第四十二章「崩れる構図」
四月中旬、鶴士山市議会に一本の資料が提出された。差出人は元市議会議員・難波江欣一。件名は「市発注業務に関する癒着構造の指摘と再調査の請願」。添付資料は百ページを超え、関係者の名簿、過去五年間の委託契約履歴、入札参加企業とその役員の交友関係、そして匿名の証言が綴られていた。
その中には、田村がかつて所属していた処理施設の契約記録も含まれていた。名義上は透明な一般競争入札でありながら、実際には常に同じグループ企業が落札していた。そして、契約更新の裏で、接待と献金が横行していた実態が明るみに出る。
役所の朝は騒然としていた。下水道課の課長が臨時朝礼で顔を強張らせながら言う。
「本日、議会から正式に再調査要請がありました。関係する部署は速やかに資料の提出を……とにかく、誠意ある対応を」
田村は静かに課長の背中を見つめていた。かつて自分がいた泥まみれの現場、その中で見た副所長の苦悩、所長の怠惰、そして同僚たちの葛藤が、いま一つの“構造”として暴かれようとしている。
「田村君、少し」
係長に呼ばれ、別室に通される。
「……前の職場について、議会からヒアリング要請が来てる。君の意見を聞きたいってさ」
「……俺で、いいんですか」
「現場を知っているのは君だけだからね。いやなこともあると思うけど、正直に話してほしい」
翌日、田村は議会の特別調査室に足を運んだ。質問に立ったのは、無所属の女性議員。名刺には「市民の声をつなぐ会」代表とあった。
「田村さん、正直にお答えください。過去の施設運用に、不適切な対応があったとお考えですか?」
田村は深く一礼し、答える。
「はい、ありました」
一瞬、室内の空気が凍る。
「水質分析結果の改ざん、副所長の指示による薬剤使用量の虚偽報告、そして所長の……勤務中の逸脱行動。すべて、自分の目で見ました」
「それをなぜ、当時告発しなかったのですか?」
田村は目を伏せた。
「それが“当たり前”になっていたからです。誰も声を上げず、俺も……そういうものだと、思っていました」
議員は無言で頷いた。
「ありがとうございました。あなたの証言は非常に重要です」
翌週、鶴士山市議会の臨時本会議で、再委託契約の一時凍結が可決される。市長は苦渋の表情でコメントを出した。
『行政と民間企業との健全な関係性の再構築を目指し、調査の結果を待ちたい』
一方、市役所内では張り詰めた空気が続いていた。関連部署では連日夜遅くまで資料整理と報告書作成が続く。
「田村、お前、よく言ったな」
下水道課の古株が背中をぽんと叩いた。
「現場上がりの人間が声を出すって、簡単なことやない。偉いわ」
「……ありがとうございます」
だが、田村は内心で迷っていた。仲間を裏切ったのではないか、という自責が心を締め付けていた。
ある夜、藤枝から電話が来た。
『お前、議会で証言したってな』
「……うん」
『ようやった。誰かが言わな、何も変わらへん。俺も、あの現場で何度も迷った。でもな、お前が声あげたんは、みんなの代わりや』
田村は受話器の向こうで涙をこらえた。
「ありがとう、藤枝さん」
五月初旬。難波江欣一が再び市役所を訪れる。
「田村君、動いてくれてありがとうな。議会もメディアも、ようやく目を向け始めた。だが、まだや」
欣一は、机に新たな資料を広げた。
「次は、他都市との連携や。この構造は鶴士山だけの問題やない。全国的な委託事業の再編が必要になる」
「それ、本気でやるんですか」
「わしの人生、もうそんなに長ない。でもな……最後に一発、やったるつもりや」
田村は静かに笑った。
「じゃあ俺も、ついていきますよ」
「期待しとるで」
その日、田村は役所の屋上から市内を見下ろした。陽は高く、空は広かった。
その光の下で、構図は音を立てて、崩れ始めていた。




