第9話 変人美術少女は、欠点のほうを綺麗だと言う
小鳥遊ましろという存在が、黒峰恒一の日常の中へじわじわ入り込み始めた翌週、星ヶ峰学園の空気はまた一段階だけ“黒峰恒一中心”へ寄ってきていた。
本人としては、そんな中心に立つつもりは一切ない。
むしろ逆だ。
できることなら視界の端に収まりたい。
目立たず、騒がれず、ほどほどにクラスに馴染んで、ほどほどに放課後を過ごし、ほどほどに青春っぽいことができれば十分だった。
だが現実はそう簡単ではない。
夢咲ことねとは、もはや「話の合う相手」として教室内でも認識され始めている。雪代しおんは何も言わないくせに、いつのまにかこちらの状態を当然のように把握している。火乃森朱莉は幼馴染としての距離を隠さず、朝霧凛は認めた部分だけ妙にちゃんと見てくる。皇玲華は生徒会長の顔で観察を始め、小鳥遊ましろは習慣ごとこちらを覚えにきている。
恋愛ゲームの攻略対象一覧でも、ここまで属性を詰め込まないだろう。
そんなことを思いながら、恒一は昼休み明けの五時間目を終え、教科書を机の中へしまっていた。窓の外では春の風が少し強くなっていて、教室のカーテンがゆるく揺れている。
次は移動教室だった。
現代文の教師から「次回までに提出」と言われたプリントのことをぼんやり考えながら、恒一は鞄にノートを入れる。すると通路側からことねがひょこっと顔を出した。
「黒峰くん、次どこだっけ?」
「美術準備室の横の、多目的教室」
「うわ、遠いじゃん……」
「お前、教室移動だけで体力削られすぎだろ」
「文化系オタクは徒歩でHP減るの!」
ことねが大真面目に言い切ったそのとき、朝霧凛が前の席から振り返りもせずにぼそっと言った。
「ただの運動不足でしょ」
「朝霧さんは基準が陸上部なの!」
そんな軽口を聞き流しつつ、恒一は席を立った。
このくらいのやり取りなら、もう日常の一部になりつつある。いや、それがいいことなのか悪いことなのかは分からないが、少なくとも最初のころのような“何を言っても空気が揺れる”感じは、ことね相手には少し和らいできていた。
移動教室へ向かう廊下は、授業と授業のあいだ特有の慌ただしさに満ちていた。ノートを抱えた女子たちが友達と並んで歩き、遠くでは教師の声が響き、どこかの教室から机を引く音が重なる。窓の外はよく晴れていて、春の光が床に長く伸びていた。
階段を上がり、特別教室の並ぶ棟へ入る。その途中、教師に頼まれたらしいクラスメイトから「悪い、提出物これ職員室に持っていってくれない?」と声をかけられた。
「今?」
「今。俺、次の準備で行けなくて」
少し面倒だとは思ったが、断るほどでもない。恒一はプリントの束を受け取ってうなずいた。
「分かった。ついでに出しとく」
「助かる!」
頼まれごとを引き受けてしまうのは、たぶん昔からの性分だ。朱莉あたりに見つかったら「そういうとこ」と呆れられそうだが、今さら変えられるほど器用でもない。
職員室で書類を渡し、多目的教室へ向かう道を戻る。
その途中、美術室の前を通りかかったときだった。
半開きの扉の向こうから、ふいに声がした。
「ちょっと待って」
恒一は反射的に足を止める。
教室の中を覗くと、窓際のイーゼルの並ぶ空間で、一人の女子生徒がこちらを見ていた。
美術部員らしい。制服の上に薄いスモックを羽織り、袖口には絵の具の色が少しだけついている。長い髪を無造作に後ろでゆるくまとめていて、前髪が片方だけ目にかかっていた。整っているとか可愛いとか、そういう分かりやすい美少女感とは少し違う。もっと、空気のほうが先に変わるタイプの人だ。
目が印象的だった。
ぼんやりしているようで、こちらを見た瞬間だけ異様に焦点が合う。
まるで人ではなく、もっと別の“形”を見ているみたいな目。
「……俺?」
