第10話 普通の青春を守るには、もう遅すぎる
鳴瀬いろはという、また別方向に厄介な存在が増えた翌週、黒峰恒一は月曜の朝から、ひどく嫌な予感に包まれていた。
理由は明確だった。
今日のホームルームで、共学化記念の校内オリエンテーション企画について説明がある――と、金曜の帰り際に担任が言っていたのを思い出していたからだ。
嫌な予感しかしない。
星ヶ峰学園が「共学化したばかりの元女子高」である以上、何かしらの記念行事や交流企画が入るのは自然だろう。学校側としても、“新しい星ヶ峰”を形にしたいのは分かる。分かるのだが、その企画に自分が巻き込まれた場合、ろくなことにならない未来が容易に想像できた。
そもそも今の恒一の周辺は、すでに静かなカオスである。
夢咲ことねは、趣味と勢いで距離を詰めてくる。
雪代しおんは、静かなまま音でこちらを把握してくる。
火乃森朱莉は、幼馴染として近くにいることを隠さない。
朝霧凛は、認める代わりに噛みつく。
皇玲華は、生徒会長の立場で反応を面白がっている。
小鳥遊ましろは、習慣ごと日常に入り込んでくる。
鳴瀬いろはは、欠点を面白がって“描きたい”と言い出した。
これ以上、全員を同じ場に集めるような真似だけはやめてほしい。
そう願っていたはずなのに、現実はだいたい、そういう願いから外れていく。
◇
「というわけで」
朝のホームルーム、担任は教壇の前でプリントを手にしながら言った。
「今週の金曜、共学化記念の校内オリエンテーション企画を行います」
教室に小さなざわめきが走る。
「まあ、そんなに堅いものじゃありません。校内探索と、各施設の確認と、新入生同士の交流を兼ねた班行動です。星ヶ峰は校舎も少し複雑だからね。せっかくだし、共学一期生らしく、普段話さない相手とも交流してみましょう」
最後の一言が余計だった。
恒一は前を向いたまま、心の中でため息をつく。
普段話さない相手とも交流。
そのフレーズは、たぶん学校側としては善意なのだろう。だが、今の自分にとってはほとんど呪いに近い。
「班はこちらである程度決めます。人数に偏りが出ないようにしてるから、細かい調整は受け付けません」
担任が黒板に紙を貼る。
その瞬間、教室のあちこちで椅子の軋む音がした。みんな一斉に前へ身を乗り出す。班分けというのは、それだけで一つのイベントになる。誰と同じか、誰と外れたか、誰が近くて誰が遠いか。そういう小さな人間関係の揺れが、クラスの空気をあっという間に変える。
そしてもちろん、恒一の周囲でも例外ではない。
「うわ……」
夢咲ことねが早くも小さく声を漏らした。
「何だよ」
「いや、まだ見えてないけど、なんかもう嫌な予感する」
「奇遇だな。俺もだ」
通路側では朝霧凛が無言で前を見ている。窓際の朱莉は静かだ。しおんは表情を変えないまま黒板を見ている。どの顔も一見落ち着いている。だが、それぞれの静かさの種類が違うのが余計に怖かった。
担任が言う。
「じゃあ各自、確認して」
その一声で、教室の空気が一段階だけ熱を帯びた。
恒一も席を立ち、前方へ向かう。人が集まるほどではないが、黒板の近くには自然と視線が集まる。班表を見た瞬間、恒一は数秒だけ言葉を失った。
四班。
黒峰恒一。
夢咲ことね。
朝霧凛。
火乃森朱莉。
雪代しおん。
小鳥遊ましろ。
鳴瀬いろは。
……終わった。
いや、まだ始まってもいないが、感情としてはもう終わったに近い。
どうしてこうなった。
たしかに学内オリエンテーションだから、普段関わりそうな相手をある程度まとめたのかもしれない。あるいは単純に出席番号やバランスの都合かもしれない。だが、よりによって今の自分の周囲で一番面倒な組み合わせが、ほぼ全部入っている。
背後で、ことねが引きつった声を出した。
「……え、マジ?」
凛は顔をしかめる。
朱莉は何も言わない。
何も言わないが、その沈黙が一番怖い。
しおんは静かに班表を見上げている。
ましろは少し離れた位置で「あ、先輩と一緒です」と小さく嬉しそうにしている。
いろはは「うん、面白そう」と呟いた。
