第13話 共学記念オリエンテーション、開幕前から胃が痛い
金曜日の朝、黒峰恒一は校門の前に立った時点で、すでに一日の体力を三割くらい失った気がしていた。
空はよく晴れていた。春の青はどこまでも素直で、校舎の白い壁も、整えられた花壇も、風に揺れる桜の名残も、どれも“新しい学校生活の記念日”みたいな顔をしている。共学化記念の校内オリエンテーションには、たしかに相応しい朝だった。
問題は、その中身である。
今日は四班で行動する。
それはつまり、
夢咲ことね。
雪代しおん。
火乃森朱莉。
朝霧凛。
小鳥遊ましろ。
鳴瀬いろは。
そして自分。
この面子で、数時間、校内を一緒に回るということだ。
正直に言えば、怖い。
何が、とは言い切れない。
ただ、絶対に何か起きるという確信だけがある。しかも、事件とか事故とかそういう派手なものではなく、人間関係の空気がじわじわ煮詰まっていく種類の“何か”だ。
恒一は小さく息を吐き、校門をくぐった。
今日の星ヶ峰は、朝から少しだけ浮ついていた。共学化記念という名目があるせいか、普段よりも生徒たちの足取りが軽い。廊下を歩く声も、教室へ急ぐ様子も、どこか遠足前みたいな気配がある。
その一方で、自分に向く視線の意味もいつもより少しだけ濃かった。
――四班、やばくない?
――黒峰くん大丈夫かな。
――むしろ一番面白そう。
そんな声が実際に聞こえたわけではない。けれど、この学校の空気なら、それくらいのことはもう思われている気がする。
昇降口で上履きに履き替え、教室へ向かう途中で、恒一はもう一度小さく決意した。
今日の目標は一つ。
なるべく平和に終わらせる。
それだけだ。
◇
教室に入った瞬間、そのささやかな目標がいかに脆いものかを思い知らされた。
「おはよー黒峰くん!」
最初に声をかけてきたのは、やはり夢咲ことねだった。席から半分立ち上がるみたいにしてこちらを振り向き、その顔には“イベント当日です!”という感じの落ち着かなさと高揚が同時に出ている。
「おはよう」
「ねえ、今日だけど」
「まだ朝一だぞ」
「朝一だから言うの! 普通に楽しくやろうね!」
それを二日連続で聞いている。
「分かったから、まず落ち着け」
「落ち着いてるよ!」
「その声量で?」
恒一がそう返すと、ことねは「うっ」と言葉に詰まり、それでも「で、でも今日は大事な日だから……!」と食い下がった。
そこへ、通路側から凛の冷たい声が飛ぶ。
「大事なのは分かるけど、朝から騒ぐのやめて」
「朝霧さんはもうちょっとこう、イベント感を楽しもうよ!」
「楽しむ前に進行が止まりそうだから言ってる」
凛は頬杖をついたまま、しかし視線はしっかりこちらを見ていた。いつも通り淡々としているようで、今日は少しだけ集中の仕方が違う。もう頭の中でルートや段取りを組んでいる顔だ。
「校内図、昨日見直したけど無駄に遠回りするルート多いから。最初に順番決めないと、たぶん時間足りなくなる」
「もう見直したのか」
恒一が言うと、凛は軽く肩をすくめた。
「当たり前でしょ。無駄なの嫌いだし」
らしい。
ものすごくらしい。
「あと、集合したらさっさと動くから」
「誰に言ってるんだよ」
「全員」
そこへ、今度は窓際から朱莉の声が入る。
「順番だけじゃ足りないでしょ。チェック項目の担当も分けたほうがいい」
火乃森朱莉はすでに机の上へ校内図とプリントを広げていた。朝の時点でその準備ができているあたり、本当に最初から主導権を握る気だ。
「資料は私が持つ。夢咲さんはたぶん手元散らかるし」
「えっ、そこまで信用ない!?」
「ないというより、役割の向き不向き」
朱莉は顔色一つ変えずに言う。
「朝霧さんが移動管理。黒峰は人数確認」
「なんで俺」
