一の周囲は少しにぎやかだ」という共通認識のようなものが出来つつあった。
ことねと話していれば、「やっぱり仲いいんだ」と見られる。
しおんが近くにいれば、「また静かに見てる」と思われる。
朱莉と目が合えば、「幼馴染だもんな」と空気が流れる。
凛と軽く言い合えば、「なんだかんだ息合ってる」と受け取られる。
ましろが現れれば、「また近くにいる」と驚かれ、
いろはに呼び止められれば、「今度は何を見つけられたんだ」となる。
そしてそこに、毒島ひよりという新しい“変食系オタクヒロイン”が自然に追加された。
もう、いろいろと諦めたほうがいいのかもしれない。
そんなことを考えながら、恒一は鞄を肩にかけて教室を出た。
今日は寄り道するつもりはなかった。
さっさと帰って、夕飯まで静かな時間を確保したい。
頭を空っぽにして、誰にも観察されず、誰の気配も感じず、ただ一人でだらっとしたい。
なのに、足が向かったのは購買だった。
理由は単純だ。小腹が空いていた。昼休みに少し落ち着かなかったせいで弁当の減りが妙に早く、帰宅前に何か口へ入れておきたかった。
そして、星ヶ峰の購買は地味に危険である。
限定パン、よく分からないコラボ菓子、カップ麺、新作飲料。
高校生の財布にギリギリ優しく、ギリギリ欲望を刺激してくる品揃え。
その“ギリギリ”が、今の恒一にはあまり良くなかった。
購買の前まで来ると、放課後らしい人の流れがあった。部活前に腹へ入れる生徒、帰り際に甘いものを買う生徒、友達同士で新商品を見比べる生徒。明るい蛍光灯の下で、包装のビニールやペットボトルのラベルが光っている。
その中で、恒一はやはり真っ先に見つけてしまった。
カップ麺コーナーの前。
小柄な後ろ姿。
ふわっとしたボブヘア。
そして、“食べ物を見つめるときだけ目が本気になる”あの独特な気配。
毒島ひよりがいた。
今日は制服の袖を少しだけまくり、両手に一つずつカップ麺を持っている。どちらも派手なパッケージだ。片方は赤黒い「謎肉激盛り限定MAX」。もう片方は、見たことのない黄緑色のカップで、虫のシルエットみたいなロゴが小さく入っている。
嫌な予感しかしない。
ひよりは真剣な顔で二つの成分表示を見比べていた。視線は一点に集中し、口元は少しだけ引き締まっている。
可愛い。
けれど、その可愛さを通り越して、完全に研究者の顔だ。
「……こっちは油脂が強い」
小さく呟く。
「でもこっちはたんぱく感が面白そう」
何と戦っているんだ。
恒一が無言で立ち尽くしていると、ひよりがふっと顔を上げた。
目が合う。
その瞬間、彼女の瞳が一段階だけ明るくなる。
「……先輩」
やはり気づかれた。
しかも、うれしそうだ。
「お疲れさまです」
「お、おう」
恒一がぎこちなく返すと、ひよりは二つのカップ麺を持ったまま、すっと近づいてきた。押しが強いわけではない。走り寄ってくるわけでもない。だが、“当然ここに来る”という感じで迷いがない。
「ちょうどよかったです」
「その言い方、前も聞いたな」
「はい」
ひよりは真顔でうなずいた。
「先輩の意見、かなり参考になるので」
「俺、そんなに変なもの食べる側じゃないんだけど」
「でも、先入観で切らないじゃないですか」
その一点の信頼が強すぎる。
ひよりは右手の赤黒いカップ麺を少し上げた。
「これ、前に言ってた第三ロットの改良版です」
「前に言ってた……って、俺まだ一回しか聞いてないんだけど」
「大事な話は一回で十分です」
次に、黄緑のほうを上げる。
「で、こっちは新商品です」
嫌な予感が、さらに強くなる。
「何の味だよ」
「昆虫食風味です」
予想を越えてきた。
「風味?」
「はい。正確にはコオロギパウダー入りのシーズニングを使っているので、原型はないです」
