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グラス1杯の水

作者: 縞々杜々


 7月の始めに母から電話がかかってきた。送った仕送りが無事に届いたか、なんてメールで充分済みそうな用件だ。

 ソウタはベッドに腰掛けて、床に置いたダンボール箱の中をのぞき込んだ。


「ありがたいけどさ、俺だってバイトしてるんだし、そうなんでもかんでも送って来なくていいよ」

『そう? 遠慮しなくていいのよ?』


 母はまともに取り合う気はないようで、そのまま世間話タイムに入ってしまう。父の健康診断の結果や地元に残った同級生の近況など、以前も聞いたような代わり映えのしない話を聞きながら手持ち無沙汰に箱の中を探る。

 やけに素麺が入っているのはもしや貰い物ではあるまいな、と疑いつつ1つ手にとってその下にスナック菓子を見つける。ポタージュ味のコロコロとしたコーンスナックだ。

 幼い頃はいつも食べていた。

 素麺を元通り被せて、周りにあったカレーやらパスタソースやらのレトルトのパックでさらに埋めた。黄色と緑の二色使いのパッケージが視界から消える。


『ねぇ、ソウタ』


 意を決したような母の声が電話越しにこちらを呼ぶ。なるほど、ここからが本題だ。


『今年は帰って来るでしょう?』

「……バイトも入ってるし、友達と約束もあるから」

『去年も一昨年も、そう言って帰って来なかったじゃない。ね、顔を見せてくれるだけでいいから。……あの子だって、ソウタが帰って来るのを待ってるわ、きっと』


 そんなことがあるだろうか。

 妹がソウタを待っているなんて、そんなこと。


 ***


 ある大学の教場の1つ、長い机が何列も並び何人収容出来るのか数えるのも嫌になるくらいの広さのその部屋に、ぽつぽつと学生のグループが点在している。雑談を楽しむ彼らのほとんどは先程もここで講義を受けていた。

 その中の一人、ソウタはふと思い出して傍らの紙袋を引き寄せた。そのまま友人二人へ差し出す。中には例のコーンスナックがいくつか入っていた。

 友人の片方、ハヤシがのぞき込んではしゃいだ声をあげた。


「なになに? もらっていいの?」

「うん。母さんが送って来たんだけど、俺はもう食べないから」

「あー。親ってガキの頃の好物をいつまでも好物だと思い込んでるよな」


 もう一方のサイトウは何か思い出したのか苦笑をこぼした。ハヤシの方はご機嫌だ。


「おれは今でも好き! ありがたくもらっちゃうぜ!」

「んー。オレも1個もらおうかな。久しぶりに」

「ははは。助かる」


 サイトウが1つ手に取ると、後は紙袋ごとハヤシが引き取った。ハヤシはそれを自身のカバンの横に置きながら、そういえばさぁ、と口を開いた。


「お前ら、“クレオパトラのワイン”って話知ってる?」

「真珠溶かして飲んでたって話?」

「いや、それお酢じゃん」

「ワインビネガーだって聞いたけど」

「え? そうなの? あれ? じゃあもしかしてこの話もただのワインじゃなくてワインビネガー?」

「自分が持ってきた話なのに、前提を見失うなよ」

「あ、でもこの話、お酒でもお酢でも影響ないからどっちでもいいや」


 道を反れそうになった話を戻して、ハヤシがこほんとせき払いする。


「地球上の水の総量は決まってるんだ。雨が降って、川に流れて、海に混じって、蒸発して雲になって、雨が降って……とまぁめちゃくちゃざっくり言ったが、こんなふうに循環してるわけだ。気が遠くなるくらい昔から。んで、当然この循環の中には人間が一度体内に取り込んだ水も含まれている」

「……じゃないと水なくなっちゃうからな」

「つまり、二千年以上前にクレオパトラが飲んだワインも、自然の摂理にともないとっくの昔に大海に出てその循環に身を任せている。今のおれらが水道から出すグラス1杯の水の中には、かつてクレオパトラが飲んだグラス1杯のワインのひとしずくが混じってるってわけだ。なかなかロマンのある話だろ?」


