第四十七章 静養の日々
四月の終わり。田村誠は、実家の庭に出ていた。
母が草むしりをしていたのを手伝おうと思ったが、しゃがんだ瞬間に腰に鈍い痛みが走って、結局縁側に腰掛けて、土の匂いと風を感じていた。
「ちぃとは太陽に当たらんと、気が滅入るばっかりじゃけえな」
母がつぶやきながら、手早く草を抜いていく。
遠くから小学校のチャイムが聞こえた。帰宅途中の子どもたちの笑い声。庭の片隅に咲いたタンポポに、小さなモンシロチョウが止まった。
田村の時間は、ゆっくりと、慎重に進んでいた。
病院から処方された薬は、確かに効いているのだろう。
幻覚も、あの“欣一”の声も、もうほとんど現れなかった。だがその代わり、何も浮かばなくなった。
感情が、砂漠のように乾いていた。
「よう寝られるようにはなったみたいやな」
「うん……朝起きるのが、ちょっとつらいだけで」
「つらいことがあるうちは、生きとる証拠じゃ。安心し」
母の言葉は、どこまでも平坦で、優しかった。
ある日、昔のアルバムを見つけた。
まだモモが子犬だった頃の写真。
父が笑って田村にホースで水をかけていた夏の写真。
「これ、どこやったっけ……」
「ほら、あんたが見学行った、し尿処理場のとこや」
写真には、ヘルメット姿の父と、その隣に帽子を深くかぶった田村少年。背景には、古い沈殿池と、鉄の配管が写っていた。
「……変わらんな、これだけは」
「何が?」
「におい……思い出したら、鼻に残っとる」
「そうよ。あれが現実の匂いや」
静養は、奇妙な時間だった。
何もしないことが、こんなに難しいとは思わなかった。
最初のうちは罪悪感ばかりだった。世の中が動いているのに、自分だけが止まっているような気がして。
だが、朝に鳥の声を聞いて、昼に湯を沸かして、夜に風呂へ入る。
その生活を繰り返すうち、田村の中で「静けさ」が「不安」から「居場所」へと変わりつつあった。
ある夕方、昔の友人から手紙が届いた。
送り主は藤枝健司。長野からの便りだった。
『田村へ。
よう寝てるか。雪はもうとけて、こっちはようやく春や。
あんたのこと、なんとなく分かっとった。
あの時から、顔に出とったもんな。しんどいのに我慢してるの。
けどな、俺は思うんや。あの場所で一緒に働けたこと、あれが俺の誇りや。
お前も、そう思えたら、ちょっとは楽になるかもしれんで。
そっちも春が来るとええな。生きてさえおれば、また会えるやろ。
藤枝』
便箋を握る指が、少しだけ震えた。
夕飯のあと、こたつで母と茶をすする。
「藤枝くん、元気そうやなあ」
「うん。ありがたい、ほんまに……」
「誠」
「ん?」
「そろそろ、次のこと考えてもええんよ。あんた、止まったままの人間やない」
田村は、少しだけ笑った。
「うん。でも、もう少しだけ、ここにおらせて」
「ええよ。春は、まだ続くけえな」
その夜、久しぶりに夢を見た。
モモが走っていた。
父が笑っていた。
し尿処理施設の巨大な沈殿槽の上、風が吹き抜けていた。
田村は、ただ立っていた。
それだけで、充分だった。




