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第三十一章 勤務中の勉強は許される。この職場に未練はない...


六月の雨は、しばらく前から止んでいた。し尿処理施設の敷地に伸びる舗装路の上には、まだ濡れたあとが地図のように残り、ひんやりとした空気が朝の構内を満たしていた。


田村はいつもと変わらぬ時間に施設へ到着し、タイムカードを押すと、制服の襟を軽く直して中央監視室へ向かった。中には既に藤枝がいたが、椅子に座らず、機械室の図面を机に広げていた。


「おはようございます」


「おう、田村。お前、昨日も遅うまで残ってたんちゃうか?」


「いや、少し勉強してただけです」


「またあの公務員試験か?」


「……はい」


藤枝は図面の端を指でトントンと叩いた。


「すげぇな、お前。俺も昔、何かになろうとしてた気がするけど……気づいたら、こうや」


そう言って笑ったが、その目の奥にはわずかな翳りが見えた。


田村は、試験勉強を自分の生活の一部として静かに取り入れていった。

仕事の合間、トイレ清掃の合間、点検記録の記入の合間。昼休みには職員休憩室の隅で、白い参考書を開いた。昼寝する藤枝のいびきが響くなか、文章理解の問題を繰り返した。


難波江は田村が何かをしていることに気づいていたが、何も言わなかった。ただ、無言で視線を送る。その視線の温度は、じりじりと低かった。


副所長の佐野もまた、近頃はあまり話しかけてこない。以前のように懐柔的な態度も消え、資料の確認や検査数値の修正だけを命じてくる。


「この数値、0.02に直しといてくれる?」


「でも、実測は0.08ですよね」


「誤差の範囲や。そういうもんや、書類なんて。俺が責任とるから」


そう言い放つ佐野に、田村はもう何も言わなかった。かつては心のなかで激しい怒りが燃えていたが、今は違った。

怒りの代わりに、冷えた決意のようなものが自分の胸に沈んでいた。


(ここはもう、長くいる場所じゃない)


七月に入り、通勤路の空は夏めいてきた。

山陽道を通って岡山から施設までの車通勤のあいだ、田村はよくラジオを流していた。試験情報番組、ニュース解説、合格体験談……。聞きながらメモをとることはできないが、繰り返し耳に入れることで、内容が身体に染みていく気がした。


家では、早朝に起きて新聞を切り抜いた。

中国地方の豪雨被害、地方自治体の再編、地域の観光促進と過疎問題。すべてが市役所試験の時事問題のためだった。

以前はこうした記事を流し読みにしていたが、今は違った。

読みながら、自分がいつかその記事の内側に立つことを想像していた。


(俺は……次の景色を見たい)


ある日、監視室で藤枝が言った。


「そういや、大西、今週いっぱい休むらしいぞ」


「え?」


「なんか、検査で引っかかったとかどうとか……本人は『ちょっとヒリヒリするだけや』言うてたけどな」


「……あの人は……まあ、うん」


藤枝は笑いながら、資料の上に紙コップの麦茶を置いた。


「田村。お前、ほんまに試験受けるんやな」


「……はい。受けます」


「なあ、ぶっちゃけ、怖ないんか?」


「怖いです。めっちゃ怖いです」


「ならやっぱやめた方が……」


「……でも、ここで辞めたら、一生ここで止まってまう気がして」


藤枝は口を閉じた。静かな沈黙が流れ、外のセミの声だけがやけに大きく響いた。


「そっか。……そっか。お前、えらいな」


「えらないですよ」


「いや、えらいわ」


その日の昼、田村は冷房の効いた事務所の一角で、地元自治体の要綱を読み込んでいた。

面接の想定質問、自分の経歴の棚卸し、志望動機の添削。

時間は足りなかった。勉強するたび、自分がどれほど何も知らなかったかに気づかされた。


「なあ田村、最近話しかけても無視することあるぞ」


難波江がふと背後から言った。


「すみません、ちょっと集中してて」


「……ふん」


不満げに鼻を鳴らして立ち去る難波江の背中を、田村は追わなかった。


(俺はもう、ここの勝負に興味がない)

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