恒一がそう言うと、彼女はこくりとうなずいた。
「うん。今の顔、ちょっとよかった」
「今の顔?」
「止まったときの」
意味が分からない。
だが彼女は本気でそう言っているらしかった。絵筆を持ったまま、少しだけ首を傾げている。
「何か用ですか」
「うーん……用というか、確認したい」
「何を」
「近くで見ても、やっぱり少し左右ずれてるかどうか」
ますます分からない。
恒一が完全に困った顔になると、彼女は「あ、やっぱりそれ」と小さく呟いて、手招きした。
「ちょっとだけ。来て」
この学校、どうしてこうも見知らぬ女子に自然に呼ばれるイベントが多いのか。
そんなことを思いつつも、扉の前に立ち止まったままだと余計に目立つ。恒一はおそるおそる美術室へ一歩入った。
中は絵の具と木材と紙の匂いが混ざった、独特の空間だった。壁には制作途中の油彩やデッサンが並び、奥の流し台には洗われたばかりの筆が逆さに立ててある。窓から入る午後の光が白い石膏像の輪郭を浮かび上がらせ、静かなのにどこか落ち着かない。
女子生徒はイーゼルの横に立ったまま、じっと恒一を見る。
「やっぱり」
「何がやっぱりなんだよ」
「笑う直前の口元、少しだけ右が遅い」
そんなことを初対面で言われた人間の気持ちを考えてほしい。
「……それ、初めて言われたんだけど」
「そう?」
「普通は言わないからだろ」
すると彼女は少しだけ考えるように目を細めた。
「そっか。じゃあ、みんな見てないのかも」
「いや、見てたとしても口に出さないんだよ」
「もったいない」
即答だった。
彼女はすたすたと近づいてきて、恒一の真正面で立ち止まる。近い。近いのだが、ことねやましろのような“人との距離が近い”感じとは少し違う。被写体に近づく距離だ。こちらを男子として意識しているというより、観察対象として見ている気配が強い。
「名前」
「え?」
「あなたの」
「ああ……黒峰恒一」
「そう。じゃあ、黒峰くん」
彼女はそこで初めて少しだけ笑った。
「私は鳴瀬いろは」
名前まで芸術っぽい。
「美術部?」
「そう。というか、たぶんこの部屋にいる時点でそれはそう」
「まあ、そうか」
「で、黒峰くん」
いろはは一歩だけ引き、今度は少し斜めから恒一を見た。
「自分で、自分の顔好き?」
「急だな」
「大事だから」
大事なのか、それは。
恒一は言葉を選ぶ。
「別に好きでも嫌いでもないけど」
「ふうん」
いろはは顎に指を当てた。
「じゃあ、自分の欠点は?」
「欠点?」
「うん。顔でも性格でも、癖でも」
この学校のヒロインたちは、どうしてこうも初手から踏み込み方がおかしいのか。
だが、いろはの声にはからかいがなかった。純粋に知りたいだけ、という顔をしている。それがまた断りづらい。
「……優柔不断とか、考えすぎるとこ、とか」
「顔は」
「顔?」
「さっき言った口元とか、ほかにもある?」
そこを気にするのか。
普通、気にするなら“いいところ”のほうではないのか。
「いや、分からないけど……目つき悪く見えるときあるとか」
「へえ」
いろはは心底面白そうに言った。
「それ、すごくいい」
「何が?」
「そういう、自分でちょっと気にしてるズレ」
彼女は窓から差し込む光の中で、まっすぐ恒一を見ていた。
「綺麗に整ってる人って、つまらないの。左右対称で、隙がなくて、どこも予想通りだと、すぐ飽きる」
その言葉は、美術の話のようでもあり、人の話のようでもあった。
「でも黒峰くん、少しだけ崩れてる」
「崩れてるって言い方ひどくない?」
「褒めてる」
「全然そう聞こえないんだけど」
「ほんとに」
いろはは真面目な顔で言う。
「笑うとき右が遅れる。困ると眉の上がり方が左右で違う。あと、今も少しだけ目線が泳ぐ」
やめてほしい。
皇玲華とは別方向で、やはり観察が細かすぎる。
