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第三十九章「氷雨と残響」


年が明けても寒さは一向に和らぐ気配を見せなかった。


一月上旬、岡山の空はどんよりとした雲に覆われていた。冷たい雨が、タンクの鉄板を無慈悲に叩き続ける。気温は二度。雪に変わるほどの冷え込みではないが、雨粒が身体を刺すように冷たい。


中央監視室の窓から外を見つめる田村の頬に、窓枠から漏れた冷気が刺さる。


「さむ……」


吐き捨てるような独り言。だが、寒いのは身体だけではなかった。


田村は来年度から市役所に入庁することが決まっていた。だがそれまではまだ三ヶ月以上ある。副所長のデータ改ざん、難波江の暴走と退職、所長の更迭。職場は今、薄氷の上を歩いているような状態だった。


「……なあ田村」


大西が中央監視室に入ってきた。手に持ったUSBメモリをヒョイと振ってみせる。


「この間のあれ、まだ残ってたわ」


「あれって……パチンコ?」


「せや。社用車のドライブレコーダー、バックアップとってたやつ」


「もう済んだ話やろ」


「いや、念のためや。いざって時のな」


田村は苦笑した。大西は飄々としているが、芯の部分で何かを見ている男だった。


その日の業務日誌を記入し終え、田村はジャケットを羽織って外へ出た。氷雨が頬を打ち、耳をかすめた。煙草を一本くわえたが、風で火がつかない。


「……クソが」


ライターを懐にしまい、構内を歩く。副所長の執務室の前を通り過ぎると、薄く開いた扉の隙間から、怒鳴り声が聞こえた。


「……だから! そういうことじゃなくて……こっちが責任取らされるんやぞ!」


副所長の声だった。電話越しの相手は本社だろうか。今、彼の立場もまた危うかった。


データ改ざんの件は、現場で共有されたが、正式な処分はまだ下されていなかった。副所長は「これからはちゃんとやる」と口にはしたが、目はどこか泳いでいた。


所内には空気の隙間に、見えない緊張が張りついていた。



藤枝は、メンテナンス室の隅でバルブの分解作業をしていた。


「よっ……っと」


油まみれのパッキンを取り外しながら、田村に気づいて顔を上げる。


「おー、おつかれさん。雨、きついなあ」


「ですね。今日は昼で止むらしいですけど」


「そやけど、なんやろな。この寒さ。骨まで来るわ」


藤枝は作業を止め、工具を並べ直しながらぼそりと呟いた。


「……難波江のこと、まだ引きずってる奴おるみたいやわ」


「誰ですか?」


「藤巻や」


意外な名前だった。藤巻は、表向きは明るく無難な性格だが、職場の動揺やこれからの不透明な情勢に心を揺らしていた。


「……もしかして、なにかあったんですか」


「直接は聞いてないけどな。藤巻、難波江とある程度距離置いとったけど、気にしてるんやろな」


田村は無言で頷いた。


組織というものは、何かが壊れた後、崩れるのではなく、静かに溶けていく。


雨は弱まる気配を見せず、冷たく、しつこく降り続いていた。


構内の歩道は濡れ、所々に水溜りができている。足元の長靴に跳ね返る水音が小さなリズムを刻む。


田村は雨具のフードを深く被り、手袋の指先でスマートフォンの画面を操作した。市役所入庁までの三ヶ月余りの期間、時間はあり余っているようで、実は瞬く間に過ぎていく気がしてならなかった。


彼の頭の中には職場のことがぐるぐると巡っていた。副所長のデータ改ざん問題は一件落着したとは言い難く、どこか不気味な余韻が残っている。難波江の暴力事件もまだ尾を引いていた。職員たちの間にはひそかな緊張と、いつ壊れてもおかしくない脆さが漂っていた。



