常識と非常識
セシルは枝をかき分け、息を切らしながら、森の中を駆け抜けた。
まもなく息が続かなくなり、その場に崩れるように座り込む。
そして近くを流れる小川まで這っていき、手のひらで水をすくう。
渇ききった喉に、強引に水を流し込む。
終いには、小川に顔を突っ込み、溺れるように水を飲む。
「――はぁ、はぁ……。」
ひとしきり水を飲んだあと、顔をあげ、水面に映った自分を見る。
――酷い顔だ。とても誰かに見せられる状態ではない。
そんな中、自らの状況を顧みる。
――あれはなんだったのでしょう。
昨夜の自分は、おそらくあの妖精に誘われて崖から滑落したのだろう。
そしてその下にいたのが、おそらくはあの魔物。
セシルが目を覚ました時には、特に動いている様子はなかったが、おそらくはトレントだったのだろう。
そのあと訳もわからず逃げ出してしまった。
セシルは立ち上がり、小川に沿って歩き出す。
しばらく歩くと、開けた場所にでた。既視感がある。
――昨夜、セシルがいた野営地だった。
セシルは小走りに駆け寄り、自分の荷物を確認した。
幸い荒らされた様子もなく、昨夜のままの状態で残っていた。
微かにだが、鳥の鳴き声や小動物の気配も感じ取れた。
セシルはほっと胸を撫で下ろし、座り込む。
膝に顔を埋めて、しばし気持ちを落ち着ける。
――あのひとは、何を思ったのでしょうか。
先ほどセシルの腕を掴んでいた黒髪の青年を思い出す。
セシルは掴まれていた左腕をみる。
青年の手の形のまま、痣になっている。
青年もトレントに襲われて、意識のないセシルに助けを求めたのか、それともセシルを助けるためにあの場にいたのか。
(やっぱり、私を助けるために……。)
セシルはもう一度左腕を見る。
そもそも、あの青年にはあれだけ根が絡みついていたのに、セシルには一本も巻きついていなかった。
おそらく青年が捕まる前に、トレントから引き抜いてくれたのだろう。
そして腕を掴むことによって、セシルの魔力が枯渇しないように、自らの魔力を流し続けていたのかもしれない。
でなければセシルはもっと衰弱していたはずだ。
(――やっぱり、このままにはできません)
セシルは立ち上がり、荷物を漁る。
油と松明、そしてロープを取り出し、短剣を腰に履き、歩き出す。
昨夜辿った道をしばらく進むと、崖が見えた。
平時のセシルであれば、こんな場所から足を踏み外すことなどまずない。
やはり、昨夜の自分は普通ではなかったようだ。
あの妖精についても気になるが、今はそれより青年のところに戻らなくては。
自分を救ってくれたかもしれない人間を、あのまま放置などできない。
崖上から下を確認し、近くの木にロープを結び、崖下まで垂らし、静かに降りていく。
するりと地面に降り立ったところで、セシルは小さく呪文を詠唱し、松明に火をつける。
物陰から頭だけを出して、先ほどまで自分がいた場所を確認する。
(――あれは、本当にトレントなんでしょうか?)
セシルもトレントの存在は知っている。図鑑で見たこともあるし、実際に遭遇したこともある。
だがその記憶のどれとも、目の前の"それ"は一致しなかった。
(――大きい、ですね)
ざっと目で測っただけでも、10メートルはありそうだ。
今降りてきた崖と同じくらいはあるかもしれない。
そして、その青々と茂る枝や葉は、わずかに発光している。
少々薄暗いとはいえ、陽が昇った今でもそれが確認できる。
セシルは近く落ちている小石を拾い、トレントのすぐそばに向かって軽く放る。
流ゆらかな放物線を描き、トレントの近くに落ちて転がっていく。
コツンと地表に飛び出した根のひとつにぶつかり止まる。
トレントの反応はない。
セシルは松明をかざしながら、ゆっくりと近づき、死体のすぐそばまでやってきた。
先ほどはあまりよく見ていなかったが、黒髪の男性で、種族は…よくわからない。だが腕にはめられたそれは、冒険者の認識表。
装飾や、はめ込まれた宝石から、明らかにセシルよりも高位の冒険者であることがわかる。
(――私のせいで、こんな……、)
涙で視界が滲む。
悔しさか、情けなさか、申し訳なさか。
セシルは近くに松明を立てて、袖で涙を拭い、青年の腕を引っ張る。
全身を絡め取られた青年の身体は、容易には引き抜けない。
細い根から順に引っ張ってその拘束を緩めていく。
そしてある程度隙間ができたところで、再度腕を掴み、引っ張る。
――その時、掴んだ腕が一瞬ぴくりと動いた気がした。
セシルは硬直する。