終わってる。
「先生」
誰かが前のほうで声を上げた。別の班の女子だ。
「これ変更ないんですか」
「ありません」
担任は容赦なく言い切る。
「交流目的なので。あまり固まらずに、ね」
その“固まらずに”という言葉が、今の恒一には最大の皮肉に聞こえた。
◇
ホームルームが終わり、席に戻った瞬間、四方から空気が寄ってきた。
一番早かったのは、やはりことねだった。
「ねえ、これさ」
「うん」
「どういうことだと思う?」
「俺が聞きたい」
ことねは自分の席の横で立ったまま、班表の紙をまだ信じられないものを見る目で見ている。大きな目がぱちぱち忙しく動いていた。
「いや、鳴瀬さん入るのは分かる。なんかもう流れ的に分かる。ましろちゃん入るのも、まあ最近の感じだと分かる。でもそこに朝霧さんと火乃森さんと雪代さんまで足す!? しかも黒峰くんいる!?」
「最後の一言、当たり前すぎるだろ」
「そこに全部の意味が乗ってるの!」
ことねの焦り方は大げさだが、言いたいことは分かる。班としての濃度がおかしいのだ。
そこへ、凛がそっけなく口を挟む。
「騒ぎすぎ。決まったならやるしかないでしょ」
言い方はいつも通り冷静だった。だが、その表情が完全に平常かと言われると微妙だ。目の奥に少しだけ面倒くささが見える。
「朝霧さんは冷静だね!?」
「冷静じゃないと疲れるから」
「その時点で疲れてるの認めてるじゃん」
ことねの返しに、凛は軽く眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。
その代わり、窓際から朱莉の声が静かに落ちる。
「学校側、何考えてるんだろうね」
言い方は穏やかだ。だが、穏やかだからこそ本心が隠れていない。
「これ、わりと地獄だと思う」
恒一が正直にそう言うと、朱莉はちらりとこちらを見た。
「へえ、自覚あるんだ」
「さすがにあるだろ」
「ならよかった」
その一言の中に、“なかったら困る”みたいな温度が混じっている。
しおんは少し遅れて口を開いた。
「でも、まとめて見えるのは便利かも」
「何が?」
ことねが聞くと、しおんは小さく首を傾けた。
「誰がどう動くか」
それを本人たちの前で言うか。
ことねは「うわ」と小声で漏らし、凛は「怖」とぼそっと言った。朱莉は何も言わなかったが、しおんを見た目が少しだけ細くなる。
一方、教室の後ろから近づいてきたましろは、ぱっと明るく言った。
「みなさんと一緒なんですね」
この子だけ空気の種類が少し違う。嬉しそうなのがそのまま顔に出ていた。
「先輩と同じ班で安心しました」
「安心材料にされるの、地味に重いな……」
「だめですか?」
「だめではないけど」
「ならよかったです」
やっぱりこの子は、変に濁さないぶん余計に強い。
そして最後に、いつのまにか近くに来ていた鳴瀬いろはが、班表のほうを見ながら言った。
「黒峰くん、たぶん途中で三回くらい困る顔するね」
「予言しないでくれ」
「でも、ちょっと見たい」
「正直だな、おい」
いろはは本気でそう思っている顔だった。
ことねが半ば頭を抱える。
「なんかもう、全方向から黒峰くんを中心に話進んでない?」
「俺もそれ思ってる」
恒一は机に手をつき、心の底から小さく息を吐いた。
普通の青春を守りたい。
ただそれだけだったのに、どうしてこうも毎回“自分をめぐる空気”みたいなものが発生するのか。
そして最悪なことに、その空気は今、誰もまだ“好き”だの“告白”だのの明確な言葉にしていない段階で起きている。だからこそ厄介なのだ。誰も決定的なことを言っていないのに、それぞれが少しずつ、自分の立ち位置を取り始めている。
◇
その日の昼休み、四班の人間はなんとなく同じ空間に集められる流れになった。
誰かが強制したわけではない。
ただ、「金曜の班行動について少し打ち合わせしたほうがいいよね」という、もっともらしい空気が自然に生まれてしまったのだ。