「その説明で安心していいのか分からない」
「かなり食べやすい部類です」
ひよりは本気でそう言っていた。
「先輩、どっちいけますか?」
「“いけますか”って言い方するな。挑戦前提みたいになるだろ」
「違いますか?」
「否定しづらい聞き方だな……」
恒一が頭を抱えかけた、そのとき。
「黒峰くん?」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返る。
夢咲ことねだった。
その少し後ろに、朝霧凛と火乃森朱莉までいる。
終わった。
なぜこうもタイミングよく見つかるのか。
この学校のヒロインたちはGPSでも内蔵しているのか。
ことねは近づくにつれ、恒一とひより、そしてその手元のカップ麺を見比べた。
「……何してるの?」
声はできるだけ平静を装っている。だが顔に「気になる」が出すぎている。
凛は一歩遅れて状況を把握し、低く言った。
「また購買か」
朱莉は無言だった。
無言なのに、一番強い圧がある。
ひよりは三人の存在を認識し、小さく頭を下げた。
「お疲れさまです」
「……お疲れさま」
ことねがぎこちなく返す。
「毒島さん、だよね」
「はい。一年C組の毒島ひよりです」
「うん、それはこの前聞いた」
ことねはそう言いながら、カップ麺を見た。
「で、その……何してるの?」
「先輩に選んでもらってました」
ひよりがあまりにも自然に言ったせいで、その場の空気がぴたりと止まった。
ことねの表情が固まり、凛の眉がわずかに動く。朱莉の視線が細くなる。恒一は反射的に口を開いた。
「いや、選んでたっていうか、意見聞かれてただけで」
「先輩、謎肉系いけるので」
ひよりが補足する。
その補足が一番いらない。
「しかも先入観少ないので、かなり貴重です」
「その“貴重”の言い方ほんとやめてくれない?」
恒一が言うと、ひよりは少しだけ考えてから首を傾げた。
「でも本当です」
凛が小さく息を吐いた。
「……またずいぶん変なところ刺されたね」
「“また”って何だよ」
「これまでの流れ全部込みで言ってる」
ぐうの音も出ない。
ことねは半歩だけ前へ出て、ひよりの持つ二つのカップ麺をのぞき込んだ。
「えっと、赤いのはまだ分かるんだけど……黄緑のそれ何?」
「昆虫食風味です」
「風味なんだ!?」
ことねの声が裏返る。
「や、でも、そこに“昆虫食”って文字が入ってる時点でかなり攻めてない!?」
「むしろ誠実です」
ひよりは真顔で言った。
「入ってるのに入ってないみたいな顔をするより、最初から言ってくれるほうが親切なので」
理屈としては分かる。
分かるが、受け入れられるかは別問題だ。
朱莉がそこで初めて口を開いた。
「黒峰、そういうの食べるの?」
静かな声だった。
しかしその静けさの下に、明らかに探るような色がある。
「いや、さすがに昆虫食そのものはまだ……」
「でも、食べないって言ってないですよね」
ひよりがまた余計な正確さを発揮する。
「先輩、“こういうのって意外とうまい時あるよな”って言うので」
ことねが「その台詞ほんと強いんだって……」と小さくうめいた。
凛は腕を組んだまま、恒一を見ている。
「黒峰、断る時はちゃんと断ったほうがいいよ」
「いや、俺だって別に何でも食べるわけじゃ……」
「でも興味はあるでしょ」
凛の言い方がやけに的確だった。
そこへ、ひよりが静かに言う。
「一緒に変なものを食べてくれる人、好きです」
空気がまた止まる。
今度はさっきより重かった。
ことねが完全に固まり、凛が目を細め、朱莉は表情を消した。恒一だけが、数秒遅れてようやく理解する。
今、なんて言った。
「……え?」
ひよりは自分が何か特別なことを言った自覚も薄いまま、続けた。