そしてすぐさま警戒する。トレントがまた動き出したのかもしれない。
獲物を獲られそうになっているのだ、トレントとしても看過し難いだろう。
そして、それ以上の動きがないのを確認して、青年の体を一気に引き抜こうと力を込める。
「――おい」
不意に声をかけられる。セシルはびくりと体を震わせ、反射的に後ろを振り向く。
――だがそこには誰もおらず、風が通り抜ける音だけが響く。
そして、掴んでいた青年の腕が、セシルの腕を掴み返してきた。
驚いて視線を前方に移すと、うつ伏せのまま、首だけを起こした状態の青年と目が合った。
「――おい、何をしている」
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
セシルは掴まれた腕を振り払い、転がるように後ろへ下がる。
すかさず短剣を引き抜き、這いずる青年に向ける。
「――静かにしろ。あれを刺激するな」
まるで今起きたとは思えないほど落ち着いた声だった。
だが、気だるげな様子でかけられる言葉も、セシルの耳には届いていない。
トレントに魔力を吸われて、脈もなく、冷たくなっていた体。あの状態で、生きているわけがない。
――Living Dead
昔読んだ本に、そういった魔物の記述があったことを思い出す。
いわゆる、ゾンビだ。
「……はぁ。」
青年は小さくため息を吐く。
震えて奥歯をガチガチと鳴らすセシルを無視して、立ち上がる。
そしてトレントに向き直り、その様子を観察している。
周囲を歩き回り、木の幹に手を触れて何かを確かめている。
「――…な…………くか?」
ぶつぶつと呟く青年の声はセシルには届かない。
青年は何かを探すようにゆっくりと空をふり仰ぐ。
そして上から、七色の光がゆったりと青年の元へ降りてくる。
そして青年の周りを、くるくると嬉しそうに回るとトレントのそばに来て、淡く明滅する。
(――これは、一体……)
セシルは青年に完全に無視されたまま、ちょっぴりほんわかとした、妙に緩い不思議な空気の中、ぽつんと取り残されていた。
◇
「――静かにしろ、あれを刺激するな」
目の前で騒ぐ少女に、ヴェルはぴしゃりと言い放つ。
そして、拘束の緩んだ根っこから、ぶちぶちと細い根を引きちぎりながら強引に這い出る。
少女は怯えながらこちらに剣を向けて固まっている。
――知ったことではない。
生きているならそれでいい。
その後、彼女が何をしようと、どうでもよかった。
ヴェルはトレントの周囲を観察して、魔力の流れを辿る。
「澱みは、消えているな。――これで満足か?」
ヴェルは、近くにいるであろうあの妖精に向けて、話しかける。
すると上から降りてきた妖精は、ヴェルにまとわりつき、やがて離れていった。
――満足したのだろう。それよりも、最初に発見した時よりも、トレントがさらに大きくなっている。
死にかけだったはずだが、今は枝葉は青々と茂り、花まで咲いている。
そして花から溢れ出る魔力は視認できるほどで、光り輝いているようにも見える。
(――魔物の成長を助長してしまったか?)
ヴェルはそれ以上は考えず、あとは知ったことではないと、その場を去ろうとする。
だがその行手を、一本のトレントの枝が遮る。
「――まだ、何かあるのか?」
目覚めた時点で日は高く昇っている。だいぶ長く寝ていたようだ。そのためすぐにでも本来の依頼に戻るべきなのだが、
ヴェルを遮る枝の先に、小さな蕾をつけている。
そしてその蕾は、みるみるうちに花が咲き、最後に赤い果実となった。
ヴェルがその果実を手に取ると、実はひとりでにヴェルの手の中に収まった。
行手を遮る枝もなくなり、振り返れば、トレントがさらさらと音を立てながら静かに揺れていた。
ヴェルは再び歩き出す。
――あとの問題は助け出したあの少女をどうするか、だ。
◇
――青白く不健康な顔色の男が、ゆらゆらと陽炎のごとくセシルに近づいてくる。
「――来ないでください!」
セシルは震える指先に力を込め、定まらない剣先をなおも青年に向ける。
セシルの言葉に青年はぴたりとその場で動きを止める。
そしてお互い睨み合ったまま、たっぷり1分以上もその場で動きを止めていた。
剣を持つ手もだんだんと痺れてきた。
――どうしたらいい。
先ほど驚いて尻餅をついた時から、正直に言って腰が抜けている。
足に力が入らず、立ち上がることすらできない。
目の前には、動き出した死人。
一度死んで再び立ち上がる。
それはおそらくはパラサイト《寄生生物》の類、もうすでに元の人格はなく、怪物となっているに違いない。
