第六章-3:沈黙の決断と職場の波紋
斎藤雄太が施設に来なくなってから、職場はどこか重苦しい空気に包まれていた。四月の終わり、彼が静かに辞表を提出した日のことは、誰もが覚えている。
斎藤が退職届を提出したのは、午後の休憩時間直前だった。薄暗い事務室の隅で、彼は震える手で用紙を差し出した。支店長の山口が眉をひそめながら書類に目を通した。
「斎藤君、何かあったのか?」
斎藤は俯いたまま、言葉を詰まらせた。
「すみません。自分にはこの仕事は合いませんでした…」
声は震えていたが、決意は揺らがなかった。
職場に戻った斎藤の姿はもうなかった。彼の机は片付けられ、制服も返却されていた。
その日、休憩室で数人の職員が集まって話していた。
「斎藤君、辞めたらしいな」
「うん、あの難波江にやられてなあ…」
「体育会系で一生懸命だったのに、気の毒だった」
「でも、あの難波江は相変わらずだよ。新人いじめが日常茶飯事でさ」
「所長を目指してるって言うけど、あれじゃ人望なんてできっこない」
藤巻は黙って聞いていたが、やがてぽつりと言った。
「みんな言いたいことはあるんじゃろうけど、言えんのんよな。難波江は強いからな。俺も気をつけとかんと」
西谷さんも重い口を開いた。
「新人が辞めるのは、どこの職場でもあることじゃ。けど、あんなに早う辞めるとは…やっぱり何か問題はあるんじゃろう」
一方で、難波江は表向きは平然としていたが、内心では動揺していた。自分のやり方が職場に波紋を広げていることは感じていたが、決して態度には出さなかった。
ある日、彼に近づいた中堅職員が声をかけた。
「難波江、お前さ、もう少し態度を改めた方がええんちゃうか。若いのが辞めると職場の雰囲気も悪うなるで」
難波江は薄く笑って答えた。
「俺は所長を目指してるんだ。強くならんと、誰にも認められん。甘いことは言わん」
その言葉に、周囲の職員たちはため息をついた。強引なやり方が、職場の連帯感を壊していることは明らかだった。
数週間後、斎藤の退職の噂は施設の外にも広まり、地元の小さな話題となった。地元の人々は労働環境の厳しさを案じ、同情する声も多かった。
斎藤は新しい職を探しながらも、心の傷を癒す時間を求めていた。だが、彼の中で消えないのは「自分は弱かったのか」という自己嫌悪と、「あの職場にもう一度戻ることはできない」という現実だった。
施設は相変わらず稼働を続け、機械の音が静かに響く。しかし、かつての新人の明るい声はもうそこにはなかった。