「見た目や名前で切らずに、一口は付き合ってくれる人、貴重なので」
訂正されたようでいて、あまり訂正になっていない。
むしろ意味が具体化して余計に強くなった。
「いや、ちょっと待って」
恒一が慌てて言葉を探す。
「俺、まだ何も一緒に食べてないだろ」
「これから食べるかもしれません」
「未来予測やめろ」
「でも可能性ありますよね」
この子、押しが強いわけじゃないのに、言うことが全部強い。
ことねがようやく息を吹き返した。
「ど、毒島さんってさ……」
「はい」
「そういうの、普通に言うタイプなんだ」
「はい」
また即答。
「変なものを一緒に食べられるかどうか、大事なので」
ことねはその一言に完敗したみたいな顔で天井を仰いだ。
「価値観が強い……」
凛が低く言う。
「一周回って筋通ってるのが厄介」
朱莉は何も言わない。だが、その沈黙は“面白くない”がかなり濃い形で出ていた。
恒一は、本気でどう収拾をつければいいのか分からなくなる。
「……とりあえず、今日は買わない」
苦し紛れにそう言うと、ひよりは少しだけ残念そうな顔をした。
ほんの少しだけ。
だが、その小さな表情の変化が妙に刺さる。
「そうですか」
「いや、だって今ここで買って食う流れになると余計ややこしいだろ」
「たしかに」
ひよりは素直に納得した。
「では、また今度にします」
“今度”がある前提になっている。
ことねがすかさず反応した。
「今度って何!?」
「機会があればです」
ひよりは本気で不思議そうに答える。
「先輩、偏見少ないので」
その一点でここまで来るのがすごい。
だが、ひよりの中では本当に大事なのだろう。食べ物を“変だから”で切らず、ちゃんと一口付き合ってくれる人。それが彼女にとって、かなり特別な意味を持つ。
だからこそ、この距離の詰め方になる。
ひよりは二つのカップ麺を抱え直し、小さく会釈した。
「では失礼します」
それだけ言って、レジのほうへ向かっていく。
小さな背中は軽い。
可愛い。
なのに、残された空気はとても軽いとは言いがたかった。
ひよりの姿がレジ前の列へ紛れていっても、四人のあいだにしばらく言葉が落ちなかった。
最初に沈黙を破ったのはことねだった。
「……何、今の」
完全に本音だった。
「私、いま新しいジャンル見た気がする」
「俺もだよ」
恒一も正直に言った。
凛は小さく息を吐く。
「食べ物経由であそこまで自然に入ってくるの、だいぶ強いね」
「しかも本人に悪気ないのが一番面倒」
朱莉のその一言に、全員が内心でうなずいた気がした。
ことねがじっと恒一を見る。
「黒峰くん」
「ん?」
「ほんとに気をつけてね」
「何に」
「もう“何に”じゃないんだって!」
ことねは半ば悲鳴みたいに言う。
「どの子にも、それぞれの刺さり方があるの! 毒島さんはたぶん“食べること”で来るタイプなんだよ!」
その分析は、まちがいなく正しかった。
凛も珍しく否定しない。
「まあ、そうだろうね」
朱莉は静かに視線を外しながら言う。
「ほんと、次から次へと新しい入り口増えるね」
その言い方は少しだけ棘があった。
けれど、その棘の向きはひよりよりも、むしろ恒一自身へ向いているようにも感じられた。
恒一は棚の缶コーヒーを一つ取って、ようやく自分の目的を思い出した。
ただ飲み物を買いに来ただけだった。
それなのに、また一つ新しい火種が増えた。
しかも今回は、謎肉カップ麺と昆虫食風味という、意味の分からない角度から。
レジへ向かうひよりの後ろ姿を見ながら、恒一は静かに悟る。
この学校では、もう“どこで誰に何が刺さるか”を予測すること自体が無理なのかもしれない。
購買前の火種は、思っていた以上にしっかり燃え始めていた。