「一番全体見渡しやすい位置にいるから」
言い方が自然すぎる。
つまりもう、自分が“班の中心っぽい位置に置かれること”が前提になっているのだ。
「いや、別に俺がそんな……」
「黒峰くん」
静かな声が、そこで割って入った。
雪代しおんだった。
相変わらず姿勢がよく、制服の着こなしにも乱れがない。派手ではないのに、その静けさだけで教室の空気を一瞬止めるようなところがある。
「今日、たぶんたくさん呼ばれるから」
「……またそれ言うのか」
「うん」
しおんはほんの少しだけ首を傾げた。
「夢咲さんは話しかける時の勢いがあるし、火乃森さんは確認で呼ぶ。朝霧さんは指示で呼ぶ。小鳥遊さんはたぶん歩調で呼ぶし、鳴瀬さんは顔を見た時に呼ぶ」
やめてくれ。
分析が細かすぎて、むしろもう現実味しかない。
ことねが「うわあ」と頭を抱え、凛は呆れたように目を伏せる。朱莉はしおんのほうを一瞬だけ見たが、否定はしなかった。
つまり、全員少なからず心当たりがあるのだ。
「……雪代さんは?」
恒一が半ば諦めて聞くと、しおんは少しだけ考えてから答えた。
「必要な時に」
「一番怖い言い方なんだよな、それ」
いろいろな意味で必要以上に見られていることだけは、もうよく分かっていた。
◇
一時間目の前、ましろは案の定やってきた。
「おはようございます、先輩」
教室の後ろの扉から控えめに顔を出し、そのまま小走りで近づいてくる。小柄で可愛い。しかも声も柔らかい。傍から見れば“礼儀正しい後輩”そのものだ。
問題は、その中身である。
「おはよう」
「今日は歩きやすい靴ですね」
開口一番それだった。
「……そこ見る?」
「班行動ですから」
ましろは当然のように言った。
「先輩、昨日より少しだけ気合い入ってます。たぶん靴紐いつもよりきついです」
ことねが「こわっ」と小さく漏らし、凛が「やっぱり把握してる」とぼそっと言う。
ましろはそんな周囲の反応など気にせず、恒一へ一枚の小さなメモを渡した。
「もし途中で喉渇いたら、購買横の自販機が一番空いてます。たぶん十時半くらいが狙い目です」
「なんでそんな情報まで」
「去年から使ってるので」
なるほど、自分の習慣だけでなく、校内導線まで熟知しているタイプか。
「あと、先輩の歩くペースに合わせますね」
「またそれ言うのか」
「大事なので」
真顔だった。
自分に合わせることを当然のように言う。しかも、それが独占欲やアピールというより“効率的な配慮”みたいな顔で出てくるのが、この子の厄介なところだ。
「小鳥遊さん、それ本人の前で言うんだ」
ことねが半ば感心したように言うと、ましろは不思議そうに目を丸くした。
「だめでしたか?」
「だめではないけど……なんていうか、もうちょっと隠すとか……」
「隠す必要あります?」
まっすぐだ。
そしてそのまっすぐさは、かなり強い。
凛が小さくため息をつく。
「この班、ほんとに方向性が違うだけで全員押しが強い」
「いまさら過ぎない?」
ことねの突っ込みが、妙に真理だった。
◇
二時間目が終わった休み時間、鳴瀬いろはがふらっと現れた。
教室の扉に半分だけ寄りかかるように立ち、こちらを見るなり、ふっと目を細める。あの独特な、相手の“崩れ方”を探す視線だ。
「黒峰くん」
「なんだよ」
「今日、たぶん困る顔増える」
「全員それ言うな」
「でも本当」
いろはは本気でそう思っている顔だった。
「班行動って、誰が誰の隣にいるかで空気変わるから」
「それを前日に何回も聞かされてる俺の身にもなってくれ」
「大丈夫」
「何が」
「困る顔、綺麗だから」
慰めになっていない。
ことねが机に突っ伏しそうな勢いで呻く。
「もうやだこの班……」
「俺もだよ」
するといろはは首を傾げた。
