第二十九章 静かなる決意
田村誠の通勤車は、朝の岡山の街をゆっくりと進んでいた。少し湿ったアスファルトが朝日を反射し、街路樹の葉は涼やかな緑色をたたえている。季節は夏の真ん中。蝉の声は五月蠅いが、どこか秋の予感が混じっていた。
運転席の田村は、ハンドルを握りながら小さくため息をついた。試験まで約1ヶ月。毎日の業務と勉強の両立は思った以上にきつく、時折自分の無力さに打ちのめされそうになる。だが、今は耐えるしかない。
「俺が変わらなきゃ、何も始まらない」
そんな思いを胸に、田村は今日もいつもの管理事務所へ向かう。
車窓から見える風景はどこまでも平凡だった。通り過ぎる住宅街、通学する子どもたち、出勤途中のビジネスマン。誰もが当たり前の毎日を生きているように見える。
しかし、田村の胸の内は違った。
「みんなは自分の居場所を持っている。俺は……」
心の中でモヤモヤとした不安が渦巻く。大卒の新入社員・小森雅也との給与格差の話が頭から離れない。彼は自分が抱える現実の重さを、改めて痛感していた。
信号待ちの間、田村はふと助手席のカバンに目をやる。そこには公務員試験の参考書や問題集がぎっしり詰まっている。これらが自分の未来を切り拓く唯一の希望。
だがその一方で、現場の仕事と職場の人間関係の重圧が、日々の心身を徐々に蝕んでいくのも確かだった。
管理事務所に着くと、既に職員たちは準備を始めていた。朝礼の声が小さく響く。
「おはようございます!」
田村も元気よく声を出すが、どこかぎこちない。朝礼の最後に副所長の佐野が目を光らせながら全員を見渡す。
佐野は、どこか冷たく、威圧的な雰囲気を漂わせる人物だった。
「田村、今週の作業予定表にミスがあった。気を付けろ」
短い言葉だが、そのトゲは職員たちの緊張を一気に高める。田村は軽くうなずき、ミスの箇所をすぐに訂正した。
彼の中には反発心もあったが、今は波風を立てるべきではないと自制した。
午前中の作業は、施設内の機械点検や水質チェックなど、ルーティンワークが中心だ。
田村は黙々と作業に取り組むが、背後から声がかかる。
「おい、田村。勉強ばっかりしてて現場が見えてるのか?」
振り返ると、難波江がにやりと笑っていた。
「無理するなよ。ここで結果出しても、どうせ給料は変わらねえんだから」
その言葉に苛立ちを覚えた田村だったが、あえて無視を決め込んだ。
「彼は佐野に気に入られているから、余計に言いやすいんだろうな……」
心の奥でぼやきつつも、田村は集中を切らさず仕事を続けた。
昼休み、給湯室で一人カップラーメンをすすりながら、田村は公務員試験の問題集を広げていた。
そこへ難波江が現れる。
「試験の勉強か?偉いな。でもな、俺らみたいな現場の奴はなかなか報われねえんだよ」
田村は真剣な目で難波江を見る。
「そうかもしれない。でも、俺は変わりたいんだ。もっといい環境で働きたい」
難波江は少し驚いた表情を見せたが、やがて薄く笑った。
「なら、がんばれよ」
彼の言葉にはほんの少しの尊敬が混じっていた。
夕方の業務は、点検作業や書類整理などで慌ただしい。
田村は書類に目を通しながら、時折佐野の動きを警戒する。
「今日の報告書、細かくチェックされそうだな……」
案の定、佐野は報告書の不備をいくつも指摘し、厳しい口調で注意した。
「お前は試験のことばかり気にして、現場がおろそかだ。バランスを考えろ」
田村は心の中で葛藤した。
「試験も大事だけど、現場の仕事も疎かにはできない……」
その板挟みに苦しみながらも、彼は必死に両立を目指した。
6. 帰宅後の孤独な勉強
夜、自宅の小さな書斎にこもり、田村は問題集と向き合った。
窓の外には街灯がぽつりぽつりと灯り、遠くからは虫の声が聞こえる。
疲労で重くなった目をこすりながらも、彼はページをめくる手を止めなかった。
「俺には未来が必要だ」
そんな思いを胸に、田村は文字通りの孤独な戦いを続けていた。
職場では、田村の変化に気づく者もいた。だが、多くは遠巻きに見ているだけだった。
そんな中、藤枝が声をかけてきた。
「田村、お前頑張ってんな。無理すんなよ」
その一言が、田村には何よりも励みになった。
ある日の終業間際、佐野が田村を呼び止めた。
「田村、お前はまだ若い。だが現場をなめるな。試験が終わるまでおとなしくしていろ」
その言葉は脅しのようだった。だが田村は負けなかった。
「わかっています。でも、俺は変わりたいんです」
佐野は一瞬だけ言葉に詰まったが、表情を引き締めて去っていった。
田村の心は揺れ動きながらも、一つの決意で満たされていた。
「どんなに困難でも、俺は諦めない」
彼の未来への歩みは、まだ始まったばかりだった。




