第4話 死神(モルタァンジェ)Mortanĝelo
しとしとと降る雨。
彼女の心は疲れていたのかもしれない。
かつてななら、何気に、いや楽しくさえ聞こえていたかもしれない小雨の音。
だけど、今彼女の耳はその中に異なる音を聴いている。
体の弱りは心を曇らせる。
できていたことができなくなる。それだけで魂は冬に近づくのだろうか。
孤独が魂を弱らせ、恐怖が妄想を見せる。
幻聴を連れて来る。
負の螺旋。
彼女がもし独りでなかったのなら・・・違っていたのだろうか?
玄関の扉、いや窓も、扉という扉を開けてはいけない。
・・・そう彼女は固く信じていた。
彼女はずっとそうしてきたように彼女の描く世界へ避難しようとする。
想像の世界で心に灯をともし、己の存在意義を確かめる。
誰に認められなくともいいのだ。
自分が自分を認め、己の芯を見つける世界。
それが想像力の真たる力。真なる翼。
今、それだけが彼女の心と命を支えている。
彼女は、老いのために想像力の溶けかけた妄想の中で踊っているのかもしれない。
哀れではある。
ただ、想像と妄想。区切りはどこにあるのだろうか。
人は少なかれ、この溶け合った中で遊ぶ。いや生きている。
意識など科学的に証明できない深淵の淵。
いや、宇宙からするとちっぽけな水たまりかもしれぬ。
人生などその水面を波だたせて遊ぶひと時の夢。
ただただ彼女はその水たまりに英雄を求めていた。
ー玄関のチャイムが鳴ったー
彼女の心が凍りつく。
老いた鼓動がまだ波打つのを久しぶりに感じる。
ダメよ・・・
彼女は彼女の世界で固く信じている。
あれは、死神なの・・・
ドアを・・・扉を開けたらおしまいだわ・・・
そう、固く目を閉じる。
「母さん・・・いるんでしょ?俺だよ。開けてくれ。母さんが何も言わずに引っ越しちゃうから探すのに時間がかかったんだ。ごめん。」
いやいや違う!これは惑わされてるの。死神の誘いよ。
・・・だってあの子はまだ子どもよ。今だってほら外で遊んでる・・・
彼女は間違っているのだろうか?おかしくなってしまったのだろうか?
ただ、彼女は真剣に生きているのだ。違う次元で、違う時間軸で、違う世界で。
何が正しいか決められる?
人の心はそれが望むように・・・人生を選べば良い。
彼女はずっとそうしてきたように彼女の古いノートパソコンを見つめていた。
ふと、隣の部屋で別のデスクトップパソコンが起動した。
サービスなどとうに終了した彼女の夫のものだ。
そして、彼女のパソコンの画面上で強制的にアプリが作動する。もう何年も前に終了した古い小説のWebサイト。
そう、彼女たちが慣れ親しんだあの小説サイトだ。
突然、感想コメントの通知ベルが光る。
彼女は思わずコメント欄を開く。
懐かしい・・・とても懐かしい画面だ。
あぁそうよ。この感覚。
しかし不思議だ。本当ならば通知とともに書き込まれたコメント文が全て表示されるのに、カタカタと今打っているかのように文字がタイピングされていく。
ー水たまりの英雄ー
「ご無沙汰しています。ポエジアさんの作品はずっと拝見させていただいていました。長い間待たせてしまったようですね。ごめんなさい。」
彼女は、待ったわよ・・遅いんだよ・・・と呟いた。
ー泣きぼくろのポエジアー
「待ったわよ・・・何十年も。イチジテキに隠れてたの?あなたの宇宙船、机の中で見つけたの。大事にとってある。いま、ハッシンの時を待っているの。」
返事の入力をクリックして彼女は焦った。
感想についてコメントと返事は一度きりなシステムだった。
あぁダメか・・・どこか・・どこかの私の作品にコメントはないかしら?
すると、カタカタとできるハズのない追加コメントが打ち出された。
ー水たまりの英雄ー
「外を見てごらん。雨が降っている。小さな海は満ちた。君も僕の船に乗るかい?」
彼女は条件反射的にあれだけ恐れていた窓の外を見た。
そして、思わず玄関の扉を開けて飛び出す。
何の迷いもなかった。
恐れもなかった。
「母さん!」
息子の声さえ振り切って階段を走り降りる。
彼女は見ていた。
季節は梅雨である。
雨は降るけれど暖かい、熱を帯び始める季節。
紫陽花が咲き誇り、ナメクジがのたまう暖かさがある。
空に煌めく虹。
光りを反射するアスファルトにできた大きな水たまり。
そこに、小さな青い傘と薄いピンクの傘。
黄色のレインコートに水色の長靴を履いた小さな男の子と中学生くらいの女の子がしゃがんで話をしている。
彼女は夫の名を呼んだ。
男の子はゆっくりとその手の宇宙船をハッシンさせ彼女の手を取った。
彼は右手に小さな宇宙船、左手に彼女の手を繋ぐとしっかりと歩きだした。
彼は揺るぎない決意とともに帰ってきた。
「迎えに来たんだよ。ポエジア。」
「ねぇあなた。私、ここまで生きてこれたわ。ありがとう。」
「これからもだよ。」
「行かなければならない時が来たのね?」
「・・・そうだね。でも僕が連れていくさ。」
死は何も恐ろしい姿で襲ってくるものでもないらしい。
死の天使。
その人の一番望む者が望む姿で迎えにくるのかもしれない。
そして二人は振り向いて少女にほほ笑んだ。
「また、遊んでね!」
そして少女は立ち上がった。
彼女の人生に。
そう、すべては波のように繰り返す。宇宙すらも・・・




