誰にも迷惑をかけない協定
朝。
俺は鍋に湯を張っていた。
最近、派閥が増えた。
鍋派。
立ってるだけ派。
無職尊重派。
どれも騒がない。
どれも主張しない。
どれも帰り際が早い。
「……嵐の前触れじゃないよな、これ」
もやし二号は、いつも通り俺の横に立っている。
白い。
無表情。
待機。
《状況:安定》
「その“安定”が一番信用ならねえんだよ」
⸻
昼前。
俺が鍋をかき混ぜていると、広場の端がやけに静かだった。
気配はある。
声はない。
「……なんだ?」
そっと覗く。
いた。
鍋派、立ってるだけ派、無職尊重派。
全員、距離を保って円になっている。
揉めてない。
むしろ、やけに礼儀正しい。
「……何してる?」
俺が声をかけると、全員が一瞬だけ固まり、すぐに頭を下げた。
「お邪魔していません」
「音、出してません」
「期待、してません」
「そこじゃない」
⸻
鍋派の代表が、申し訳なさそうに言った。
「実は……話し合いをしておりまして……」
「話し合うな」
立ってるだけ派の老人が続ける。
「争わないための話し合いです」
「それなら……まあ……」
無職尊重派の若者が真剣な顔で言う。
「派閥が増えると、必ず揉めます」
「経験者か?」
「はい……だいたいそうなります」
全員、深く頷いた。
「……で?」
⸻
鍋派が、紙を一枚差し出してきた。
「“誰にも迷惑をかけない協定”です」
「嫌な予感しかしない」
俺は読む。
一、鍋派は鍋を見るが、感想を言わない
二、立ってるだけ派は立ってる方を見るが、意味を語らない
三、無職尊重派は無職を尊重するが、称賛しない
四、互いに正解を決めない
五、他派を勧誘しない
六、帰る時間を守る
「……思ったよりまともだな」
もやし二号が札を出す。
《評価:高水準》
「お前が評価するな」
⸻
俺は聞いた。
「なんでそこまで気を遣うんだよ」
鍋派の代表が、少し困ったように笑う。
「派閥って、気づいたら誰かの居場所を奪うので……」
立ってるだけ派の老人が頷く。
「立ってる方が立てなくなったら、本末転倒です」
無職尊重派が真顔で言う。
「無職が無職でいられなくなったら、失敗です」
「……変なところだけ理解が深いな」
⸻
その場に、変な沈黙が落ちた。
揉めてない。
騒いでない。
誰も正義を主張していない。
俺は思った。
(これ……下手な会議よりよっぽど平和じゃね?)
「……二号」
「……?」
「これ、放っといていいと思う?」
二号は少し考えて、札。
《結論:干渉すると崩れる》
「だよな」
⸻
俺は協定書を返した。
「分かった。
俺は何もしない」
全員が、ほっと息を吐く。
「ありがとうございます」
「期待していません」
「助かります」
「感謝の仕方が特殊すぎる」
⸻
夕方。
派閥は、それぞれ静かに解散した。
誰も残らない。
何も主張しない。
ただ、誰にも迷惑をかけなかったという事実だけが残る。
「……なあ二号」
「……?」
「信仰とか派閥ってさ」
俺は空を見上げて言った。
「こんくらいでいいんじゃねえの?」
二号が頷く。
《同意》
⸻
夜。
鍋を片付ける。
火を落とす。
世界は今日も壊れなかった。
それどころか――
少しだけ、大人になった気がした。
「……明日も、静かだといいな」
二号が札を出す。
《希望:継続》
世界は今日も、
誰にも命じられていないのに、
勝手に一番面倒な平和を選び続けていた。
それが、いちばん不思議なことだった。




