第1話 理不尽(マルラツィエ)
彼には分かっていた。
娘は眼病などではない。
暗がりに連れ込まれた二人は、薄暗がりに微かに光る短い刃を見た。
彼はその刃の持ち主が自分を生きてこの暗がりから出すつもりはないことを悟った。
そうなったら、娘は。
こんな仕打ちをする連中の目には覚えがあった。
彼の故郷でも残念ながら、家族が・・親戚が・・友がたくさんひどい目に遭ってきた。
人々の生活が荒れている現実なのだ。
そして、貧富の差が開き始めている。
だからこそ、この地に来たのだ。全てを賭けて、全てを捨てて。
混雑した入管の検疫所に足を踏み入れた時、娘を見る奴らの目が細くなったことには気づいていた。
嫌な寒気が足元から背中を駆けあがった。
「この娘、眼病にかかっているじゃないか。」
検査役の役人は、舐るように娘の顔を覗き込んだ。
無精ひげの汚い口元がだらしなく緩んだことで確信した。
「なぜ?病気じゃない。大丈夫だ。通してくれ。」
「いや、ダメだ。ここは通せない。キサマは誰だ。」
「私はこの娘の父親だ。この子のどこが眼病なんだ。」
検査役は帳簿をパタリと閉じると
「あぁん。奥でよぉく検査する必要があるんですよぉ。おとうさぁん。」
「断る。」ここで娘と離れたら、多分二度と会えない。会えたとしても・・・。
検査役の後ろで椅子に腰かけていた上役の男があごで入口を指し示した途端、父
娘は床に転げていた。
瞬間彼は、息子を探した。
喧騒の先で、しっかりと目が合った。
怒号の中、二人の間に不思議な静寂が敷かれた。
母さんと妹を頼む。姉ちゃんは俺が連れていく。
お前になら・・お前ならきっと・・・
愛しい妻と娘を・・・俺の誇りのお前なら・・・
明るいところに・・・
彼には分かっている。
連れ込まれた薄暗がりに微かに光るものの意味を。
大丈夫だ。
刃は俺にしか向かわない。
そう思った瞬きの瞬間だった。
二人の男の体が重く痛い音を鳴らす。
蠢くもみ合う声。響く娘の叫び声。
彼は思う。
理不尽ばかりだってことを。
それでも、それでも、もう止められないんだ。
そして
血だまりの湯気の中で彼は・・・
無精ひげの口元が苦悶に歪んでいるのを見つめていた。
組み合って痺れた両手が紅い海の中で小刻みに踊る。
明日は我が身。
この男だって家族がいるのかもしれない。
だけど、俺だって人生賭けてきたんだ。
残酷な・・・残酷な理不尽の横にしかないものもあるんだ。
だから・・・だからここにいるんだっ。
言い訳が口を出てクルクルと回る。
その時・・・鉄を引きずるような重い音がした。
親子は、体が硬直するのを感じた。
薄暗がりの路地、さらに奥の暗がりから・・・
「こっちへ来るかい?」
しわがれた老婆の声。
娘は血まみれの父の肩を抱き、その声の持ち主を探す。
「悪党とはいえ、人を殺めたんだ。表の道は歩きづらいだろぅ。」
声はどうやら、暗がりの半開きの鉄の扉の奥から聞こえるようだ。
「お父さん」
娘の声とともに、二人はその扉へ歩きはじめた。
扉に近づくにつれ、その内側に人が立っているのが分かる。
誰も近寄らないであろう、暗い、路地裏の奥にある大きな鉄の扉。
その手前に天窓でもあるのか、そこだけ明るい場所があった。
二人はふと立ち止まり、その光りの先を目で追った。
「引き返すのかい?それが、あんたらの見られる最後の光りだよ。」
彼は扉の中に目を凝らした。何も見えない闇。いや、星が瞬く夜空のような。
時が止まっているような、おかしな感覚。
「暗い中にしかない優しさとやすらぎというものもあるさ。」
「どうして私達を・・・?」
娘の問いに扉の内からしわがれ声が応える。
「ずっと・・・お前は私の面倒をみてくれていただろう。さぁ早くおし。」
男は胸を押さえた。
脈が軽い・・・軽い。だが遅い。
だんだんと遅くなる。やがて・・・止まった。
心の中でギリギリと音が軋む・・・もうこらえきれない。
拮抗した何かがバランスを崩す瞬間が近い。
違う世界が見られる予感がする。
彼は呟いた。
「こっち・・・なんだな。」
娘が彼の手を引いた。
彼は自分の脈がかつてないほど、軽やかに弾ける音を聞いた。
娘の手を引き寄せた。
親娘は肩を寄せ合い、深い夜空に消えていく。
これで良かったのだろうか?
誰にも分かろうはずもない。
この後分かれた家族が会うことはなかった。
しかし、息子とその子達はなぜか手を汚すことはせずに済んだ。