けれど、彼女が言っていることには嫌な圧がなかった。見たものをそのまま言葉にしているだけ、という感じだ。そこに好悪の単純な判断がない。普通なら欠点とされそうなところを、むしろ“魅力”として見ている。
恒一は少しだけ気圧されながらも聞いた。
「鳴瀬って、人のそういうの見るの好きなのか」
「好き」
迷いがない。
「完璧なものより、少しだけおかしいほうが綺麗だから」
「それ、美術の話?」
「半分」
いろははイーゼルの横へ戻り、途中まで描きかけのスケッチブックを持ち上げた。そこには人物の横顔が何枚も並んでいる。けれど、どれも“美人を綺麗に描く”感じではない。目の開き方が左右で違っていたり、髪の流れが不揃いだったり、口元が少し崩れていたりする。
「私、欠点が好き」
いろははページをめくりながら言う。
「綺麗じゃないところのほうが、その人っぽいから」
その一言で、恒一は少しだけ言葉に詰まった。
今まで「良いところを見つける」みたいな褒め方はされたことがある。真面目とか、話しやすいとか、優しいとか。けれど「欠点のほうがその人っぽい」と言われたことはなかった。
それは普通なら、あまり気分のいい言葉ではないはずだ。
なのに、鳴瀬いろはの口から出ると不思議と否定しづらい。
本当にそう思って見ているのが分かるからだろう。
「……なんか、変わってるな」
思わずそう言うと、いろはは少しだけ肩をすくめた。
「よく言われる」
「自覚あるのか」
「ある。でも、みんな綺麗すぎる方向に寄せすぎ」
そして、また恒一を見る。
「黒峰くんは寄せきれてない。そこがいい」
「寄せきれてないって、結構ひどいな」
「うん。でも本音」
本音すぎる。
そのとき、美術室の外から休み時間の終わりを告げる予鈴が聞こえた。
しまった。
完全に移動教室の途中だった。
「やば」
恒一が扉のほうへ振り返ると、いろはは「うん」とあっさりうなずいた。
「行ったほうがいい」
「引き止めたのお前だろ」
「そうだね」
悪びれない。
恒一は苦笑しながら扉へ向かう。だが、その背中にまた声が飛んだ。
「黒峰くん」
「ん?」
「今度、ちゃんと描きたい」
「……は?」
「今日のは観察だけだったから」
いろははスケッチブックを胸元で抱えた。
「笑いかける前の顔とか、困ってるときの眉とか、たぶん描いたら面白い」
「面白いって言われてもな……」
「だめ?」
首を傾げるその仕草は可愛い。
可愛いのだが、言っていることがやっぱり独特すぎる。
「……考えとく」
それが精一杯の返答だった。
いろははそこで満足したのか、小さく笑った。
「じゃあまた」
また、という前提が怖い。
◇
多目的教室に遅れて入ると、案の定、何人かの視線が集まった。
教師に軽く注意され、「すみません」と頭を下げて空いている席へ滑り込む。背中にじわじわと気まずさが残る。視線の中に、ことねと凛と朱莉が確実に含まれているのを感じながら、恒一はノートを開いた。
授業が始まってからもしばらく、鳴瀬いろはの言葉が頭の中を回っていた。
笑うとき右が遅れる。
困ると眉の上がり方が違う。
綺麗じゃないところのほうが、その人っぽい。
なんなんだあの子。
変だ。
かなり変だ。
けれど、ただの変人で片づけるには妙に芯がある。彼女の中には、たぶん彼女なりの美しさの基準があって、それが普通の人と違うだけなのだ。
それが自分に向いたら、だいぶ厄介な気がする。
授業が終わるころには、恒一は妙な疲れを覚えていた。放課後の風が少しだけ涼しくなってきている。机を片づけ、教室へ戻る流れの中でも、心のどこかで「あれをどう説明すればいいんだ」と考えてしまう。
そして案の定、説明を求める空気が待っていた。
教室へ戻った瞬間、夢咲ことねがすごい勢いで振り向く。
「どこ行ってたの!?」
