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第二十七章 合同訓練と給与格差


姫路管理事務所から来た若き運転員を迎える朝、し尿処理施設の敷地はいつもより静かだった。丁寧に刈り込まれた草むら、重厚な機械の前に散る油汚れの匂い、そして作業着のざらりとした肌触り──田村はいつもの光景に少しだけ緊張を覚えながら、門をくぐった。


「おはようございます。田村です。今日一日は、僕が案内しますのでよろしくお願いします。」


事務所の前に立っていたのは、すらりとした体躯に整った顔立ちの若者。名札には「小森雅也」とある。まだ社会人慣れしていない背筋の伸びが、田村には眩しくもあった。


「おはようございます。小森雅也です。姫路の浄水場から来ました。大卒で今年入社したばかりです。」

小森の声は落ち着いていたが、明らかに初々しさを含んでいた。


「そうですか。今日はこの施設の運転業務全体を、一日かけて体験してもらいます。まずは脱水機から行きましょう。」


二人は装備を整え、タンクレイアウトや凝集剤の扱い、網目の点検などを巡った。田村が説明するたびに小森は頷き、メモを取り、質問もていねいに重ねていく。彼の姿勢の真摯さが、田村の中に「自分もこうだったのか」という懐旧を蘇らせた。


「――クリスタルうんちと呼ばれる汚泥は、この後脱水され、助燃材になります。地味ですが、地域にとっては大切な資源です。」


田村は胸を張って言った。小森もうんうんと頷く。

脱水機前に立つ田村の背中には、自信と疲労が同居していた。

彼が「クリスタルうんち」と呼ぶフロックの塊。日々の脱水業務の成果——しかしそれを扱う苦労も彼は背負っていた。


「じゃあ、ここから始めますね……薬液注入のタイミング、網目の詰まりチェック、それから含水率の管理……」


小森は黙ってすべてを記憶しようとする表情だった。メモを取り、目を輝かせている。田村はそんな彼を見ながら、自身が忘れかけていた「熱」を少し思い出した。


一通りの訓練が終わると、二人は書類室へ移動した。ズラリと並ぶ試験データと記録帳。田村は紙をめくりながら説明する。


「こういうふうに、日々の分析結果や点検記録を残すんです。問題があれば遡れるように、ね」


小森も真剣に頷く。


「真面目にやれば、ちゃんと仕事の重みが見えるんですね……」


田村は頷き返し、つられて微笑んでいた。


脱水機の訓練を終え、二人は休憩室へ戻った。ごく簡素なスペースに、張り出された工程表と使用済みの紙コップ。午後の訓練に備えて、しばしの静寂が流れていた。


「田村さん、すごいですね……」

小森雅也が、小声で感嘆を漏らした。


田村は苦笑いしながらコーヒーを飲む。


「朝からずっと、同じ作業を繰り返すのは体力と集中力が要るけど、慣れると惰性になる。そこまで扱い慣れているかどうかの違いかな」


小森は軽く頷いてから、口を切り込んだ。


「質問してもいいですか……初任給って、どれくらいですか?」


田村は一瞬コーヒーの湯気に目を細めた。


「手取りで……十六万ちょっとですね」


小森は少し硬い表情になった。


「十六万……そうなんですか」


机の端を指で叩きながら、しばらく黙った。


「僕は大卒で、公務員試験を受けて……それで初任給は手取りで二十二万です」


静かな驚きの声だった。


訓練室に空気が吸い込まれるかのような沈黙が流れた。振り返れば、そこには隣の部屋で書類整理に没頭する職員たちの背中。会話が漏れないように、二人の声量は自然と抑えられた。


田村は目をそっと伏せた。


「二十二万……か」


小森は申し訳なさそうに言葉を続けた。


「大学を出て人員募集されたとき、勉強が大変でしたけど……でも、これくらいは覚悟してました。地元枠とは、やっぱりちがうんですね」


田村はコップをテーブルに置いた。周りの目を気にしつつ、少し口調をひそめた。


「うん……まぁ、そういうことかもしれん。大学卒業者と、高卒+地元採用枠では、給与体系や基準が違うんやろね」


だが声には、はっきりとした諦めと悔しさが混じっていた。


小森は田村の目を見て、ゆっくりと口を開いた。


「田村さんは、どうしてここを選んだんですか? 学歴的には、もっと高い待遇でもよかったはずですよね?」


田村はしばらく黙り、それからゆっくりと言葉を綴った。


「正直言えば、高卒枠は地元採用で警戒されにくいというか、若手でも扱いやすい、みたいな理由かな……それは当時の俺も意識してた。けど……その分、給料も脚に枠がはめられたように、どっか浅いところで収められた気がする」


震える声で続けた。


「でもな。俺はこの仕事が嫌いじゃない。しんどいけど、おとしめられてる気もしない。誰かがやるべき仕事だと信じてる。だから、ここで働いてる自分に誇りはある」


小森は静かに聞いていた。その面持ちには静かだが力強い共感があった。


午後、二人は配管の見回りに向かった。蒸した空気の中、滴る汗、鉄の匂い。田村はポイントごとに立ち止まり、小森に説明する。


「このポンプは、汚泥と水を分ける役割。もし詰まったり空転したりしたら、ここで異音がする。それを聞き分けるのは、職人気質の仕事だ」


手の動きはある意味で自然体だったが、言葉には疲弊と覚悟がにじんでいた。


小森は写真を撮りながら、何度も質問を返してきた。


「音が聞こえるって……具体的にはどんな違いなんですか?」


田村はため息をつきながら、子供に語るように言った。


「うーん……鋭い違和感があるというかさ。静かに動いてるはずの場所が、呼吸をしなくなる瞬間というか……」


小森は静かにうなずいた。


夕方、訓練が終わると小森は軽くお辞儀をした。


「田村さん、今日はありがとうございました。いろんな意味で勉強になりました……」


田村は穏やかに笑って答えた。


「こちらも教えるのに熱が入った。俺がやってきたことを、ちゃんと伝えられた気がして、嬉しかった」


だが、その胸中は静かに揺れていた。


夜、田村は自宅の蔵書の隙間に手帳を取り出して、今日一日のことを書き込んだ。


《小森に16万→22万を聞かれ、愕然》

《学歴の差、地元枠の壁》

《自分は何を信じてここにいるのか》

《市役所試験まであと三ヶ月》


ペンを止めると、天井を見上げた。


「俺はここで何を目指して……何を得るんや?」

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