第七章:職場の波紋──藤巻の反発と所長の狡猾
春の冷たい風が、工場の鉄骨に鋭く当たっている。
場内の空調は未だ古く、時折きしむ音が響く。
そんな中、事務所の一角で藤巻が眉をひそめていた。
彼の視線は資料から離れ、深く考え込むように宙を泳いでいる。
「やっぱり、斎藤くんが辞めたのは……あいつのパワハラのせいだと思うんですよ」
藤巻はついに意を決し、所長室のドアをノックした。
内側から「どうぞ」という声が聞こえ、彼は静かに入室した。
所長はデスクに腰掛け、眼鏡の奥から藤巻をじっと見つめる。
彼は50歳を越えた男で、温厚な表情の裏に老獪な狡猾さを隠していた。
「藤巻か、どうした」
藤巻は言葉を選びながらも真剣だった。
「斎藤くんが辞めた件で、ちょっと話したいことがあります」
「うん、聞こう」
藤巻は深呼吸し、切り出す。
「正直、難波江さんのパワハラが原因だと思います。仕事はきついけど、それを理由に新卒の子が辞めるのは問題です」
所長は一瞬目を細めた。
そしてゆっくりと言葉を返した。
「藤巻くん、それは一面の見方だ。確かに斎藤はやめたが、彼もただの被害者じゃない。居眠りしたり、やる気のない態度を見せたり、問題も多かった」
藤巻は声を強める。
「それは誰だって初めはそうですよ。でも難波江さんは怒鳴り散らし、椅子を蹴り上げる。仕事の指導じゃなくて、パワハラです」
所長は軽く手を振り、続けた。
「難波江には期待しているんだ。彼は所長を目指している。まだ若いが、やる気がある。うまく育てなければいけない。彼を簡単に切るわけにはいかん」
藤巻の目が鋭く光った。
「それは、あまりにも現場の状況を見ていません」
「現場は現場で難しい。藤巻くん、君も自分の立場を考えてほしい。難波江を叱責したら、この施設の運営はどうなる?彼を失えば、誰が代わりを務める?」
藤巻は悔しさを押し殺し、うつむいた。
「確かに……難波江の技術は認めています。含水率の管理は彼が一番うまい。だが、あの態度は認められません」
所長は柔らかい声で言った。
「技術だけでなく、人間関係も大事だ。だが難波江にはまだそれが欠けている。だから私が指導している」
藤巻は顔を上げた。
「指導?あのパワハラの後で、ですか?」
所長は冷静に答えた。
「表向きは彼を守らなければならない。だが二人きりの時は厳しく言っている。もし改善しなければ、次はお前の言う通り、私も動かざるを得なくなる」
藤巻はそれを聞き、怒りと諦めが入り混じった複雑な表情を浮かべた。
数日後。難波江は所長室に呼ばれた。
「座れ」
所長は机の端に置かれた書類を押しのけ、じっと難波江を見つめる。
「君のパワハラについて話す。聞いたところによると、新卒の斎藤を相当追い詰めたらしいな」
難波江は顔を強張らせた。
「俺は教えてやってるだけだ。根性が足りないやつに情けはかけられん」
所長は低い声で言った。
「それは違う。指導と暴力は違う。君のやり方は許されない。改善しなければ、君の昇進は無いし、ここに居続けることも難しくなる」
難波江は短く舌打ちしたが、目を逸らさなかった。
「わかりました。でも簡単には変わらん。俺には俺のやり方がある」
「ならば、そのやり方のどこを変えるか、君自身が考えろ」
所長の言葉は冷たくも厳しかった。
一方、職場では斎藤の退職が静かな波紋を広げていた。
同僚たちは口々に噂を囁き合う。
「斎藤くん、最近元気なかったもんな」
「難波江さんのあの言い方じゃ、やめても仕方ないよ」
「でも、所長が難波江さんを守ってるからな」
誰もが困惑し、口に出せない空気が漂った。
藤巻は職場の片隅でその様子を見つめ、胸が締め付けられた。
「俺たちはどうすればいいんだ」
と呟き、また機械の音に耳を傾けるのだった。