場所は、中庭に面した渡り廊下のそばの小さなラウンジスペース。椅子と丸テーブルがいくつか置かれていて、昼休みになると比較的使われやすい場所だ。窓からは春の花壇が見え、午後前の光が白く床へ落ちている。
恒一は丸テーブルの一つに腰を下ろし、すでに「帰りたい」と少しだけ思っていた。
向かいにはことね。
隣にましろ。
少し斜めに凛。
その隣に朱莉。
窓際側にしおん。
椅子を少し離して、いろは。
絵面が強すぎる。
ことねが最初に口を開いた。
「えーと、とりあえず……どうしようか」
「何が」
凛が聞く。
「いや、全部?」
「ざっくりしすぎ」
「だってこのメンバーで“普通に打ち合わせ”って難しくない?」
ことねの本音はもっともだ。
たとえば別の班なら、「どの順番で回る?」「誰が資料持つ?」くらいの話で済むのかもしれない。だがこの班は、そういう事務的な話の前に、すでに見えない何かが椅子のあいだを埋めている。
「資料は私がまとめて見ます」
朱莉が先に言った。
声は落ち着いている。落ち着いているが、その“自然に仕切る”感じがいかにも彼女らしい。
「校内図とチェック項目の確認、誰かがやらないと回らないでしょ」
「じゃあ私、メモ取ります」
ましろがすぐに続く。
「記録係が一人いたほうがいいですよね」
早い。
そして無駄がない。
ことねが少しだけ焦った顔になる。
「じゃ、じゃあ私は写真とか? いや撮影可か分かんないけど!」
「夢咲さん、たぶんそれ半分遊びたいだけでしょ」
凛が冷静に刺す。
「ち、違うって! 記録としての写真!」
「顔に“楽しそう”って書いてる」
「朝霧さん、最近ほんと容赦ない!」
そのやり取りを聞きながら、恒一は自分の役割が見えないままだった。
男子一人。
班の中で特別有能なスキルがあるわけではない。
なのに周囲の視線だけは自分へ集まりやすい。
このポジション、地味に最悪ではないか。
「黒峰くんは」
しおんが静かに言った。
「真ん中にいればいいんじゃない」
「真ん中?」
「みんな、たぶん黒峰くん中心に動くから」
テーブルの空気が一瞬止まった。
あまりにも核心だった。
ことねが「それ言う!?」という顔をし、凛は露骨に目を逸らす。朱莉はしおんを見て、ほんの少しだけ眉を上げた。ましろは「たしかに」と思っていそうな顔で、いろはは面白そうに口元を緩める。
恒一だけが、頭を抱えたくなる。
「……やめてくれ、そういう言い方」
「違う?」
しおんは本気で不思議そうだった。
「違わなくても、本人の前で言うなよ」
凛がぼそっと助け舟とも追撃とも取れる言葉を落とす。
しおんは少しだけ首を傾げたあと、「そう」と短く返した。
朱莉がそこで口を開く。
「でも、実際そういうところあるよね」
今度はお前か。
「この班、たぶん黒峰がどこにいるかで動き方変わる」
「火乃森さんまで……」
ことねが遠い目になる。
「それ、もう黒峰くんが自覚したほうがいい段階なのかな」
「したくない」
恒一は即答した。
「俺は普通に班行動したいだけなんだけど」
「もう無理でしょ」
凛の返しも早かった。
「今さら“普通”の定義からやり直したほうがいいよ」
「ひどいこと言うなあ」
「事実だから」
いろはがその会話の流れを受けるみたいに、小さく言った。
「でも、普通じゃないのは綺麗だよ」
「今その慰め方は逆に不安になるんだけど」
「慰めてない」
「だろうな!」
少しだけ笑いが起こる。
だが、その笑いが完全に和やかなだけではないのが、この班の厄介なところだった。
ことねが勢いに任せて言う。
「じゃあもう、せっかくだし役割決めちゃおうよ! 火乃森さんが資料、ましろちゃんが記録、私は写真か雰囲気担当で!」
「雰囲気担当って何」
凛が突っ込む。
「場を盛り上げる係!」
「それ普段から勝手にやってる」
「朝霧さん、地味にひどい!」
ことねが騒ぐのを横目に、凛は少しだけ視線を伏せた。
「私は道順と移動の管理やる。無駄にうろうろしたくないし」
それはらしい。凛は無駄が嫌いだし、全体を見るのもたぶん得意だ。
「雪代さんは?」
ましろが聞くと、しおんは少しだけ考えてから言った。
「全体、見てる」