「でも、少し楽しみでしょ」
その問いに、恒一はすぐ答えられなかった。
面倒だ。
胃も痛い。
できれば回避したい。
だが、まったく興味がないかと言われると、それも違う。
明日、誰がどんなふうに動くのか。
この班がどう転ぶのか。
その“答え合わせ”の瞬間を、自分でも少しだけ待ってしまっている。
それを見抜いたように、いろはは小さく笑った。
「ね」
「……うるさい」
いろはは満足そうに、それ以上は追及しなかった。
◇
午前の授業を終え、昼休みを挟み、午後の時間へ入るころには、四班をめぐる空気はもう完全に“前日”のものではなくなっていた。
まだ本番ではない。
なのに、全員の頭の中にはすでに明日の地図がある。
ことねは“平和で楽しい班行動”を願っている。
凛は“無駄のない進行”を想定している。
朱莉は“変な波風を立てないための支配”を考えている。
しおんは“誰がどう動くか”を静かに見ている。
ましろは“先輩の日常に合わせる導線”を用意している。
いろはは“困る顔が増える場”として楽しみにしている。
そして、その全部の真ん中に自分がいる。
ホームルーム前の最後の休み時間、ことねがぽつりと本音を漏らした。
「ねえ、黒峰くん」
「ん?」
「まだ始まってないのに、もう空気だけ修羅場じゃない?」
その表現があまりにも正確で、恒一は苦笑するしかなかった。
「やっぱりそう思う?」
「思うよ!」
ことねは声を落としたまま力強く言う。
「誰も喧嘩してるわけじゃないし、誰も“好き”とか言ってないのに、なんかもう位置取り始まってる感じあるじゃん!」
「夢咲さん、言葉が直球すぎる」
凛が冷たく言うが、否定はしない。
「でも、間違ってはないかも」
朱莉も静かに言う。
「明日どうなるか、たぶんみんな分かってるし」
「黒峰くん、疲れそう」
しおんの一言は穏やかだったが、まるで確定事項みたいだった。
「先輩、途中で甘い飲み物いるかもしれません」
ましろが真顔で言い、
「疲れた顔も見たい」
いろはが楽しそうに続ける。
「やめてくれほんとに」
恒一は本気でそう言った。
だが、その場にいる全員が少しだけ笑った。
笑ったけれど、その笑いは完全に軽いものではない。
それぞれが、それぞれの理由で明日を意識している。
逃げ道のない感じだけが、きれいに共有されていた。
◇
放課後。
教室を出た恒一は、ふらふらと購買のほうへ足を向けていた。
疲れていた。
まだ何も始まっていないのに、すでにだいぶ疲れている。
甘いものでも買って、今日は早く帰ろう。そう思って購買前まで来たところで、足が止まる。
昨日見た、小柄な女子が、またカップ麺コーナーの前に立っていた。
ふわっとしたボブヘア。
静かそうな横顔。
そして、食べ物を見つめる目だけが異様に本気だ。
彼女――毒島ひよりは、今日はさらに派手な赤黒いパッケージのカップ麺を両手で持ち上げていた。
謎肉激盛り限定MAX
その文字列を、彼女はほとんど祈るみたいな真剣さで見つめている。
パッケージの裏を返し、成分表示を確認し、側面の小さな印字にまで視線を走らせる。
まるで、運命の相手でも見つけたかのような顔だった。
「……第三ロットだ」
ひよりが小さく呟く。
「しかも改良版」
その横顔は、可愛い。
だが、可愛いより先に“本気すぎる”が来る。
恒一は飲み物棚へ向かう足を止めたまま、妙な確信に近いものを覚えた。
まただ。
また、新しいタイプの厄介さが近づいてきている。
しかも今度は、謎肉激盛り限定カップ麺を入り口にして。
春の夕方の購買前で、毒島ひよりの目だけが異様に輝いていた。
そしてその光が、たぶんもうすぐ自分にも向くのだろうという嫌な予感だけが、やけにはっきりと胸に落ちてきた。