「職員室に書類持ってって、その帰りにちょっと……」
「ちょっと何!?」
圧が強い。
朝霧凛も通路側から視線だけ寄越している。火乃森朱莉は腕を組んだまま静かだ。しおんは何も言わないが、明らかに聞いている。
「美術室で呼び止められた」
「美術室?」
ことねの声が一段上がる。
「誰に!?」
「鳴瀬いろはって人」
その名前を出した瞬間、凛が「あー」と低く言った。
「やっぱり」
「知ってるのか」
「有名だよ。変人美術部」
言い方はひどいが、否定できない気もする。
ことねがぱちぱち瞬きをした。
「鳴瀬さんって、あの“綺麗な子描くより崩れてる顔のほうが好き”って言ってる人?」
「……なんでそんな情報まで共有されてるんだ、この学校」
「女子高時代からの噂は回るの早いから」
凛がそっけなく言う。
朱莉はそこで初めて口を開いた。
「で、何されたの」
何されたの、という言い方が怖い。
「別に何もされてないって。ただ……観察されたというか」
「観察?」
ことねが繰り返す。
恒一は少しだけ迷ったが、変に濁すと余計に面倒な気がしたので、ある程度正直に言うことにした。
「口元が左右ずれてるとか、困ると眉の動きが違うとか、そういうの見られて。欠点のほうが綺麗だって言われた」
一瞬、教室の空気が止まった。
「は?」
最初に反応したのは凛だった。
「何それ、褒めてるの?」
「俺も分からん」
「うわぁ……鳴瀬さんだ……」
ことねが頭を抱える。
朱莉の表情は静かなままだったが、その静かさが逆に怖い。
「ずいぶん変なのに見つかったね」
「いや、俺が見つかったみたいに言うなよ」
「違うの?」
返されて、言葉に詰まる。
たしかに、あれは“見つけられた”感じだった。人混みの中から偶然見つかったというより、“その顔を拾われた”感じ。
そこで、しおんがぽつりと言った。
「鳴瀬さん、欠点を覚えるタイプだから」
またしても静かな一言だ。
「覚える?」
恒一が聞くと、しおんは小さくうなずく。
「綺麗なところはみんな似てるから、って前に言ってた」
なるほど。
やはり一貫している。
厄介なくらいに。
ことねは両手で頬を押さえた。
「やばいよ黒峰くん。この学校、“見てくる人”多すぎない?」
「それは俺も思ってる」
「音で見る人、習慣で見る人、反応で見る人、痕跡で見る人、欠点で見る人って、もう視点のテーマパークじゃん」
ことねの例えが妙に的確だった。
たしかにそうだ。
誰もが同じように“好意”を向けているわけではない。
それぞれ違う角度から、違う入り口でこちらを見ている。
だから余計に厄介なのだ。
凛がぼそっと言った。
「でも、鳴瀬に引っかかったのは分かるかも」
「なんで」
「黒峰って、ちょっと崩れてるとこあるし」
「お前まで言うのか!?」
「事実でしょ」
凛は真顔だった。
「完璧に器用じゃないし、でも変に隠さないし。そういうの、あいつ好きそう」
それはたぶん褒めているのだろう。
だがやっぱり複雑だ。
朱莉はそれを聞いて、小さく息を吐いた。
「ほんと、次から次へと……」
その呟きには、呆れと警戒と、少しだけ苛立ちが混じっていた。
恒一はそこでようやく、鳴瀬いろはという存在が“ただ一回会っただけの変な美術部員”では終わらないことをうっすら悟る。
あの子はきっと、次も普通に近づいてくる。
しかも“可愛いから”でも“男子だから”でもなく、“欠点が面白いから”という理由で。
それが一番対処に困る。
窓の外では夕方の光が少しずつ傾き始めていた。
教室の中には、いつものざわめきと、いつもの視線と、いつのまにか増え続ける“面倒な縁”がある。
普通の青春は、今日もまた少しだけ遠ざかった。
そして黒峰恒一は、自分の“普通じゃない普通さ”が、どうやらまた一人分、誰かの心に引っかかったらしいことを、認めざるを得なかった。




