表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/55

第二十八章 格差の直訴


田村は、その日の朝から気が立っていた。


前日、合同訓練でし尿処理施設を訪れた小森雅也――姫路管理事務所の新入社員――との会話が、心の中で何度もリフレインしていた。つるんとした顔の小森は、人懐こい笑顔で無邪気に言ったのだ。


「いやー、田村さん、ここの設備すごいっすね!僕、浄水場の運転なんですけど、こっちは匂いも強烈で大変そうだ……。でも、やっぱインフラって大事だなって再認識しました」


田村は、やや誇らしげに施設内を案内していた。沈殿槽、曝気槽、消毒設備……。慣れた口調で、簡素に、だが丁寧に説明をした。


「ま、うちは汚いだけが取り柄やからな」


冗談めかしたつもりだったが、小森は思いがけず真顔で返した。


「でも給料、案外いいって聞きましたよ。僕も今22万くらいなんですけど、処理系って割と高いんじゃないですか?」


その瞬間、田村の時が止まった。


「……22万?」


「あ、はい。基本給と手当合わせて、ですね。研修期間終わったんで、もうフルでもらってます」


田村は、ごくりと唾を飲み込んだ。


自分の給与明細が、頭をよぎる。手取り16万。差し引かれる保険、税金、残業代を加えても、額面はせいぜい18万が関の山。手当は資格手当の1万と通勤費のみ。ボーナスも寸志程度。


「ほな、あんた、大卒か?」


「はい。神戸教規

田村は、無理やり笑みを作った。


「そら、すごいな。ええとこ出とるやんけ」


小森はあっけらかんと笑った。


その夜、田村は給料明細を何度も見直した。高校を出て地元の工場で働き、数年のブランクを経て今の会社に再就職した自分。現場で汗をかき、トラブル対応に奔走し、土日も当番で出勤している。あの新卒の若造と、なぜ6万円もの差があるのか。


悔しさと惨めさが混じり合い、田村は眠れなかった。


翌朝、田村は意を決して、所長室の扉をノックした。


「……失礼します」


「おう、田村くん。どうしたんや?」


山村所長は、年配の穏やかな男だった。声をかけると、目を細めて振り向いた。


「ちょっと、相談というか、話がありまして」


田村は腹をくくった。


「昨日、合同訓練で来てた姫路の小森って子……新卒の子なんですけど。あいつの給料、22万って言ってました。で、俺は16万なんです」


山村は、苦笑とも溜息ともつかない声を漏らした。


「……そうか」


「おかしいと思いませんか。俺は中途で入って、高卒やけど、でも現場歴も長いし、資格も持ってるし。なのに、6万も差があるのは……」


田村は、声を震わせまいと努めた。


「給料、見直してもらえませんか。せめて、せめて少しでも」


山村は書類の山から顔を上げ、机に肘をついた。


「田村くん」


その声は、静かで、しかし明確だった。


「そら、気持ちはわかる。でもな……仕方ないやろ」


「……どうしてですか」


「そら、お前は高卒で、中途で、地元採用や。小森くんは大卒で、新卒で、正社員枠や。入社時点から待遇がちゃうのは、どこの会社も同じや。そやからって、こっちが変えられるもんやない」


田村は唇をかんだ。


「俺は、頑張ってるつもりです。誰よりも早く来て、現場の整備もやって……。でも、評価もされへん。給料も上がらん。こんなに差があるなら、やってられませんよ」


「……」


「市役所の採用、受けようと思ってます。そっちの方が、まだ公平やと思えるから」


山村は、腕を組んでしばらく黙った。


「……ええんちゃうか」


「え?」


「お前にそれだけの気概があるなら、チャレンジしたらええ。ただな、世の中、そんなに甘くないぞ。公務員やいうても、給料は横並びやし、上がるのも遅い。下手したら今より厳しいとこもある。役所なんて、いろんな人間のおる世界や」


「それでも、自分は……」


「……わかった。俺は止めん。でもな、ひとつだけ言うとくぞ」


所長は、机を指でとんとんと叩いた。


「今、正社員で、社会保険ついて、ボーナスも少しある。15年前の不況のときやったら、契約社員ですら入られへんかった職場や。それを『当然』と思ってるなら、お前は世の中知らん」


田村は、唇を真一文字に結んだ。


「……すみませんでした」


所長はそれ以上何も言わず、書類に視線を戻した。


——わかってる。正論や。でも、それでも、俺が納得できる訳ねかろうが。


所長室を出ると、田村は屋上の喫煙所へ向かった。風が強く吹いて、煙草に火がつかない。


その手の中で、小さな火種がくすぶっていた。もう、ここでは変われない。変わるには、自分が動くしかない。


手帳を開き、田村は一行、こう書いた。


《絶望は、行動のはじまり》


その文字は、煙とともに、空へと溶けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