プロローグ 普通の青春は、入学初日にだいたい死んだ
その日、俺はまだ知らなかった。
高校生活というものは、もっとこう、穏やかに始まるものだと思っていた。
桜が舞って、校門の前で新入生が少し緊張した顔をしていて。
教室に入れば、隣の席のやつとぎこちなく挨拶して。
昼にはそれなりに気の合いそうなやつを見つけて、放課後には「この学校、案外悪くないかもな」なんて思う。
そんな、どこにでもある平和な始まりを、俺はちゃんと期待していたのだ。
だってそうだろう。
高校生活は三年間しかない。
一生に一度しかない青春というやつを、わざわざ波乱万丈にする必要なんてない。
俺、黒峰恒一は、できることなら静かに、普通に、目立たずに過ごしたかった。
なのに。
「見て、男子」
「ほんとだ……まだちょっと慣れない」
「思ったより普通」
「逆に緊張するんだけど」
「ねえ、どのクラス?」
「え、あの子じゃない? 一年A組って噂の」
校門をくぐって三十秒。
俺はすでに、動物園に放り込まれた珍獣みたいな視線に囲まれていた。
おかしい。
いや、理由は分かっている。
今年からこの私立星ヶ峰学園は、長い女子高の歴史を終えて共学になった。
ただし“共学になった”と言っても、実態はまだほとんど女子高のままだ。
校舎の空気も、文化も、距離感も、流れている会話も。
男子がそこにいることだけが、むしろ異物みたいだった。
男子生徒は少ない。
少ないどころじゃない。
学年全体で見ても希少種。絶滅危惧種。保護対象。観察対象。
そして俺は、その希少種のうちの一匹として、入学初日から盛大に注目を浴びていた。
……勘弁してくれ。
下駄箱で上履きに履き替えるだけで視線。
廊下を歩くだけで視線。
階段を上るだけで視線。
息をしてるだけで視線。
なんなんだこの学校。
俺はただの男子高校生であって、展示物じゃない。
「やっぱり、歩き方ちょっと違う」
不意に、すぐ近くでそんな声がした。
振り向くと、そこにひとりの女子生徒が立っていた。
長い黒髪。白い肌。制服の着こなしはきっちりしていて、胸元のリボンひとつ乱れていない。
整いすぎているくらい整った顔立ちの、静かな美少女だった。
たぶん同級生。
けれど記憶にない。
というか、こんな目を引く女子がいたら普通は忘れない。
彼女は俺を見ていた。
いや、正確には、俺の顔だけを見ているわけじゃなかった。
もっと別のものを観察しているような、そんな目だった。
「えっと……何か?」
俺がそう聞くと、彼女は少しだけ目を細めた。
「黒峰くん、だよね」
「そうだけど」
「うん。やっぱり」
なにが“やっぱり”なのか分からない。
なのに、彼女は納得したように小さくうなずいた。
「足音、思ってた通りだったから」
……は?
「足音?」
「うん」
彼女はごく普通の会話みたいに言った。
「もっと軽い音かと思ってた。でも違った。少し慎重で、ちゃんと周りを気にして歩く音」
俺は一瞬、言葉を失った。
朝の校舎のざわめきが、遠くなる。
この子、何を言ってるんだ?
たぶん顔に出ていたんだろう。
彼女はふっと微笑んだ。
綺麗な笑い方だった。けれど、なぜか背筋に薄く冷たいものが走る。
「ごめんね。変なこと言った」
「いや……うん、まあ……」
「でも、当たってた」
そう言って彼女は名札に視線を落とし、自分の胸元を指先で軽く押さえた。
「雪代しおん。同じクラス」
「あ、どうも……黒峰恒一」
「知ってる」
即答だった。
知ってる、って。
同じクラスならそりゃ知っていてもおかしくない。
まだホームルーム前だとしても、名簿でも見たのかもしれない。
たぶん、そういうことだ。
そう自分に言い聞かせないと、なぜか少し落ち着かなかった。
「じゃあ、またあとで」
雪代しおんはそれだけ言って、音もなく人の波に紛れていった。
残された俺は、しばらくその場から動けなかった。
いやいや。
落ち着け。
今のはただの、ちょっと変わったクラスメイトとの遭遇だ。
女子高上がりの学校なんだ。少し感覚が独特でも不思議じゃない。
そういうことにしておこう。うん。
そうやって無理やり自分を納得させながら、一年A組の教室に入った、その三秒後。
「……へえ」
窓際の席に座っていた女子が、露骨に俺を見て言った。
ショートカット。鋭い目つき。姿勢がいい。
スポーツやってます、という空気が全身から出ている。
見るからに気が強そうな美少女だった。
「男子って、ほんとに教室入るとき一瞬止まるんだ」
「え?」
「いや、別に。なんか思ってた通りだなって」
なんだこの学校。
思ってた通りってなんだ。
入室の仕方に男子らしさ判定でもあるのか。
周囲からくすくす笑いが漏れる。
俺が返答に困っていると、彼女はつまらなそうに頬杖をついた。
「で、あんたが黒峰?」
「……そうだけど」
「ふーん」
興味ありげなのか、なさげなのか分からない返事。
だが視線だけは妙にまっすぐ俺を射抜いてくる。
「朝霧凛。よろしく、って言っとく。別に仲良くしたいわけじゃないけど」
最後の一言、いるか?
