灰の中の声
鐘の音が、石造りの聖堂の天井に響き渡る。
荘厳で、重苦しい。神を讃えるはずの音なのに、まるで人の心を押し潰すような鈍い音だ。
レオンは、膝をついて床を磨いていた。白のチュニックも下半身は真っ黒に染まっている。左手は痺れ、右手は煤で真っ黒だ。
彼はこの世界に転移してから半年、毎日この大聖堂で“神のための掃除”に明け暮れている。
──異世界って、もっと夢があるもんじゃなかったか?
心の中で何度もツッコんだその疑問も、もう言い飽きた。
異世界転移する前の記憶は曖昧だが、名前と家族の顔は思い出せる。薄い記憶の中で、異世界転移とはチートだの神と対話だの大それた能力による恩恵があると思っていた。
現実は全然違う。
何もない荒野に半袖短パンの元気っこ状態で、お金も入ってない財布を握りしめこの異世界に転移していた。
中世ヨーロッパを彷彿とさせる街並みにトキメイたがそれは最初だけ。声をかけたがそもそも会話ができない。なぜなら言葉が伝わらなかったから。
英語など覚えもしなかった俺は言葉を介さず物乞いし、その時に喋っている言葉を少しずつ真似て覚えていく。本当に大変だったね。まったく。
飲み水があまりないから川を探して飲んだり、それで腹を下して、トイレを探すも見当たらず、町中の道端に糞尿が捨ててあるのを見て絶叫した。
そんな中でようやく言葉をある程度覚えた頃に、教会の窓を叩いた。物乞いをする為だったが、そこの神父様が俺を見てパンを下さった。そして優しい言葉をくれ、仕事を与えてくれた。
それはこの異世界に来て始めての優しさだったことを覚えている。
「おい、下っ端。そこの柱、まだ煤が残っているぞ」
後ろから聞こえるのは、上位聖職者のアルマン神父の冷たい声。
レオンは無言で立ち上がり、また膝をついた。反論したところで意味はない。教会では“沈黙”こそ美徳なのだという。
霧島玲王、16歳。ここではレオンと呼ばれている。
魔法も使えず、教会に拾われて以来、“使い捨ての聖堂下僕”として働いている。
あの優しい声を掛けてくれたアルマン神父は何だったのか。ただの“よそ者”。それが今の俺の立場。
「才能がないなら、せめて祈れ。神の御前では、お前のような塵も救われるかもしれん」
アルマン神父は鼻で笑って去っていく。
レオンは握った雑巾を強く床に叩きつけそうになるが、寸前で止めた。
理不尽にも慣れたつもりだったが、やはり腹は立つ。
そのときだった。
かすかに、床下から「声」が聞こえた。
──たすけて。
「……ん?」
レオンは耳を澄ませた。空耳だろうか。だが確かに聞こえた。
その声は、聖堂の奥、立ち入り禁止とされている古文書保管室からだった。
「いや、ダメだって。あそこ入ったら、マジで火あぶりじゃん……」
口ではそう言いつつ、足はなぜか勝手に動いていた。
誰も見ていない。神父たちは今、祈祷の時間で聖堂にいない。
レオンはこっそりと扉を開けた。
──ぎぃ……
重たい鉄の扉が開くと、鼻を突く埃と紙の匂いが流れ込んでくる。
崩れかけた本棚、束ねられた巻物、そして──
鎖に繋がれた少女が、祭壇の前に横たわっていた。
「……え?」
少女は伸ばしたままの白髪を流し、薄い布1枚をかけられている。
腕には魔法陣が焼き印のように刻まれていた。
レオンが近づいたその瞬間、彼女の目がゆっくりと開かれた。
炎のように赤く、宝石のような瞳が、まっすぐ彼を射抜いた。
「……お前、殺しに来たのか…」
低く囁いたその声には、疲れも痛みも、恐怖もなかった。
ただ、静かな覚悟だけがあった。