 得意げに人差し指を振るハヤシに対して、サイトウは顔をしかめる。


「いや、これ突き詰めるとだいぶ気持ちの悪い話だぞ」

「えー? なんでー?」

「だって、それってどっかのおっさんが飲んだ焼酎も混じってるってことだぞ。昼間っから駅でカップ酒ひっかけて道を聞くふりして女子大生にからむ赤ら顔のおっさんだぞ」

「何でそこまで人物像限定した!?」


 ハヤシが子供っぽい仕草でベシベシと机をたたく。


「なーあー、聞いてたかー? サイトウがロマンをぶち壊すー」


 すねた顔でソウタを振り返って、その目がはっと見開かれた。サイトウもぎょっとする。

 ソウタの顔は血の気が引いて真っ青になっていた。取り繕えているつもりだったがダメだった。うっとえずいて口元を片手でおおう。


「は? え? だ、大丈夫か?」

「ハヤシが気持ち悪い話するから!」

「ええー!? どっちかというとサイトウの方が原因じゃね!? いや、この話、アボガドロ数ってののデカさを水分子を使って説明するための例題みたいなものらしくて! 実際には水分子の寿命は短いらしくて! 本当にそっくりそのまま同じ水じゃないらしいから!」

「と、とりあえず水! は、飲みたくないよな、この流れで……」


 ハヤシは焦りのまま早口でまくし立てる。サイトウはミネラルウォーターのペットボトルを差し出そうとしたが、寸前で思い直した。

 ちゃぷんっと水のゆれる様からソウタは自身の視線を無理やりはがした。逃げるように席を立つ。


「悪い……ちょっと外の空気吸ってくる……」

「一人で平気か?」

「ああ」

「無理すんなよ。ノートちゃんととるし、先生にも言っとくから」

「大丈夫……すぐ戻るから」


 フラフラと教場を後にする。日陰にあるベンチに腰かけたが、ほんの数分では体調は回復せず、結局ノートのことはサイトウに任せることになった。


 ***


 夜、蒸し暑さで目を覚ました。

 さあさあと軽い音がする。扇風機が風を切る音かと思ったが、違う。音は外からする。通りの地面や建物の屋根を小さな粒がたたいている。雨が降っている。

 ベッドの上で身を起こし、汗で貼りつく不快さからシャツの襟元を引っ張る。そこで部屋着に着替えていないことに気がついた。あの後の講義は何とか出たが、家に帰っても食欲がわかなくてそのまま何もせずに寝てしまったのだ。せめてズボンくらいは脱げばよかったと、カーゴパンツの固い生地をする。


 のど奥や口内に何か膜が貼りついたような違和感で、のどの渇きを自覚した。

 ふらり、とベッドをおりて台所の流しに向かう。グラスを取って蛇口の下へそえる。レバーハンドルを押し上げようとして、手が、止まった。


 雨が降っている。音が聞こえる。

 頭を過ったのは昼間聞いた話だ。

 川の水が海に流れて、それが雨になって、地球上の水が全て混じり合って、途切れることなく巡り続けているというのなら。

 今、外で降り注いでいるのは。今、この蛇口から出てくるのは。

 故郷のあの川の水なのだろうか――――



 夏休みに近所の河原でバーベキューをするのが、幼い頃の楽しみだった。

 5家族の大所帯は親の仕事でつながった縁だったが、子供達はすっかり仲良しで、普段は大人ぶっている高学年すら仔犬のようにはしゃいでじゃれ合っていた。


 午前中は近くの釣り堀で釣りをして、串焼きや焼きそばで腹を満たした後は、宴会を続ける大人達に見守られながら、浅瀬で水遊びをしたり飛び石で渡って対岸を冒険したりする。