副所長の執務室からは依然として電話の声が聞こえてくる。だが、それは以前のような堂々たる指示の声ではなく、どこか押し殺したような、弱々しい声だった。


田村はその声に耳を傾けながら、冷え切った手を机の下で擦り合わせた。


「こんな職場、いつまで続けられるんだろうか」


彼の胸に漠然とした焦りが広がる。だが、残された時間はもう少ない。春の新しい環境に向けて、気持ちを整理しなければならなかった。



一方、藤枝は機械室の片隅で静かにモーターのメンテナンスを続けていた。表情は硬く、言葉数も少ない。彼の眼差しには疲労と諦めが交錯していた。


「今年もきっと、いろいろあるんやろな……」


小さく呟き、油まみれの手を拭った。



西谷は工具を持つ手を止め、窓の外を見やった。冷たい雨が夜の闇に紛れ、細かな霧のように舞い上がっていた。


「……みんな、よー頑張っとるわ」


自分に言い聞かせるように言ったその声は、いつもの厳つい印象とは裏腹に、どこか優しさを含んでいた。



藤巻は事務室の自席で、重ねてきた帳簿を静かに見つめていた。


「これから、どうなるんやろな……」


彼の瞳はどこか遠くを見つめていたが、確かにここにある現実から目を逸らしているわけではなかった。



大西はいつものように飄々とした笑みを浮かべながらも、その眼はどこか鋭く、何かを見据えていた。


「表向きは平和やけど……水面下で動いとること、よう分かっとるわ」


その言葉に含まれる重みは、周囲の誰にも伝わっていなかった。


年明けの冷たい雨は止む気配を見せず、職場の空気は凍てついたままだった。

しかし、その中にも確かに未来へと向かう小さな息吹が潜んでいることを、田村はまだ知らなかった。


ある日の夕方、冷たい雨がやっと小降りになった頃。田村は中央監視室の席に戻り、モニターに映る施設の様子をじっと見つめていた。


機械の稼働状況は平穏そのもの。だがその画面の向こうにある現実は、どこか張り詰めたものが漂っている。


「……やっぱり、変わらなあかんのやろな」


呟いたその声は、外の雨音にかき消された。



その夜、副所長の執務室に一人、田村は足を運んだ。


「副所長、ちょっと話が……」


扉の隙間から漏れる灯りの下、副所長は書類に目を通していたが、顔を上げると目の下に深いクマが刻まれていた。


「田村……わざわざすまんな」


「今の職場のこと、いろいろ考えています。副所長は……どう思いますか?」


副所長は苦笑いを浮かべた。


「正直、しんどい。けど、ここを何とかせな、職員も利用者も守れん」


「……でも、改ざんはどうなんですか? あれは……」


「なあ、田村。あれは、俺の責任や。言い訳はせん。これからは、ちゃんとやるつもりや……」


だが、その目にはかすかな迷いが揺れていた。



翌日、大西から田村に連絡があった。


「ちょっと集まろうや。話したいことある」


中央監視室に集まったのは、田村、藤枝、西谷、藤巻だった。


大西は重い口調で言った。


「所長の件、みんな知っとるやろ? あのパチンコの話や」


「そやけど、今さらあんなことが明るみに出て、どうせ大変なんは俺らやろな」


藤巻がため息交じりに言った。


「来年度、また変わるんかな……」


西谷は厳しい表情で頷いた。


「こんな職場、やっとれんて思うやつも増えるやろな」


田村は皆の視線を見回しながら、静かに言った。


「俺も含めて、今の状況でできることをやるしかないと思う」


皆の表情は重いが、どこか決意の光も宿っていた。



その後の数週間、職場には小さな変化が訪れ始めた。


副所長は以前よりも目立たぬように動き、ミスの確認や報告には細心の注意を払った。難波江の件もあって、職員同士の連携が少しずつ強まっていった。


田村は市役所への入庁準備を進めつつも、残された時間でできる限り職場を支えようと努めた。


冬の終わりが近づき、凍てつく空気の中に春の兆しがほんのりと混じり始めていた。


田村の胸には、新しい季節とともに訪れる変化への期待と不安が入り混じっていた。


「まだ終わってへん。俺も、ここでできることをやろう」


彼の決意は固まっていた。


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