第六章:暗闇の支配者 — 新卒斎藤雄太と難波江の軋轢
しんとした維持管理部門の一角に、微かな声と機械の動作音が響く。春の終わりが近づき、まだエアコンのない施設の空気は湿気を含んでいた。作業着にしみ込んだ汗の匂いが、油と塩辛いポリ鉄のにおいと混じり合う。
「斎藤、調子はどうだ?」
唐突にかけられた声に、斎藤雄太は肩をすくめて振り返った。35歳、中途入社の難波江だった。工場の末端から這い上がってきた男は、入社わずか四か月にして、所長の椅子を虎視眈々と狙う男だった。
「ぼちぼちです…」
雄太は声を潜めた。決して明るい返答ではなかったが、それで十分と思っていた。
難波江の目は冷たく、鋭かった。
「ぼちぼち、か。まぁそんなもんか」
そう呟いて、難波江は小さく鼻を鳴らした。だがその声には、上から目線の含みがあった。
施設の隅、剥き出しの配管が複雑に絡み合う狭い部屋で、水質分析の研修が始まった。斎藤が教わる側、難波江が教える側だった。
だが、研修の雰囲気はすぐに重苦しいものになった。
「この数値がどれだけ重要かわかっとるんか?」
難波江が、分析結果の紙を斎藤の顔近くまで押し付けた。雄太は動揺を隠せず、必死に目をこらした。
「はい…でも、まだよく理解できてなくて…」
「甘いな、甘すぎる」
難波江は吐き捨てるように言い放つと、勢いよく椅子を蹴った。金属の脚が硬い床を蹴り上げて、ガンッと大きな音を響かせた。
その音に斎藤の背筋が凍る。
「眠そうな顔してるのは仕事舐めとる証拠じゃ!」
突然の怒号に斎藤は身体を硬直させた。先ほどまで何とか耐えていた緊張が一気に張り詰め、頭の中で言葉がぐちゃぐちゃに絡まる。
「すま…すみません」
声は震えていた。だが難波江はそれでは済まさない。
「もう一回言うぞ。何度でも言う。お前はこの施設の足手まといだ」
強烈な言葉が胸をえぐる。
「理解できんなら、今すぐ辞めろ!この職場に必要ないんだ!」
難波江は指先で斎藤の胸元を弾いた。まるでそこに存在する全ての弱さを叩き潰すかのように。
だが斎藤は言い返せなかった。声が出なかった。涙が頬を伝った。
そのまま座ったまま、肩を震わせて震えていた。
難波江は冷ややかに息を吐き、
「本気でやりたくないなら、俺が代わりにやるから黙ってろ」
と吐き捨てて去っていった。
だが、その日以降、斎藤の仕事はさらに辛くなっていった。
難波江はあらゆる場面で彼を見下し、理不尽な叱責を繰り返した。仕事のミスをことさら大げさに指摘し、雑務を押し付ける。
ある日、雄太が疲労で居眠りした瞬間は特に激しかった。
斎藤雄太は疲れの極みにいた。毎日、溶けるような暑さのなか、脱水機の前で汗を流し、難波江の理不尽な叱責に耐え続けた。体育会系の身体はまだ動いたが、心は音を上げていた。
その日も水質分析の小さな部屋に座り、数値の表とにらめっこをしていた。難波江が説明を続けているのを、何とか集中して聞こうとしていたが、汗が額から目に流れ込み、目をしばたたかせていた。
機械の音も遠く、部屋の中は妙に静かだった。体内の疲労物質がじわじわと脳を蝕み、まぶたが重くなる。
説明の途中で、斎藤の頭がふらりと前に倒れかけた。
「…あっ……」
反射的に目を見開くが、その次の瞬間、重力には逆らえず、頬がテーブルの端に触れてしまった。わずか数秒のことだった。
しかし、難波江の目は見逃さなかった。
「おい、なに寝とんじゃ!」
怒声が部屋の空気を引き裂いた。
斎藤は飛び上がるように顔を上げ、赤面した。
「すみません、疲れてしまって…」
「疲れた?それで寝るんか?仕事舐めとんか!」
難波江の怒りは爆発した。怒気を帯びた声がさらに大きくなり、周囲の壁に反響した。
「お前みたいなやつが、何でここにおるんか理解できんわ!」
彼は椅子を蹴り上げた。鉄製の椅子が床を跳ね、ぶつかる音が重く響く。
「こいつはただの怠け者じゃ。仕事が辛いから逃げたいだけの腰抜けよ!」
難波江は声を荒げ、斎藤の顔のすぐそばまで詰め寄った。汗のにおいと塩辛いポリ鉄の臭気が混じる空気の中で、斎藤は反射的に後ずさった。
「やめてください…お願いですから…」
斎藤は震える声で懇願したが、その声は難波江の怒りの嵐に飲み込まれた。
「お願い?そんな甘ったれた態度が通用するか!」
難波江は唾を飛ばしながら叫び、再び椅子を強く蹴りつけた。斎藤は驚きと恐怖で固まった。
「こんなやつに、俺の時間を割く価値なんてねえんだよ!」
そのまま難波江は声を荒げて立ち去ろうとしたが、ふと振り返りざまに冷たい目で斎藤を睨みつけた。
「辞めたいならいつでも言え。お前みたいなのは歓迎しねえ」
斎藤はしばらく動けず、ただ肩を震わせて涙をこぼした。
斎藤の孤独な夜
その夜、宿舎の小さな部屋で一人、斎藤は壁にもたれかかって座り込んだ。肩を小刻みに震わせ、涙が止まらなかった。
「俺はこんなところで、何をやっているんだろう…」
心の奥底にぽっかりと空いた穴は日に日に大きくなっていく。
体育会系で負けず嫌いな自分が、こんなにも弱くて情けない姿を見せるなんて。
仲間もいない、話せる相手もいない。
翌日も施設に戻るのが怖かったが、逃げることは許されない。
次の日の朝
施設に着くと、早くも難波江の鋭い視線が斎藤を捉えた。
「今日もお前が仕事できるかどうか、見とるからな」
鋭い言葉が刺さる。
斎藤は深呼吸し、顔を上げた。
「はい、頑張ります」
小さな声だったが、自分を奮い立たせる決意の言葉だった。