 ちょっと離れるとすぐ呼び戻されるのには閉口したが、それを上回る開放感と高揚感があった。


 しかし、その年は違った。5歳になったばかりの妹がソウタにはりついて回ったのだ。

 去年までは父の膝の上で大人しくおやつを食べるか、母と手をつないで水に足を浸してはしゃいでいたのに。河原についてからずっと、ちょこちょことソウタの後を追いかけて、ぐいぐいとシャツの裾を引いては手をつなぐことを要求してきた。


 最近は普段からこうだった。何かとソウタのまねをしてどこでもついてこようとする。

 妹がいては一緒に遊ぶ友達に気を遣わせるし、難しいルールのあるゲームは出来ない。ただ走ることすら、こちらが加減しなくてはついてこられずに泣き出してしまう。つまらない。

 同い年のはずの友人の妹などは、家でのんびり絵を描いて過ごしているというのに。ソウタだけは邪魔者がくっついてくる。

 いつもいつも我慢しているのだから、今日くらい母が面倒を見てくれればいいのに、楽しそうにおしゃべりしている。どうして自分ばっかり。


「おにーちゃん」


 今も、対岸へと飛び石を渡るソウタの後を追いかけて来ている。

 誰が被せたのだろう、見覚えのない大きな麦わらぼうしがおぼつかない動きに合わせて左右にゆれている。

 父のそばでおやつを食べている隙に置いてきたのに。ちらりと見れば、左手に黄色と緑のパッケージを握りしめていて、開いた封から中の銀色がのぞいていた。食べるか遊ぶかどっちかにしなさい。ソウタはいつも母にそう怒られるのに。

 じとりとにらみつけてやったのに、こちらが立ち止まったことしか分かっていないようで、うれしそうに寄ってくる。


「こっちくるな」


 だから、ふいっと背を向けてまた歩きだす。


「おにーちゃんっ」


 呼ぶ声に焦りと涙がにじむ。後ろに振った手に小さくて柔らかい熱が触れた。


「くるなっていってるだろ!」


 大きく腕を回して振り払う。やわっこい手が弾かれて、青いリボンのかかった麦わらぼうしがぐらりとかしぐ。本能的な動きでバランスを取ろうとした妹は、腕を伸ばして足を後に引いた。その足が、飛び石を踏み外した。

 体勢を立て直せずに、黄色いワンピースに包まれた小さな体がかたむいていく。サイズの合わないぼうしが、ひらりっとその道連れから逃れた。


「あ」


 ドボン。


 水しぶきに遮られる直前、小さな口がもう一度自分を呼んだ。


 誰もその瞬間を見ていなかった。ソウタも真実を話さなかった。父も母も、妹から目を離したことを悔いるばかりで、ソウタを責めることは一度もなかった。



 ――――地球上の水が全て混じり合って、絶えず巡り続けているというのなら。

 今、外で降り注いでいるのは。今、この蛇口から出てくるのは。

 妹を飲み込んだあの水なのだろう。自分が妹を殺した、あの川の水なのだろう。


 妹が自分の帰りを待っているはずがない。今、それがはっきり分かった。

 両親が今も暮らすあの家で。祖父も眠っているあの石の下で。家族の思い出が悲しみに塗り換わったあの川原で。

 あの場所で、妹がソウタを待っているはずがない。


 だって声がする。

 さあさあと打ちつける雨音に混じって。ぽちょりと蛇口からしたたる雫にのせて。

 妹が自分を呼ぶ声がする。


 あの子は今もソウタを追いかけている。



 END

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― 新着の感想 ―
段ボール、教室、川、と空間の広がりがあって、時間軸もクレオパトラから現代まで壮大で、良い意味でクラクラしました。
すごく読み易くて情景がすんなり頭に浮かんできました。ちょっとした意地悪が招いた最悪の結末が苦しい珠玉のホラーですね。SF要素ゼロでこんなに満足感出せるのすごいですね。
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