「ふわっとしてるなあ」
ことねが苦笑する。
だが、しおんの場合、それが一番しっくりくる気もした。音でも空気でも、人の動きでも、この子はたぶん全体を静かに把握している。
そして最後に、視線が恒一といろはへ向いた。
「鳴瀬さんは?」
ことねが聞く。
「面白いところ見つける」
「観光案内みたいに言わないで?」
「大事だよ」
いろはは真面目だった。
「校舎って、綺麗なとこより、少し古びたとことか、使い込まれた場所のほうが面白いから」
それもまた、鳴瀬いろはらしい視点だった。
「で、黒峰くんは?」
ことねが最後に聞いてくる。
全員の目が、また集まる。
やめてくれ。
こういうときの視線の一点集中が一番しんどい。
数秒迷って、恒一は答えた。
「……荷物持つとか、人数確認するとか、そういう普通のことならやる」
「普通のこと」
凛が繰り返す。
「黒峰らしい」
「なんだその評価」
「変に前出ようとしないとこ」
それは褒められているのか、呆れられているのか微妙だった。
だが、そのやり取りのあいだも、テーブルの空気はずっと落ち着ききらない。誰も露骨に争っているわけではない。けれど、それぞれが自分の立ち位置を探り合っている感じがある。
夢咲ことねは明るさで場をつなぎながら、でも恒一の隣を取ろうとする。
火乃森朱莉は自然に仕切りつつ、恒一の近くにいることを当然みたいに扱う。
朝霧凛は冷静に全体を見ながら、余計な距離の詰め方には牽制を入れる。
雪代しおんは静かに見ているだけなのに、その静けさが一番目立つ瞬間がある。
小鳥遊ましろは控えめに見えて、恒一の日常へ入ることをためらわない。
鳴瀬いろはは、そもそも視点自体が少しずれていて、それが逆に不意打ちになる。
そして、その真ん中に、自分がいる。
否定したい。
否定したいのだが、否定しきれない。
しおんの言った「みんな、たぶん黒峰くん中心に動く」という一言が、嫌になるほど正確だった。
◇
昼休みが終わり、各自が席へ戻っていく流れの中で、恒一は一人だけ少し遅れてラウンジを出た。
窓の外には春の花壇が見える。風が吹くたび、柔らかな色の花が小さく揺れていた。校舎の白い壁に反射した光がまぶしくて、平和な昼の景色だけを見ていると、さっきまでの空気が嘘みたいだった。
だが嘘ではない。
あれが、今の自分の現実だ。
「先輩」
横から声がした。ましろだった。
気づくと、少しだけ後ろを歩いていたらしい。
「どうした」
「今日、ちょっと疲れてますよね」
「……そんなに分かるか?」
「分かります」
ましろは小さく笑う。
「でも、少しだけ嬉しそうでもあります」
「それは違う」
「ほんとですか?」
「……たぶん」
即答できない時点で、半分は図星かもしれなかった。
面倒だ。
ものすごく面倒だ。
でも、これだけ濃い人間関係に囲まれて、まったく何も感じないほど鈍くもない。
ましろはそんな恒一の顔を見上げて、やわらかく言う。
「先輩、金曜、忙しそうですね」
「それはもう決定してる」
「でも、みんな先輩のこと見てるから」
あまりにも素直な物言いだった。
「たぶん、楽しいですよ」
「楽しいかなあ……」
「少なくとも、退屈はしません」
それは確かにそうだろう。
退屈とは、もっとも縁遠い場所にいる。
教室の前まで戻ると、ましろは小さく会釈した。
「じゃあまた」
「ああ」
その背中を見送りながら、恒一は胸の奥で静かに認め始めていた。
もう遅いのだ。
普通の青春を守るには、たぶんもう遅すぎる。
まだ誰かが「好き」と言ったわけじゃない。
まだ関係に名前がついたわけでもない。
けれど、観察、独占、習慣、解釈、欠点、反応――それぞれ違う入り口から、自分の周囲へ向けられる視線は、もう十分すぎるほど濃くなっている。
星ヶ峰学園は今日も春の光に包まれて、外から見れば穏やかで綺麗だった。
だがその内側で、黒峰恒一の“普通”は、少しずつ、確実に逃げ場を失っていく。
金曜の班行動は、その決定打になるのかもしれない。
そんな予感だけが、静かに、しかしはっきりと形を持ち始めていた。




