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第四十七章「ゆるやかな再起」


九月の風は、ほんのりと湿り気を帯びながらも、夏の終わりを確かに告げていた。

庭先のツツジはすでに枯れ、代わりにススキが風に揺れている。


「誠。あんた、今日ちょっと出かけてみん?」


朝の食卓で、母が言った。新聞の地方欄を開きながら、指をさす。


《市民参加型 下水道フェスタ in 西北支所》


「へえ……まだやっとるんや、こういうの」


「子ども連れでようけ来るらしいよ。し尿処理の仕組みとか、微生物とか、展示もしとってな」


田村は一瞬、胸の奥がちくりとした。

だが、もうあの場所に引き戻されることもない気がした。


「……見てくるだけなら、行ってみようかな」


会場は小さな市民センターの講堂だった。バルーンアーチが入口に立ち、仮設テントでは地元農家の直売も出ていた。


中に入ると、そこは淡い匂いのする、なんとも懐かしい空間だった。

パネル展示、処理場模型、マンホールカードの配布。来場者は子ども連れの親たちがほとんどで、子どもたちはキャラクターの缶バッジに夢中になっていた。


そのとき、背後から声がした。


「えっ……田村? 田村誠じゃね?」


振り返ると、がっしりした体格の中年男。高校の同級生、片山裕司だった。


「おおっ、久しぶりすぎるやろ! どうしたん、こんなとこで」


「いや、ちょっと見に来てただけ……お前、こっちの仕事なん?」


「そや。建設会社の広報部門で、こういうイベント手伝っとんよ。今日はちょっと人足らんでな」


片山は少し照れた顔をしながら、首をかしげた。


「なあ、田村。よかったら、展示ブースで子どもらに案内してくれん? 元・現場の人やったんやろ。マジで助かるんよ」


「……いや、俺なんかが話してええんか?」


「むしろリアルな話できるやん。ほら、簡単な説明でええから」


田村は、しばらく迷った。だが、その肩を押したのは、自分自身だった。


「一時間だけなら、やってみるわ」


子どもたちは素直だった。

沈殿池の模型を見ながら「うんちがどうなるの?」と聞いてくる少年に、田村は笑って答えた。


「沈んだのと、浮いたのと、わかれるんよ。あとは、バクテリアの出番じゃな」


「バクテリアー!」と叫ぶ子。


笑い声が、懐かしいにおいを運んできた。


かつての自分も、こんなふうに“処理”の現場に心を動かされたことがあった。



九月の風は、ほんのりと湿り気を帯びながらも、夏の終わりを確かに告げていた。

会場で子どもたちに説明を終えた田村は、片山とともに小さな休憩スペースへ向かった。


「今日はありがとうな。やっぱり、実際に現場で働いてた人の話は説得力が違うわ」

片山が笑う。


田村は、そんな片山の言葉を素直に受け止めながらも、自分の胸の内では、まだ揺れる感情を押さえ込んでいた。


「子どもたちの目が、すごく純粋でな…なんだか、昔の俺を見てるみたいで」

ぽつりと口にすると、片山は深く頷いた。


「俺も、そう思う。あんたはまだ、あの現場の匂いを忘れてへんのや」


そう言われて、田村は自分が完全には過去を手放していないことを再認識した。


その日の帰り道、田村は母にこう言った。


「また、ああいうイベントがあったら、手伝ってみようと思う」


母は穏やかに笑い、ただ「うん」と頷いた。



それは久しぶりに、自分の口から出た「前向きな言葉」だった。




数日後、田村は鶴士山市役所の上下水道課に連絡を入れた。


「今すぐ復帰はできんけど、資料整理とか、少しだけ関われんですかね」


驚いたような沈黙のあと、担当者は言った。


「もちろんです。週一でも、できることがあれば」


それは、かつての自分なら「敗北」に見えた働き方だった。

だが今は、「自分の速度を守る」ための、最善の選択に思えた。


ゆるやかで、確かで、誰とも争わない再起。

田村誠は、その道を選んだ。

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