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第五章:鉄と塩の洗礼──高圧洗浄の熱き日々

四月の朝はまだ肌寒さを残していたが、作業場の中はすでに蒸し暑く、重い空気が漂っていた。エアコンなどあるはずもなく、窓を開け放っても外からの風は湿気を含んでいて、汗をかいた身体にまとわりついた。誠は今日の作業着の上に、防水のカッパを身につけた。ゴーグルも忘れずに装着しなければならない。ここでの清掃はただの掃除ではない。鉄の心臓であるスクリュープレス脱水機の網目にこびりついたポリ鉄の固形物を、特殊な薬品で溶かし、高圧洗浄機で叩き落とす過酷な戦いなのだ。


「まこっちゃん、準備はできたか?」


藤巻が笑いながら声をかける。彼の声はいつもと変わらぬ余裕を湛えていたが、彼の動きは機敏そのものだった。作業の段取りは彼がいつも仕切っている。


「よし、あとはケガせんようにな。跳ね返りの水は半端じゃないけぇ、ゴーグルとカッパは絶対に外すなよ」


西谷さんも重々しく言葉を添える。五十代の職人気質の男だが、この清掃作業では若手と変わらぬ体力勝負が求められた。


誠は汗ばんだ手でゴーグルを調整し、重く湿ったカッパのファスナーを締めた。すでに背中と首筋に汗がにじんでいる。ポリ鉄の塩辛い匂いが鼻を刺す。あの匂いがこの場所の象徴のように彼の意識を支配していた。


脱水機の網目はまるで鉄の網状の壁のように大きく、目視では隅々まで見ることはできない。そこに無数のポリ鉄が固着し、まるで岩のような固形物を形成していた。


「まずはこの特殊薬品じゃ。ポリ鉄の塊は普通の水じゃ落ちん。これを吹きかけて、数十分置いて溶かすんじゃ」


藤巻が大きなポリタンクから透明な薬液を専用の噴霧器に移し替えた。薬品は刺激的な臭気を放ち、誠は思わず顔をしかめた。


「薬品を吹きかける時は風向きに注意せんと、こっちに跳ね返るからな。お前はこっちの壁側に回って噴霧しろ」


藤巻の指示に従い、誠は網目の周囲に回り込んだ。静かながらも緊張感が張り詰める。


シュッ、と噴霧器のノズルから霧が勢いよく吹き出す。薬品は網目にまとわりつくポリ鉄の固形物にじわりと染み込み、化学反応が始まったのか、少しずつ表面が変化していくのが見えた。


「時間は勝負じゃ。薬品を浸透させてる間に次の準備を進めるぞ」


藤巻は手際よく高圧洗浄機のセットを始めた。巨大なホースとガンノズルはかなりの重さがあり、長時間の作業は筋肉を酷使する。


「これを使う時は気をつけろ。水が跳ね返る勢いはすごいぞ。服はびしょ濡れになる覚悟で、飛び散る破片にも気をつけろよ」


誠は腕に力を入れ、準備万端で待ち構えた。


薬品の浸透時間が過ぎ、藤巻の合図で洗浄開始となった。


「行くぞ!」


ガンノズルから噴き出す水は鉄板にぶつかり、反射して誠の顔面に跳ね返った。水滴は痛いほどに飛び散り、カッパの上からも容赦なく叩きつける。


誠は咄嗟に頭を振りながらも、目を開けゴーグルの中で水滴が跳ねる様子をじっと見つめた。網目にこびりついていたポリ鉄が薬品で柔らかくなり、次々に剥がれていく。


「もっと強く! 根気よく!」


藤巻の声が響き渡る。彼は周囲を走り回り、汚れの残る部分を丹念に狙い撃ちした。ホースを振るう手は正確で、何度も同じ場所を叩く。


誠も負けじと、吐き出す水をコントロールしながら、硬くこびりついた汚れに水流を集中させた。固形物は水圧に負けて細かく砕けていき、網目の奥に溜まっていた汚泥も少しずつ洗い流されていく。


だが、水はどこからともなく跳ね返り、誠のカッパの中に容赦なく入り込み、体中を冷やした。背中からは滝のように水が流れ落ちる。


「痛っ……!」


誠は思わず小さく声を上げたが、それもすぐに藤巻の掛け声で消えた。


「まこっちゃん、負けるな! ここが踏ん張りどころじゃ!」


約一時間、二人は汗と水にまみれ、ひたすらに洗浄を続けた。ポリ鉄の塊は徐々に姿を消し、網目は再び金属本来の輝きを取り戻しつつあった。


西谷さんは一歩引いて作業を見守りながらも、時折手伝いを挟んだ。


「よし、最後は薬品の残留をしっかり流す。ここで手を抜くと後で錆びる原因になるからな」


彼は特に水の勢いを弱め、隅々まで丁寧に洗い流していく。誠もその動きを目で追いながら、洗浄機の扱い方を学んだ。


終わった頃には、全員びしょ濡れで、カッパの内側にたまった水が足元に滴り落ちていた。誠のゴーグルは曇り、髪は濡れて額に貼りつき、顔には疲労がにじんでいた。


「これが俺たちの仕事の、泥と水と鉄の戦いか……」


誠は静かに息をついた。匂いはポリ鉄の塩辛い匂いに混じって、水と油の匂いが混ざっている。決して美しいとは言えないが、ここに確かな仕事の誇りがあった。


「さあ、乾かして次の作業に備えよう」


藤巻が手早くカッパのファスナーを下ろし、ホースを片付け始めた。西谷さんも満足そうに頷く。


誠はカッパを脱ぎながら、まだ身体の芯に残る疲労感を感じていた。しかし、その疲れは悪いものではなかった。自分がここで働く意味をかみしめるような重みを持っていた。


この町の汚泥と汗と匂いに染まった日々の中で、誠は一歩ずつ確かな足跡を刻んでいく。


鉄の鼓動は今日も、彼らの手の中で脈打っていた。


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