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第三十章 夜の街の代打ち


「田村くん、試験前やろ? ここらで一発、抜いといた方がええぞ」


昼休憩、エアコンの効いた休憩室にて、大西の声が響いた。


唐突すぎて、藤枝が持っていたポカリのペットボトルを「ぶほっ」と吹いた。


「なんやその理屈……」


田村は苦笑いを浮かべたが、大西は本気だった。眉間に皺を寄せ、やけに深刻そうな顔で続けた。


「溜め込んだもんは、どっかで出しとかな。試験会場で脳みそに変な血流がいってもうたら終わりや。田村君の未来のためを思て言うてるんや」


田村は静かにお茶をすすった。少しも動じない。


「いや、やめとくわ」


「奢ったる。な、奢ったるて」


「いや、行かんて」


田村の返答は乾いていた。真夏のアスファルトのように、情け容赦なく乾いていた。


大西はしばらく口をもぐもぐさせたのち、しぶしぶ引き下がる。


その隣で、藤枝がポカリをテーブルに置いて身を乗り出した。


「それ、ワシが行ったらアカンのか?」


大西はパッと顔を輝かせた。


「お前、行くんか? 真剣に?」


「真剣て、風俗で真剣ておかしいやろ。まあでも、たまにはな。夜の風を浴びに行くのも悪くないやろ。涼みに」


田村は口の中で「風浴びるだけで済むかいな」と呟いたが、声には出さなかった。


午後の中央監視室は、妙な静けさに包まれていた。藤枝が何やら鼻歌まじりで日報を記録しており、大西は顔をにやけさせながらスマホをつついていた。


田村はモニター越しの水槽の泡をぼんやり見つめていた。自分は正しい判断をした。たぶん。たぶんだ。



「田村くん、なあ……たまには、羽伸ばしたらどうや?」


仕事終わりの夕暮れ時、中央監視室の片隅で、突如大西が声を潜めて囁いてきた。


「羽?」


「いやな、ちょっとええとこ知ってんねん。わしの知り合いがやってるとこで、あったかい接客があるとこや。なに、財布は気にせんでええ。今夜はわしが持つ」


大西はニヤリと笑ってウィンクをした。その目は異様に潤っていた。田村は背筋に微かな寒気を感じた。


「いや……。すみません。ちょっと、今日は……」


「ええからええから。付き合いいうのはな、こういうときにこそ深まるんやって」


「ほんまに、すみません」


田村は軽く頭を下げた。大西の肩が、わずかに揺れた。


「ふうん。まあ、ええけどな。あんたも堅いのう。田村くんはもっと、こう、人生を味わってもええんちゃうか?」


「……味わういうても、受験勉強もありますし」


「そっか、受験……ああ、市役所のな。まあ、がんばりや。お堅い世界に行くには、それぐらいのガードは要るわな」


不満げに唇をとがらせた大西の肩を、藤枝がぽんと叩いた。


「じゃあ、わしが代わりに行こうか」


「えっ、マジで?」


「せっかくの誘いやろ。こんな田舎町で、たまには新しい刺激が欲しいねん」


藤枝は頭にタオルを巻いたまま、作業服で豪快に笑った。


「田村、お前はお前で健全に過ごせ。わしらはわしらで、夜の社会見学や!」


「……気をつけてくださいよ、ホンマに」


「心配するな! 見学っちゅうても、こっちは実技講習や!」


「なにを言うてんのや……」


田村は小さく笑いながら、夕日に赤く染まる敷地のフェンス越しに藤枝たちの背中を見送った。


夜が更ける頃、田村は机の上で参考書を開いていた。市役所採用試験対策の問題集。文章理解、数的処理、時事問題。


しかし頭にはなかなか入ってこなかった。机の端には冷めた麦茶と、開きっぱなしのシャープペンシル。ページの余白に、何度も書き直した図形問題の跡が残っている。


(ほんまに受かるんか、俺……)


何度もそう思いながら、それでもページをめくった。やるしかないのだ。今のままでは、ただ疲弊するだけだった。


翌朝。いつもよりほんの少し遅れて、中央監視室に藤枝がやってきた。


「……ん?」


「おはようございます」


「おう、おはよう」


だが、その足取りはどこかぎこちない。椅子に座るや否や、腰をずるっと滑らせるように浅く座り、額には妙な汗を浮かべている。


「なんか……体調悪いんですか?」


「いやなあ……ちょっと、昨日な、冷房に当たりすぎたんかもしれん」


「……はあ」


藤枝は口元を押さえて小声でつぶやいた。


「……大西のやつ、アイツ何考えてんねん……」


「何かありました?」


「いや、なんでもない。夜の社会見学ってのは、まあ、そう簡単には文化勲章、もらえへんっちゅう話や」


田村はそれ以上、深くは聞かなかった。


その数分後、大西が鼻歌交じりでやってきた。


「おっはよーさん。いやあ、昨日は楽しかったなぁ。藤枝くん、人生勉強できたやろ?」


藤枝は無言で首を振った。


「なんかこう、違う世界を覗いた感じしたわ……」


「まあまあ。男に生まれたからには、一度はな? そういうもんや。田村くんも、今度またな?」


「いや……結構です」


「ケッ、もったいない。おいらの時代はなあ、これが通過儀礼やったんやけどなあw」


それきり、大西は自席でガリガリと朝の点検記録をまとめはじめた。


数時間後、騒動は再び始まる。


「うわ……あかん……かいぃ……」


大西が独り言のようにつぶやきながら、腰を浮かせてモゾモゾとしている。


「どうしたんですか」


「なんか、虫にでも刺されたんかなあ……かゆうてしゃあない……」


田村は藤枝と顔を見合わせた。


「しばらく、座ってられんわ……ああ、たまらん……」


その日、大西はペットボトル片手に、椅子の上で微妙なポジションを取りながら、奇妙なうなり声を断続的に漏らし続けた。


誰も何も言わなかった。


職場には、いつもの蛍光灯の光が、白く冷たく降り注いでいた。

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