第二十八章 格差の直訴
田村は、その日の朝から気が立っていた。
前日、合同訓練でし尿処理施設を訪れた小森雅也――姫路管理事務所の新入社員――との会話が、心の中で何度もリフレインしていた。つるんとした顔の小森は、人懐こい笑顔で無邪気に言ったのだ。
「いやー、田村さん、ここの設備すごいっすね!僕、浄水場の運転なんですけど、こっちは匂いも強烈で大変そうだ……。でも、やっぱインフラって大事だなって再認識しました」
田村は、やや誇らしげに施設内を案内していた。沈殿槽、曝気槽、消毒設備……。慣れた口調で、簡素に、だが丁寧に説明をした。
「ま、うちは汚いだけが取り柄やからな」
冗談めかしたつもりだったが、小森は思いがけず真顔で返した。
「でも給料、案外いいって聞きましたよ。僕も今22万くらいなんですけど、処理系って割と高いんじゃないですか?」
その瞬間、田村の時が止まった。
「……22万?」
「あ、はい。基本給と手当合わせて、ですね。研修期間終わったんで、もうフルでもらってます」
田村は、ごくりと唾を飲み込んだ。
自分の給与明細が、頭をよぎる。手取り16万。差し引かれる保険、税金、残業代を加えても、額面はせいぜい18万が関の山。手当は資格手当の1万と通勤費のみ。ボーナスも寸志程度。
「ほな、あんた、大卒か?」
「はい。神戸教規
田村は、無理やり笑みを作った。
「そら、すごいな。ええとこ出とるやんけ」
小森はあっけらかんと笑った。
その夜、田村は給料明細を何度も見直した。高校を出て地元の工場で働き、数年のブランクを経て今の会社に再就職した自分。現場で汗をかき、トラブル対応に奔走し、土日も当番で出勤している。あの新卒の若造と、なぜ6万円もの差があるのか。
悔しさと惨めさが混じり合い、田村は眠れなかった。
翌朝、田村は意を決して、所長室の扉をノックした。
「……失礼します」
「おう、田村くん。どうしたんや?」
山村所長は、年配の穏やかな男だった。声をかけると、目を細めて振り向いた。
「ちょっと、相談というか、話がありまして」
田村は腹をくくった。
「昨日、合同訓練で来てた姫路の小森って子……新卒の子なんですけど。あいつの給料、22万って言ってました。で、俺は16万なんです」
山村は、苦笑とも溜息ともつかない声を漏らした。
「……そうか」
「おかしいと思いませんか。俺は中途で入って、高卒やけど、でも現場歴も長いし、資格も持ってるし。なのに、6万も差があるのは……」
田村は、声を震わせまいと努めた。
「給料、見直してもらえませんか。せめて、せめて少しでも」
山村は書類の山から顔を上げ、机に肘をついた。
「田村くん」
その声は、静かで、しかし明確だった。
「そら、気持ちはわかる。でもな……仕方ないやろ」
「……どうしてですか」
「そら、お前は高卒で、中途で、地元採用や。小森くんは大卒で、新卒で、正社員枠や。入社時点から待遇がちゃうのは、どこの会社も同じや。そやからって、こっちが変えられるもんやない」
田村は唇をかんだ。
「俺は、頑張ってるつもりです。誰よりも早く来て、現場の整備もやって……。でも、評価もされへん。給料も上がらん。こんなに差があるなら、やってられませんよ」
「……」
「市役所の採用、受けようと思ってます。そっちの方が、まだ公平やと思えるから」
山村は、腕を組んでしばらく黙った。
「……ええんちゃうか」
「え?」
「お前にそれだけの気概があるなら、チャレンジしたらええ。ただな、世の中、そんなに甘くないぞ。公務員やいうても、給料は横並びやし、上がるのも遅い。下手したら今より厳しいとこもある。役所なんて、いろんな人間のおる世界や」
「それでも、自分は……」
「……わかった。俺は止めん。でもな、ひとつだけ言うとくぞ」
所長は、机を指でとんとんと叩いた。
「今、正社員で、社会保険ついて、ボーナスも少しある。15年前の不況のときやったら、契約社員ですら入られへんかった職場や。それを『当然』と思ってるなら、お前は世の中知らん」
田村は、唇を真一文字に結んだ。
「……すみませんでした」
所長はそれ以上何も言わず、書類に視線を戻した。
——わかってる。正論や。でも、それでも、俺が納得できる訳ねかろうが。
所長室を出ると、田村は屋上の喫煙所へ向かった。風が強く吹いて、煙草に火がつかない。
その手の中で、小さな火種がくすぶっていた。もう、ここでは変われない。変わるには、自分が動くしかない。
手帳を開き、田村は一行、こう書いた。
《絶望は、行動のはじまり》
その文字は、煙とともに、空へと溶けていった。