――などとセシルが絶望の淵に立たされているとは知らぬまま、目の前の青年は、ため息を交えた声で一言告げる。
「――まだか?」
急に青年からかけられた声に、セシルは警戒を強める。
「――なにが、です…か?」
セシルは震える声でかろうじて会話を試みる。
「――俺はその先に用がある。来るなというなら、どいてくれ」
セシルの後ろの方を指差しながら青年が告げる。
セシルは青年から目を離さない。
青年の言葉は無機質だが、どこか苛立ちのようなものを感じられ、セシルの頬に冷たい汗が伝う。
――それに動けるものならとっくに逃げ出している。
それができなくてこんな状況になっているのだ。
「――できない、と言ったら?」
精一杯の強がりをセシルは口にする。
「――なら、こちらから行く」
青年の言葉にセシルは覚悟を決め、短剣を両手で握り直す。
青年の足音が響く。
セシルは思わず目を瞑って己の最後を悟る。
――だがいつまで経っても、その時は訪れない。
それどころか、青年の足音は離れていく。
恐る恐る目を開けると、青年はあさっての方向へ歩き出していた。
「――へっ?」
思わず間の抜けたこえが漏れたセシルだったが、青年は振り返りもしない。
そのうち、茂みの中へガサガサと入っていき、周囲の草や蔓に鬱陶しそうにナイフを振るう。
「――ちょ、ちょっと待ってください!」
状況を脱したにもかかわらず、セシルは思わず声をかけてしまった。
「――何だ?」
青年は首だけで振り返り、変わらず無機質な声で返答する。
セシルは自分で声をかけたにもかかわらず、何を言えばいいのかわからない。咄嗟に出た言葉は、
「――ど、どこへ行くんですか?」
引き止めてしまった。
青年は再びセシルの後ろの方を指差し、告げる。
「――あちらだ、お前が来るなと言うなら、こちらから回っていくしかあるまい」
――青年の言葉を、セシルの頭は理解を拒んでいる。
だが、冷静に判断すれば、青年はこちらの言葉に従っていただけ?
来るなというから立ち止まり、どかないと言ったから、回り道をすると言っている。
頭の中を寄生された化け物が?
そんなわけない、だが会話は成立していた。
ぐるぐると思考がから回るなか、青年はなおも茂みをかき分けて進もうとする。
「――ですから、ちょっと待ってくださいよ!」
思わず叫んでいた。
青年は、渋々と言った様子で、茂みをかき分けて戻ってくる。
そして先ほどと同じ場所で立ち止まる。
「――何だ?用があるなら言え」
呼び止めておきながら、何も言わないセシルに、青年から急かすように促される。
聞きたいことは山ほどある。
だが何から聞いたらいいのかわからない、その中で絞り出した言葉が、
「――あなたは、何なんですか?」
抽象的な質問になってしまった。これでは青年も答えづらいかもしれない。
「それが用か?――俺は、ヴェル。何でも屋のヴェルだ。」
唐突に始まる自己紹介。
いや、セシルの方から訪ねたのだから、唐突ではないが、聞きたかったのはそういうことではない。
「――いえ、そうではなくて、あなたは、先ほど死んでいたはずです。どうして動けるんですか?」
セシルの問いかけに、青年は少し考えてから短く告げる。
「知らん」
「――え、し、知らんって、……人間は普通死んだら生き返ったりしません!」
「――だろうな」
青年は、何の感情もなくただ事実のみを告げる。
「――普通の人間は死んだら生き返らない。……ならば普通の人間ではないのだろう、そもそも人間かどうかすら、俺にもわからん」
セシルは、青年の言葉を何とか飲み込んで、続ける。
「――でしたら、あなたは以前にも今みたいに死んだことがあるんですか?」
「――ああ、よくある」
理解を拒み続けるセシルの頭は、許容の範囲を超えて、恐怖の感情の振子がくるりと一周まわった気がした。
「――もういいか?俺は依頼がある。時間もない」
だからだろうか、得体の知れない"何か"にこんなことを頼むなんて。
「――あ、あの、私も……連れて行ってくれませんか?」
青年は少しだけ考えて、短く一言。
「構わない」
青年は背を向けて歩き出す。
だが今度は、振り返りセシルに問う。
「どうした?早く来い」
青年の言葉に、セシルは羞恥に顔を赤らめて、ぽそぽそと言葉を紡ぐ。
「――あ、あの、実は腰が抜けて、歩けなくて……」
――青年は今日一番のため息をこぼした。
そして何の躊躇もなく少女を担いで、足取り重く歩き出した。




