第六章-2:陰鬱な日常と心の綻び
朝の薄暗い空気の中、斎藤雄太はまたいつもの通り施設の門をくぐった。湿った空気が肌にまとわりつき、汗ばむ四月の始まりを告げている。まだ新しい制服の袖をまくり上げながら、彼は自分の影を見つめる。いつの間にか、影が細く長く伸びていた。
難波江の視線は冷たく、彼の背中に焼きついて離れない。
「お前、こないだの居眠りは何だったんだ。そんなことがまたあったら、今度は許さんぞ」
その言葉はまるで氷の刃のように斎藤の胸を切り裂いた。
「はい…気をつけます」
答えながらも、心はもろくも崩れそうだった。彼は体育会系の根性で耐えようとしたが、毎日が闘いであることを思い知らされていた。
午後の休憩時間、斎藤はひとりベンチに座り込み、汗で湿ったシャツを腕でぬぐった。風はわずかに涼しく感じられたが、心の熱は冷めなかった。
そんな時、難波江が近づいてきて、冷たい笑みを浮かべた。
「調子はどうだ?」
斎藤は一瞬言葉に詰まったが、素直に答えた。
「ぼちぼちです」
その言葉に難波江は嘲笑を隠さなかった。
「『ぼちぼち』で済むと思うなよ。ここはお前の遊び場じゃない。できることはきちんとやれ」
彼の声は低く、そして重い。斎藤はその言葉の重圧に押しつぶされそうになった。
その週の水質分析の指導の日、斎藤は再び難波江に呼ばれた。狭い作業室の中、機械の音が遠くから響いていた。
難波江が手元の資料を広げ、熱心に説明を始める。
「この数値はな、ここの排水のpH値を示している。これが基準値を超えたら問題になる。しっかり覚えろ」
斎藤は必死にメモを取り、目をこらした。だが、数時間の疲労が彼の身体を蝕み、まぶたが徐々に重くなる。
ついに、彼の頭はカクンと前に傾いた。机に顔が触れる寸前で、あわてて顔を上げたが、耐えきれず再びまぶたが閉じてしまった。
突然、難波江の激しい怒声が飛んだ。
「何をしてるんだ、起きろ!」
彼は椅子を蹴り上げ、その鉄の脚が床に激しく当たる音が響く。
斎藤はビクッと跳び上がり、顔を真っ赤にして必死に目をこすった。
「すみません、寝てしまいました…」
その声は震えていた。
「寝るな!仕事をなめとんのか!」
難波江はますます声を荒げ、斎藤の肩を掴んで机に叩きつけようとした。寸前で手を引っ込めたものの、威圧は途切れない。
「お前みたいな奴に教える時間は無駄だ。さっさと辞めるか、這いつくばって働くか、どっちかにしろ!」
斎藤は俯き、言葉を失った。目からは涙が溢れていた。
数日後、斎藤の様子は周囲に気づかれるほどに変わっていた。顔色は悪く、疲労が体中に染みついていた。仕事中も動きが鈍くなり、声も小さくなっていた。
同僚の一人が小声で言った。
「雄太、大丈夫か?あんな難波江の扱い、辛そうだな」
斎藤は無理に笑って答えた。
「大丈夫です、慣れます」
しかし、その心は崩壊寸前だった。
それからも難波江のパワハラは続いた。小さなミスにも大声で怒鳴り、わざと無視をすることもあった。
ある日、斎藤は堪えきれずに涙をこぼした。
「どうして、こんなに辛いんだろう…」
彼の心は疲弊し、孤独の淵で叫んでいた。