いや、まあ、これが彼女なりの距離感なんだろう。たぶん。
俺が曖昧に「どうも」と返したところで、教室の後ろの扉が勢いよく開いた。
「ちょっ、待って、間に合っ……た!」
息を切らせて飛び込んできたのは、小柄で明るい雰囲気の女子だった。
肩にかけたバッグにはアニメキャラらしきキーホルダーがいくつもぶら下がっている。
教室を見回した彼女の目が、俺のところでぴたりと止まった。
「あ」
そして次の瞬間。
「えっ、男子いる!!」
教室が静まり返った。
いるよ。
そりゃいるだろ。
共学なんだから。
だが彼女は本気で驚いているらしく、口元を押さえたまま固まっていた。
「ち、違っ、ごめん、いや、知ってた、知ってたけど実物の衝撃が思ったより……!」
「実物の衝撃ってなんだよ……」
思わず突っ込むと、彼女はさらに目を見開いた。
「しゃべった!」
「人間だからな!?」
教室のあちこちから笑いがこぼれた。
俺まで少しだけ気が抜ける。
彼女は真っ赤になって頭を下げた。
「ごめんなさいごめんなさい! 私、夢咲ことね! いやほんと違うの、男子に慣れてないだけで、別に変な意味じゃなくて!」
「変な意味にしか聞こえないって」
「だよね!?」
また笑いが広がる。
少しだけ、教室の空気がやわらいだ。
……よかった。
こういうのなら、まだ普通だ。
ちょっと変なクラスメイトはいても、なんとかやっていけるかもしれない。
そう、思った矢先だった。
廊下側の扉の前で、ぴたりと空気が止まる。
ざわめきが引いた。
自然と視線がそちらへ向く。
そこにいたのは、ひとりの女子生徒だった。
長い髪。
整った顔。
けれど、目だけが笑っていない。
まるで教室の中の何かを確認しに来たみたいに、まっすぐこちらを見ている。
そして、その視線は俺を捉えた瞬間、わずかに揺れた。
「……いた」
その声を聞いた瞬間、俺の背中にぞくりとしたものが走る。
知っている。
この声を、俺は知っている。
彼女はゆっくり教室へ入ってきた。
一歩ずつ、ためらいなく。
俺の席の前まで来ると、そこで立ち止まり、静かに言う。
「久しぶり、恒一」
教室がざわつく。
俺は乾いた唇を開いた。
「……朱莉?」
火乃森朱莉。
小学生のころ、家が近くて、いつも一緒にいた幼馴染。
引っ越して以来、ずっと会っていなかった相手。
面影はある。
けれど、俺の記憶の中の朱莉はもっと明るく笑う子だった。
目の前の彼女は綺麗になっていた。けれどそのぶん、どこか張りつめていて、危うい。
「会いたかった」
その一言が、妙に重かった。
「え、いや、俺も久しぶりだけど――」
「ほんとに?」
かぶせるように聞かれて、言葉が止まる。
朱莉は微笑んだ。
でも、それは懐かしい再会の笑顔じゃなかった。
「じゃあ、なんで気づかなかったの」
「それは、だって何年も会ってなかったし……」
「そっか」
彼女はうなずいた。
納得したようにも見えたし、全然していないようにも見えた。
そして、俺の机にそっと指を置く。
「まあいいや。これからは、ちゃんと近くで見てるから」
その瞬間、なぜか教室の温度が少し下がった気がした。
窓際では朝霧凛が眉をひそめている。
前の方では雪代しおんが静かにこちらを見ている。
夢咲ことねは「え、なに、どういう関係?」という顔を隠しきれていない。
俺はまだ知らない。
この教室にいる誰もが少しずつおかしくて、
少しずつ本気で、
少しずつ、俺の“普通”を壊しにくることを。
今年から共学になった元女子高。
男子は少なく、恋愛の常識はまだ導入途中。
そして俺の高校生活は、入学初日にしてすでに手遅れだった。
――普通の青春は、たぶんもう戻ってこない。




